egotop
Egoist
Mail
HomeAboutMainLinkLog&PresentBlog
Egoist 第一部 西苑の蝶
Kapitel1  寵姫
 リースルこと、マリア・エリザベート・フォン・ビュルガー男爵夫人は、帝国歴447年4月、帝都オーディンの市井で、パン工房を営む平民ボルン夫妻の長女として生まれた。
 夫妻にとっては第三子であり、それぞれ3歳と1歳年上の兄が二人いた。
 両親共に容貌も才知も平凡な人間で、彼女は間違いなく夫婦の実子だったが、遺伝子の組み合わせの妙というべきか、俗に言う「鳶が鷹を産んだ」娘だった。
 マリア・エリザベート・ボルンという名で、平民の娘として生を受けた彼女は、ゲルマン風のその名の慣例に従って、「リースル」の愛称で呼ばれ、物心つく頃から美しさと賢さが下町で評判だった。
 蒼く理知的に輝く瞳、緩くウェーブのかかったブルネットの髪に透き通る白い肌、ファッションモデルのような長身に長い手足の均整の取れた肢体。年頃になる頃には、その美しさは一層際立ち、両親の自慢の娘に成長して、密かに玉の輿を期待させたていた。
 しかし、リースル当人は、努力して手に入れたわけでもない自身の美貌にはさして関心がなく、15歳の誕生日を迎える頃には、自分の将来を医者になって自立することに決めていた。
 ルドルフ大帝以来の復古主義の影響で、女性の社会進出が著しく少ない銀河帝国ではあったが、ごく一部の専門職に限っては、辛うじて門戸が開かれていた。
 父親は、多少残念そうだったが、強く反対はせず、16歳で難関の医大の予科に合格すると、家族でささやかな祝宴を開いてくれた。
 一家の運命に陰りが射したのは、帝国歴464年2月、リースル17歳の時のことだった。
 この年、20歳になった長兄エドマンドが徴兵され、配属された最前線基地が叛徒の急襲に遭い戦死したのだ。両親は、店を継がせるつもりでいた長男の死に落胆し、家族は悲嘆に暮れた。
 運命の歯車が、静かに一ピッチ作動したのは、7月に入ったある日の夕刻だった。
 この日、リースルは、足を捻挫した父親に代わって、日課となっているオッペンハイマー子爵家に夕食用のパンを届ける役目を果たそうとしていた。
 オッペンハイマー家は、店から無人タクシーで10分ほど、新無憂宮に隣接した貴族の邸宅街にあり、祖父の代から出入りを許されていた。
 この私邸のお屋敷と、子爵家の経営するオーディン都内の3軒のホテルに、毎日焼きたての白パンを厨房へ届けることがボルン工房の日課であり、店の全売上の約7割を賄っていた。
 リースルの母は、昔この屋敷で小間使いとして働いていた縁で父と結婚し、結婚祝いに、現在の店舗兼住居の改装費を先代子爵から賜った。その意味では、オッペンハイマー家はボルン一家にとって大恩ある主家と言えた。もっとも、貴族にとっては、平民の使用人や出入りのパン屋など路傍の石に等しい存在で、リースル達が子爵様の記憶に留まっている様子はなかった。実際、父や兄が毎日屋敷を訪れても、屋敷の主人一家のご尊顔など、遠くから仰ぎ見る程度であるらしい。
 だが、この日、狩場から帰った子爵が、裏庭のシンクで手についた獲物の血らしきを洗い流していた時、勝手口を出ようとするリースルと偶然遭遇した。
 リースルは、突然目が合ってしまった老子爵に、慌てて平伏した。
 現当主のオッペンハイマー子爵は、この時60代半ば、白髪交じりの頭髪に、やや大柄で、年齢に似ず艶のいい顔をしていた。先代は、下働きや出入りの業者にも気さくに声をかけてくれる情のある人だったらしいが、跡を継いだ今の当主は、選民意識が強いのか、目下の者に対する態度が横柄で、リースルはちょっと苦手だった。
「そなた、ボルンの娘か?」
 珍しく、子爵の方が声をかけてきた。
「は・・・はい。左様でございます」
 リースルは、やっとの思いでそう応えると、更に頭を低くした。
「よい。苦しゅうない。面を上げい」
 子爵は、鷹揚に促すと、リースルは仕方なく、おずおずと頭を上げた。何か咎められるのではないかと気が気ではなかった。なにせ、子爵家の意向一つで、吹けば飛ぶようなパン屋などどうにでもなるのだから。
 しかし、顔を上げたリースルを見る子爵の目には、不快感はないようで、とりあえずそのことに安堵した。
「そなた、歳はいくつだ?」
 子爵は問いながら、尚も値踏みするように、リースルの顔を無遠慮に凝視した。
「17歳でございます。旦那様」
「うむ、そうか」
 子爵は、それだけ言うと、踵を返し、リースルを開放した。
 リースルの方は、とりあえず子爵様のご不興を買わずに済んだことにほっとしていた。 この当時、いかに聡明とはいえ、まだ世間ずれしていない学級肌の娘にとって、老獪な子爵の思惑を読み取ることは極めて困難であったのだ。


 翌日、オッペンハイマー子爵の使いと称する壮年の紳士が、ボルン家を訪れ、リースルの両親に思いもかけない話を持ちかけた。曰く「お宅のお嬢さんをオッペンハイマー家に迎えたい」との主人の意向を伝えに来たのである。
 父親は、話を聞いた途端、色をなして立ち上がった。いかに先代からの恩義があるとはいえ、リースルはまだ17歳の娘である。それを60を過ぎた子爵に妾奉公など、虫唾が走る。たとえ路頭に迷おうとも、娘を売る気はないと啖呵を切った。母親は、そんな夫のシャツの裾を心配そうに引っ張って、精一杯の静止を行う。
「いえいえ、それは誤解です。そういうことではございません。私の説明が足りませんでした。ヘル・ボルン。どうぞ、お気をお鎮め下さい」
 紳士は、両手を左右に振って低姿勢で否定しながら、リースルの父を宥めた。
「オッペンハイマー子爵は、こちらのお嬢様のご器量をいたく気に入り、ぜひ、当家の養女とし、貴婦人としての教育を授けた後、ゆくゆくは然るべき権門に嫁がせたいとのご意向なのです」
 ボルン夫妻は、絶句して顔を見合わせた。自慢の娘が見初められたことを喜んでのことではない。オッペンハイマー子爵が、単なる親切心でこのような申し出をするはずがないことくらい、無学な平民にも容易に理解できる。
 この当時、常に貴族や官吏の頭にあったのは、淫蕩で知られる皇帝の寵姫を身内から出し、自身や一族の栄達を図ることに他ならなかった。その為、親族に美しい娘がいない貴族が、身分を問わずこれはと見込んだ娘を養女として後宮に納めることは珍しくなかった。
 オッペンハイマー子爵家は、帝国で五指に入ると言われている権門リッテンハイム侯爵家の一門だが、貴族の中では中堅のごく平凡な家で、代々の当主は、軍人としても官吏としても顕職に就いた者はいなかった。
 現当主は高齢でもあり、半隠居状態だったが、跡を継ぐ予定の長男は、当時30代前半の男で、憲兵隊で准将の地位にあった。この年齢の門閥貴族の嫡男としては、格別高くも低くもない階級だったが、オッペンハイマー家としては、この男が出世の階段を登るのを悲願としていた。
 蛇足ながら、後年、家督を継承したこの男は、リースルの引き立てで、爵位を子爵から伯爵に格上げされたのを皮切りに、巧みな賄賂工作が功を奏して、非才の身でありながら、王朝の最末期には、憲兵総監の地位にまで登り詰める。しかし、栄華は短く、リップシュタット戦役後、宰相の座に就いたラインハルトに対して、著名な画家の絵を贈るという愚を犯して逆鱗に触れてしまう。結果、贈賄の現行犯で逮捕され、命こそ永らえたが、その後のオッペンハイマー家は、財産の殆どを没収され、歴史の表舞台から完全に姿を消した。
「あまり頭は良くない男だとは思っていたけど、ここまでバカだとは思わなかったわ」
 後日、形式上の“兄”の逮捕の報に接した時、リースルはそう言って嘆息した。


 当時、オッペンハイマー子爵夫妻には、この長男の他に娘が二人いたが、いずれも美貌とも豊麗とも言い難く、既に相応の相手に嫁いでいた。一族を見渡しても、他に手駒となり得るような娘はいない。そこで、白羽の矢が立ったのが、たまたま見かけた出入りのパン屋の娘リースルだった。しかも、執事の話を聞けば、美しいだけでなく、16歳にして難関の医大の予科に合格するほどの才媛という。この娘ならば、少し磨きをかければ、充分貴族令嬢として後宮でもやっていけるだろうと、老子爵は踏んだのだ。
 ボルン夫妻には、この話を受ければ、娘にどのような将来が待っているかが判っていた。
 建前としては、帝国人女性にとって、皇帝の寵愛を得ることは最大の幸福であり、娘が寵姫となることは、その親兄弟だけでなく一族郎党にとっても最高の栄誉であるとされていた。しかし、この当時、平民から大貴族に至るまで、この建前を額面通りに信じる人間は、流石に少なかった。
 凡庸、怠惰、暗愚、淫蕩・・・後世の歴史家のフリードリヒ4世評に、およそ賞賛の単語は見出せない。
 当時の彼は、豊麗な女性を好み、多数の愛妾との間に10人以上の子をもうけていたが、不思議と育たず、世継ぎとなり得る男子は、皇后が産んだ病弱な皇子が一人だけという状態だった。その為、一部の貴族達は、あわよくば次期皇帝の外戚の座を狙って、皇帝の嗜好に合う女性を次々と後宮に差し出していたのである。
 しかし、フリードリヒ4世の生来の気まぐれな性質からか、長く寵愛を独占し得た女性は、この時点では絶無であった。彼女達は皆、皇帝の一時的な快楽の奉仕者として、長くても1、2年、短い時は一日で飽きられて捨てられ、その後の人生は、この時代の帝国の復古主義的価値観に因って、“傷モノ”として日陰に生きることを余儀なくされた。
 男女同権を建前とする自由惑星同盟やフェザーンと違い、女性を男性の従属物として扱う傾向の強い帝国では、処女性が非常に重んじられた。
 確かに、皇帝の寵を得ることができれば、オッペンハイマーの野心は達成されるだろうが、いかにリースルが類稀な美貌と才知を誇ろうとも、思惑通りに事が運ぶ保障はどこにもない。何より、事が上手く運ばなかった場合の彼女のその後の人生を、両親は悲観したのである。
「でも、うちのリースルは、まだ子供で、しかもあの通り痩せっぽちな娘ですよ」
 母親は、そう言って、暗に娘が皇帝の嗜好とは異なるタイプであり、性的にも成熟していないことを示唆して、この話を平和裏に終わらせようと試みた。
 表面的にはあくまでも「打診」だったが、門閥貴族が平民に対して行うそれなど、命令に等しかった。
 もし、ボルン家がこの申し出を固辞すれば、当然その後の私邸や経営するホテルへの出入りはできなくなり、商売に影響する。それくらいで済むならいいが、もっと恐ろしいのは、父親なり兄なりが、あらぬ罪でもでっち上げられて、罪人にされてしまうことだ。貴族が自分の意に従わない平民に対して、そのくらいのことをするのは、ゴールデンバウム王朝下では日常茶飯事だった。
「それはご心配いりません。子爵様も今すぐにと仰っているわけではないのです。2、3年、お屋敷で、どこに出しても恥ずかしくない淑女に育て上げてからとのご意向なのです」
 使いの紳士は、そう言って、母親の消極的な辞退を受け流した。
 痩せっぽちという言葉が適当かどうかはともかく、確かにこの時のリースルは、少女らしい細身の体型の持ち主であり、豊麗とは言い難かった。しかし、決して貧弱なスタイルではなく、あと数年もすれば、均整の取れた成熟した大人の女性になることは、誰にも想像が容易だった。オッペンハイマー子爵も、現在の彼女よりも、将来性を見込んだと言っていい。今の皇帝のお気に入りの二十代半ばから三十代の寵姫達が、揃って容色に衰えが見え始める頃、まさにリースルは、女としての最初の盛りを迎えるのである。後に振り返って見れば、オッペンハイマー子爵は、この点に関しては確かに慧眼であった。
 反論の言葉を失ったボルン夫妻には、もはや二つの道しか残されていなかった。オッペンハイマー家の申し出を受けるか、少々極論ではあるが、一家で同盟にでも亡命するかである。その場合、市井の平凡な一市民に過ぎない彼等にとって、後者は論外だった。
 帝国内で、叛徒とされている同盟に下るには、それなりのルートを必要とし、それらを手に入れるだけの金銭もない。亡命するには、大変な資金と行動力を必要としたが、切羽詰った思想犯や政争に敗れた貴族でもない彼等を、そこまで駆り立てるものはなかった。
 ボルン夫妻は、使いの紳士が帰った後、悩んだ末、リースルにこの件を打ち明けた。
 申し出を受けることは、彼女の一生を左右し、当然、歩み始めたばかりの医者の道も断念することになる。
「父さん、母さん、私は大丈夫よ。子爵様のところへ行きます」
 娘の意外に明るい声に、両親の方が動揺した。
「お前、そんなに簡単に言うが、どういうことかわかっているのか!?」
「ええ、わかっています。もちろん、タダで従ってあげることはないわ」
 勢い込む父親に向かって、リースルは理知的な蒼い瞳で冷静に応えた。
(やはり、この娘は、わしらのような者とは器が違う。生まれてくる場所を間違えたのだ・・・)
 父親が、嘆息を以ってそう胸の裡で呟いた時、リースルの明敏な頭脳は、既に次のことを考えていた。
「行くからには、こちらの条件も出して、向こうにもきいてもらうわ。これはいわば取引なのよ」
 17歳の娘のものとは思えない台詞に、両親は逆に不安を感じた。
 リースルは、オッペンハイマー家の養女になる条件として、先方が提示した支度金の他に、子爵家の力で、再来年徴兵される予定の次兄が、安全な後方勤務に配属されるよう手を回すことを要求するつもりだと言うのである。
 戦死率の高い危険な最前線に、末端の兵士として配属されるのは、金もコネもない平民と相場が決まっている。このままいけば、下の兄も上の兄と同じように危険な前線に回され、無為に命を落とす確率が極めて高い。リースルが、養女の話を聞かされて、最初に頭に浮かんだのは、この事だった。
 貴族の子弟か、賄賂を贈ることが可能な裕福な家の息子は、安全な後方勤務が約束されていた。今年、上の兄が亡くなり、今度また下の兄までも戦死してしまったら、どちらにしても家族は崩壊してしまうだろう。ならば、このチャンスを活かすしかないと、リースルは瞬時の決断を下したのだった。
「お前を犠牲にしてまで生き延びたいとは思わないよ。いっそ、皆で逃げよう。今ある財産を全部売り払って掻き集めて、フェザーンか同盟にでも逃げれば・・・」
 兄のシュテファンが、若い男らしく果断なことを言ったが、リースルがその言葉を遮った。
「私は嫌よ。オーディンを離れるなんて。それに、もし皇帝陛下のお目に留まれば、どんな贅沢だってできるわ。このままこの家の娘でいて、平凡な男と結婚するよりずっと幸せになれるかもしれないのよ」
 心にもないことを言って、兄の提案を拒否した。
「それに・・・」
 と言って言葉を繋ぐ。
「兄さんだって、亡命なんかしたら、二度とイレーネに会えないのよ」
 兄が去年から、通り二つ隔てた場所にあるカフェの娘と交際しており、将来結婚したい考えであることを知っていたのだ。その一言で兄も両親も黙ってしまった。
 自分一人が我慢すれば、兄は無事に兵役から戻り、また父の店を手伝いながら、好きな女性と結婚して家庭を持つことができる。両親も、息子に店を譲り、孫達に囲まれて幸福な余生を送ることができる。自分には幸いにして、操を立てたい恋人もいないし、好きな男性もいない。後宮に入ったからと言って、必ずしも不幸になるとも限らない。この話は、マイナスばかりではない。むしろ、我が家にとってはプラスの方が大きいではないか。リースルは、数瞬の間に、そんな計算をしていた。
 結局、ボルン夫妻は、3日後に再びやってきた使いの紳士に、娘を養女に出すのを承知したことを伝えた。
 オッペンハイマー子爵は、リースルが出した条件を了承し、明けて帝国歴465年1月、正式に子爵の養女となった。
 更に1年後の帝国歴466年5月、芳紀19歳のマリア・エリザベート・フォン・オッペンハイマー子爵令嬢は、新無憂宮の後宮の住人となったのである。


―――――それは、私が自分の人生を諦めた瞬間でもありました。
 私は、家族の安全と自分自身をO子爵と取引し、自分の意思で後宮に入りました。
 誰に同情される謂れもない。後悔もしていない。自分で選んだことなのだから。・・・その時は、本当にそう思っていました。
 あの当時の私にとって、ゴールデンバウム王朝は絶対であり、永遠に存在し続けるかに思えたのです。平民に生まれた私には、若い頃から漠然と、世の中の理不尽を嘆いてもどうにもならない、人は誰もそれと折り合って生きていかなければいけないという諦めが、あったのかもしれません。
 実際には、O子爵家の申し出を断ることは、私達一家の破滅を意味していました。
 今にして思えば、そのような状況の上での選択が、果たしてどこまで「自分の意思」と言えるのか、この頃やっと疑問に思えるようになりました。
 ただ、どんな社会になっても、人間は完全に自由ではいられません。人は皆、その時々の状況の中で、その場では最良と思った選択をして生きているのです・・・


 リースルは、、回顧録の中で後宮入りの感慨をこう記述している。
 この下りを目にした時、ラインハルトは胸を突かれる思いがした。
 家族の為に後宮に入る決意をしたリースルの境遇が、父に売られた姉のそれと重なる。 彼にとって、これまで姉以外の宮廷の寵姫は、ベーネミュンデ侯爵夫人に代表される“敵”でしかなかった。話に聞いたビュルガー男爵夫人に敵意を感じなかったのは、彼女がアンネローゼが後宮に入る以前に辞去しているという時差が存在したからである。
 ベーネミュンデ夫人は極端にしても、姉と並存していた寵姫達は、いずれも姉の存在を快く思っていないはずであり、姉の敵であるはずだ。姉の敵は即ち自分の敵である。これが、ラインハルトの人生の指針だった。しかし、『西苑の蝶』は、そんな彼の中にあった偏見の隔壁に大砲を撃ち込んだ。
「人にはそれぞれ悲しみがあります。それを解っておあげなさい」
 ベーネミュンデ事件の後の姉の言葉が、今頃になってラインハルトの精神の深淵で木霊した。


―――――19歳の私は、年老いていた―――――


 皇帝と、最初の夜を過ごした翌日に、鏡に映った自身を、リースルは回顧録でこう表現している。
 フリードリヒ4世は、この時43歳。この時代としては、まだ青年と呼んでいい年齢だったが、長年の不摂生と退廃的な精神構造は、彼の肉体を60歳を超えた老人のものにしていた。
 唯一救いだったのは、淫蕩と言われた皇帝が、寵姫達に対しては、存外優しかったことだった。
 無論、如何なる場合にも、皇帝の御意には従うよう厳命されていたし、そのつもりだったが、少なくともリースルの中には、皇帝に何事かを無理強いされた記憶はない。
『ここが、私がこれから生きる場所』
 そう思って開き直ると、聡いリースルは、今後の自分のスタンスを自分なりに決めていった。
 まず、女の園で、なるべく敵を作らず、目だった寵姫にならないこと且つ、オッペンハイマー家をある程度引き立てられるくらい皇帝の寵愛を得ること。この相矛盾する二点を確実に遂行することこそが、自分がここで生きて行く為に不可欠であると悟ったのだ。
 娘を後宮に入れる貴族は、殆ど例外なく、その娘が皇帝の男児を産み、その子が即位したあかつきに、自分たちが外戚として権勢を振るうことを夢見ていた。オッペンハイマー子爵も、無論、その例外ではない。
 しかし、リースルは、自分の身の安全の為に、そこまで付き合う気はなかった。
 後宮に入って一番驚いたことは、皇帝の子供達の乳児死亡率の高さだった。
 フリードリッヒ4世は、この当時大勢の寵姫に、たくさんの子を産ませていたが、死産や夭折が極端に多く、リースルが後宮入りした時点で無事に育っているのは、皇后が産んだ3人と2人の庶子だけだった。これは、この時代の医学水準からすれば、まず考えられない状況だった。
 この国で最高の医療を受けられるはずの皇帝の子供達が、揃いも揃って幼少期に原因不明の奇病に罹ったり、事故に遭って回復不可能な大怪我をするなどという偶然は、絶対に有り得ない。更に、流産や死産の発生率も、市井の何百倍も高かった。
 一度は医学の道を志したリースルならずとも、これを異常事態だと思うのが普通だろう。にも関わらず、このことについて誰も言及せず、問題視する空気すらないことが、不気味であり恐怖でもあった。恐らく、何者かの強い意思が働いているだろうことは、想像に難くない。しかし、後宮すら取り込むそんな見えない巨大な敵と戦う程、リースルはオッペンハイマー子爵に義理を感じてはいなかった。
『決して子供は産むまい。産めば私の命も危うい』
 それが、導き出した答えだった。
 そこそこ寵愛はされるが、目立った存在ではない。決して敵を作らない。リースルは、自らにそれを課した。
 他の寵姫達に自分の出自を隠さず、自分が無害であることを触れ込む為に、野心のないところを見せた。
 オッペンハイマー家は、無論、いい顔はしなかったが、平民出の養女とはいえ、既に皇帝の寵愛を受ける身のリースルに対し、きつくは言わなかった。
 皇帝は、一ヶ月に二度程の頻度で、リースルの住まう菩提樹の木のほとりの館を訪れた。数多いる寵姫の中では、格別に厚い寵愛ではなかったが、全く無視されているわけでもない微妙な立場だった。だが、この微妙さこそが、彼女が目指したものに他ならない。
 この時期のフリードリッヒ4世は、成熟した豊麗な女性を好んだと言われるが、やはり若く美しい娘を差し出されて、悪い気はしなかったのであろう。早ければ一日でお払い箱と言われたお手つきの女達の中で、オッペンハイマー子爵令嬢は、上手く皇帝の心を掴んだ。また、彼女が入内した直後から数年間は、不惑を過ぎた皇帝の嗜好が、豊麗な女から若い娘へと移行する過渡期でもあった。
 リースルは、度を越さない程度に、さりげなく皇帝にオッペンハイマー家の引き立てを請うた。
 その甲斐あってか、後宮に入った翌年、義理の兄である子爵家の嫡男は、何の功績もないにも関わらず、憲兵隊の准将から二階級特進で中将に昇進し、同時に査察長官の地位に就いた。
 それと交換するかのように、その年、徴兵されたリースルの次兄は、後方の補給物資備蓄基地へ配属され、ヴァルハラ星系内から出ることなく翌年、無事に帰還を果たした。そして、その年の終わり、予定通り付き合っていた娘と結婚し、父の店を継いだ。
 リースルは、一つのことをやり遂げた充足感を得た。
 こうして、リースルの寵姫としての生活も、何事もなく1年が過ぎた。


 後宮も、暮らしてみれば、案外悪い場所ではなかった。
 皇帝の足が遠いのを幸いに、思う存分読書に耽ることができた。新無憂宮の膨大な蔵書は、市井の一市民には到底手に入らないものが多く、リースルの旺盛な知識欲を充分満足させてくれた。
 いつか、後宮を去る日が来たら、もう一度医学の勉強をし直し、下賜されるはずの恩給で開業して、町医者にでもなろう。そんな人生設計も立て始めていた。
 また、厨房の設備を充実させ、幼い頃から父の傍で覚えたパン作りはじめて、上手く焼けると使用人や近くの館の“同僚”に振舞った。
 友人も出来た。
 平民出であることを隠さなかったことが幸いし、リースルは他の寵姫達に警戒心を持たれることもなく、多くの寵姫達が気さくに話しかけてきた。
 中には、「今まで言い出せなかったが、実は自分も養女で元は平民なの」とカミングアウトする者までいた。
 ここにいる女の全てが、決して自ら望んでここに居るわけではないことを知ると、元々皇帝の寵を競うつもりのないリースルは、他の寵姫達を次第に、ライバルというより、同じ境遇の仲間という意識で見るようになっていった。
 特に、後宮入りした翌年に知り合ったアイゼンエルツ伯爵夫人エリーゼとは不思議と馬が合い、後年、互いが後宮を辞した後も交流を続け、生涯友情は変わらなかった。
 彼女は、元は辺境の下級貴族の娘だったが、その美貌を領主であるアイゼンエルツ男爵に見初められ、妻に迎えられたのだという。
 思わぬ玉の輿に、実家の両親も喜び、エリーゼ自身も誠心誠意夫に尽くした。
 平和な家庭の運命が狂い始めたのは、結婚3年目の24歳の時のことだった。
 周辺星系への視察の為、男爵領に行幸した皇帝が、美貌の人妻に目を留めたのである。
 その晩、夫のアイゼンエルツ男爵は、妻の前で涙ながらに土下座して懇願した。
「頼む。1年。1年だけでいいんだ。皇帝陛下の御意に背けば、我が家はおしまいだ。私だけでなく、お前の両親にまで類が及ぶやも知れぬ。頼む・・・!」
 夫の為、家の為、実家の為、こうしてエリーゼは、アイゼンエルツ男爵から1年間の期間限定で皇帝に貸し出されたのである。表向きは、宮廷女官として1年間新無憂宮にご奉公に上がるというものだったが、周囲の誰もが真実を知っていた。
「何があろうと、お前を愛している。私の気持ちは変わらない。いつでもお前の帰りを待っているよ。帰ったらまた、一緒に暮らそう」
 そう言って抱きしめてくれた夫の言葉を信じて、エリーゼは新無憂宮の西苑の館にやってきた。
 そこで、それより1年前に後宮入りしたリースルと出会ったのである。
 エリーゼも、豊麗な美貌に似合わず気さくな女性で、互いに元は身分の低い者同士という気安さもあって、リースルとはすぐに打ち解けた。彼女の場合、あくまでも後宮にいるのは一時的なもので、1年すれば夫の元へ帰るのだという意識が、やはり後宮にも寵姫の身分にも執着のないリースルと通じるものがあったのだろう。
 約束通り1年半後、エリーゼは、皇帝から多額の餞別を下賜され、彼女のお陰で辺境領主の男爵から宮廷貴族の伯爵となった夫の元へ帰っていった。
 リースルは、この年上の友人との別れを寂しくも思ったが、エリーゼの幸せを願って笑顔で送り出した。
 二人は、皇帝に特に願い出て、今後も互いを訪ね合い、交際していくことを許可された。
 リースルの元に、エリーゼから最初の手紙が届いたのは、彼女が後宮を辞して一ヶ月後のことだった。
 てっきり新無憂宮に隣接する貴族の邸宅街の中にあるアイゼンエルツ伯爵邸に暮らしているとばかり思っていたが、新しい住まいの住所は、意外にも都内の別の高級住宅街だった。お訪ねの際は、こちらへと記されている。
 手紙には、そうなった経緯が淡々と書かれていた。
 約1年半ぶりに、夫と再会したエリーゼだったが、夫の隣には、既に臨月に入ったお腹を抱えた女が、ぴたりと寄り添っていた。
 気まずそうに目線を泳がせる夫と、不安そうな女を目の前にした時、エリーゼの中で、何かが死んだ。
 不思議と怒りはなかった。悲しいという感情も忘れていたと、リースルへの手紙には書かれていた。ただただ空しさと諦めだけが身体の奥底から広がっただけだったという。
 エリーゼは、狼狽して必死に言い訳の言葉を捜している夫を尻目に、落ち着いた冷静な口調で条件を突きつけた。
 離婚はしないので、自分は引き続き伯爵夫人の称号を名乗ること。夫とは二度と会いたくないので、この邸には住まず、新たに少し離れた場所に家を購入し、毎月生活費として1万帝国マルクを振り込むこと。その代わり、その女の存在を認め、お腹の子も伯爵家の子とすることを許可しましょうというものだった。
 アイゼンエルツ伯爵にしてみれば、否も応もなかった。大人しく、ただひたすら自分に従順だった妻の豹変振りに驚き、ぜんまい仕掛けの人形のような動作で妻の要求に頷いた。
 一人暮らしも気楽でいいものよ。あなたの好きなザッハトルテを作らせておくから、ぜひ遊びにいらしてね。と、結んである手紙を読み終わらぬうちに、リースルは大粒の涙を零した。
 何かに無性に腹が立った。何に対する怒りなのか、自分でも明確ではなかったが、胸の底からどす黒いものがこみ上げ、濁流となって出口を求めて渦を巻いていた。
 それでも、リースルは、その後何度か外出許可をとっては、エリーゼの住む瀟洒な邸宅を訪ね、友情を深めていった。
 エリーゼは、会うたびに変わっていった。
 気さくで穏やかな性格は以前のままだったが、どこかたがが外れたように自由奔放な女性へと変貌していったのである。
 彼女の邸は、何時の間にか、出身地の辺境惑星出身の学生や、近隣に住む裕福な若者達のサロンと化していった。
 訪ねる度に、別の恋人がいて、いつも若くてハンサムな青年だった。
 潔癖な性質のリースルは、流石にその点だけには眉を顰めたが、エリーゼは、いつも笑って軽く受け流すだけだった。彼女の寂しさを知っているので強くは忠告しなかったし、夫の伯爵も半ば公認している以上、とやかく言うのも憚られた。


 帝国歴468年、21歳になったリースルは、ある日、西苑の庭を散歩中、若い女のすすり泣くような声を聞いた。
 引き寄せられるように、薔薇園を掻き分け、声の主を探すと、一人の少女が木陰で蹲って泣いていた。
 リースルの気配に振り返った少女は、一瞬、白薔薇の精かと錯覚させるほど、清純な美しさを讃えていた。
 真っ赤に目を腫らして泣いていた少女は、16、7歳だろうか。艶やかな緑の黒髪、大きな碧い瞳、美しい珊瑚色の唇。
 薔薇よりも、咲き始めたばかりの桜草を思わせる清楚な美しい少女が、人目を忍んで泣いていたのだった。
 一瞬、どこかの令嬢かと思ったが、身につけている豪華な衣装と、仄かに漂う香り玉の香りが、彼女が寵姫であることを教えていた。
 多分、昨夜、皇帝と初夜を過したのだろう。
 皇帝が、最近、これまでの趣向をガラリと変えて、まだ半分子供のような少女をお傍に召しているという噂をつい先日聞いたばかりだった。
 リースルは、黙って少女にハンカチを差し出した。
 しかし、次の瞬間、少女は、ハンカチを受取る代わりに、わっと胸に飛び込んできた。
 リースルは、幼子のように泣きじゃくる少女の頭を、そっと抱きしめてやった。
『ああ・・・この子も・・・』
 自分が初めて皇帝を迎えた日のことを思い出す。
 19歳だった自分よりも更に幼く見える少女が、痛々しくて堪らなかった。
 やがて、腕の中の少女の号泣が嗚咽に変わり、程なくしてそっと身を離した。
 リースルは、ハンカチで少女の濡れを頬を丁寧に拭いてやった。
「・・・ごめんなさい・・・」
 漸く自分の行為を恥ずかしく感じたのか、少女は俯きながら、ぽつりとそう言った。
「いいえ。私は、マリア・エリザベート・フォン・オッペンハイマー。リースルと呼んで頂戴」
 気さくに話しかけてくれた若い貴婦人の優しさが、余程嬉しかったのか、少女はぱっと顔を輝かせると、ドレスを摘んでお辞儀をし、リースルの手を握り締めた。
「シュザンナ・フォン・ベーネミュンデと申します。シュザンナとお呼び下さい」
 少女は初めて、年齢相応の無邪気な表情を見せた。


 その後、シュザンナとは、暫くの間は、互いの館を行き来し合い、友人と呼べる関係になっていった。
 当時のシュザンナ・フォン・ベーネミュンデは、美しい以外はごく平凡な16歳の少女だった。貴族令嬢にしては、腰が低く、身分の低い女官や下働きの者に対しても優しかった。家族と離れ、一人後宮という見知らぬ世界に連れてこられて、余程心細かったのだろうか。寵を競う立場はずのリースルを姉のように慕い、二人でいる時は屈託無く笑った。 
 この頃のフリードリッヒ4世は、成熟した豊麗な女性から、まだ蕾の少女へとその嗜好を変化させる過渡期にあった。
 後宮で権勢を振るった20代後半〜3、40代の豊麗な美女達は、次々に新無憂宮を去り、代わって宮内省の役人や貴族達は、こぞって十代半ばの少女達を物色し始めた。
 もうすぐ24歳の誕生日を迎えようとする細身の体型のリースルは、年齢的にもタイプ的にも中途半端な位置にいたが、それがかえって幸いしたのか、依然として皇帝の寵愛は、細く長く続いていた。
 しかし、皇帝の嗜好が完全に変化し、シュザンナがその寵愛をほぼ独占する形になると、二人の関係も次第に疎遠になっていった。
 それでも宮廷でたまに顔を合わせるシュザンナは、平民出のリースルをあからさまに見下さない数少ない生粋の門閥貴族の一人だった。
 シュザンナが明らかに変わり始めたのは、彼女が後宮入りして3年目、最初の懐妊をした頃からだった。
 可憐な桜草のイメージは消え、艶やかな大輪の薔薇へと開花していったのである。
 同時に、以前のどこか儚げな優しい雰囲気は薄れ、絶対君主の寵を一身に受ける自信と驕慢さを身に纏うようになっていた。
 この時代のテクノロジーで、着床間もなく、お腹の子が男児だと判ると、周囲で彼女を皇后に冊立する動きが俄かに高まった。
 この当時、皇帝の大公時代からの妻である皇后は既に亡く、皇太子は穏やかな性格の好人物だったが、幼少時から健康状態が心配されていた。そこへ、由緒ある子爵家出身の若い寵姫が懐妊したのである。彼女を後押しして利権に群がる一派が出るのは自然の成り行きだった。
 その布石として、懐妊後間もなく、ベーネミュンデ家の総領娘で、子爵夫人となるはずだったシュザンナに、侯爵号が授与され、晴れて彼女は皇帝第一の寵姫『ベーネミュンデ侯爵夫人』となったのである。
 シュザンナを思うリースルの気持ちは複雑だった。
 平民出で、最初から長居する気のない自分と違って、生粋の子爵令嬢である彼女は、生まれた時から権門に嫁ぎ世継ぎを産むのことが最大の使命だという価値観の中で育てられたはずである。家族のみならず、一族郎党の期待を背負って、文字通り骨を埋める覚悟で入内したのだろう。懐妊は、彼女の悲願であったはずだ。
 リースルとしては、友人として、祝福したい気持ちと、寵姫の産んだ子供達が不信な死を遂げ続ける現状を考えると複雑な気持ちだった。
 それでも、久々にシュザンナの館を訪れたリースルは、悪阻に苦しむ彼女を精一杯励ました。
 だが、リースルの恐れた通り、翌年シュザンナは、男児を死産し、皇后冊立の話も立ち消えた。
 シュザンナの悲嘆と落胆ぶりは、見るも痛々しく、見舞いに訪れたリースルともろくに顔を合わせようとしなかった。その姿は、女として至尊の地位に登るのを、目前で果たせなかった無念ではなく、純粋に我が子の死を悲しむ母親そのものだった。
 シュザンナは、翌年再び懐妊したが、今度は妊娠14週目で、原因不明の流産に見舞われた。
 明らかに不自然にも関わらず、宮内省も侍医団も原因究明に乗り出さず、近侍の者が何人か解雇されるのみに留まった。
 リースルは、あらためて後宮の恐ろしさを実感した。
 同時に、再び怒りがこみ上げた。
 シュザンナの子を葬り去った何者かに対する怒りだけでなく、多少なりとも医学の心得がありながら、近くにいて彼女の為に何もできなかった自分自身への怒りでもあった。


「私も、そろそろ潮時のような気がするの」
 帝国歴472年、25歳になっていたリースルは、久々に訪れたエリーゼの館で、アフタヌーンティを嗜みながら、そう言った。
「そうね。あなたはもう充分オッペンハイマー家の為に尽くしたし、近頃じゃ陛下の趣味もすっかり変わったともっぱらの噂だし、この辺で身を引くのが一番賢い選択かもしれないわね」
 エリーゼもそう言って同意した。
 今では完全にその嗜好を未成熟な若い娘に変えた皇帝は、以前にも増してリースルの館を訪れることが少なくなっていた。
 それでも、オッペンハイマー子爵は、昨年爵位を伯爵に格上げされ、家督を譲られた義理の兄は、今では憲兵副総監の地位にある。
 出征から無事戻った実家の兄は、父のパン工房を継ぎ、結婚して二人の男の子にも恵まれた。リースルは、自分の役目が終わったことを感じていた。
「後宮を辞したら、恩給ももらえるはずだから、私もこの近くに家を買おうかしら」
 リースルが何気なくそう言うと、エリーゼは少し艶を含んだ微笑を返した。
「あなたがご近所なら大歓迎よ。ここなら五月蝿い宮廷貴族達の目もないし、あなたも恋人くらいつくって、もう一花も二花も咲かせなきゃ」
「私は、そういうのは、いいわ。それより、遅れたけどもう一度勉強し直して、医大を受験し直したいの」
「相変わらずのお堅さね。でも、あなたのそういうところが、好きだわ」
 いかにも学級肌で潔癖症のリースルらしい返事に、アイゼンエルツ伯爵夫人エリーゼは、ふっと、紅茶を吹き出しそうに笑った。
 彼女はこの年、30歳になる。夫から皇帝に貸し出され、その任期を満了して後宮を辞して既に5年の歳月が流れていた。しかし、豊麗な美貌は少しも衰えず、以前よりも瑞々しさが増したようにさえ見えた。
 リースルは努めて干渉するのを避けていたが、相変わらずエリーゼには、会う度に違う若い恋人がいた。
 しかし、ある日紹介されたのが、近くの館に住まう14歳のギムナジウムの生徒だと知って、流石に驚いた。
 歴代の皇帝たちが、こぞって十代の少女を後宮に納めてきた銀河帝国に於いては、青少年福祉の概念など殆どないが、やはり一般常識的な道徳観念は存在していた。
 後日リースルは心配し、少年自身はともかく、親が騒ぎ出したらどうするのかと小声で忠告したが、あの子は両親とも亡くなっていて、今は彼が当主だから大丈夫だと事も無げに答えた。
「まだ子供じゃない」
「この前、私が男にしてあげたわ」
 それを聞いてリースルは、深く嘆息しながらも、それ以上の換言を諦めた。
 下級貴族の富豪だという少年は、背が高く、年齢よりも大人びた雰囲気を持っていた為、当初、エリーゼも14歳だとは知らなかったのだとういう。
 まだ少年の体型でありながら、その身のこなしは、リースルが今まで宮廷で見たどんな門閥貴族の子弟よりも典雅で洗練されており、若さに似合わず王侯の風格さえあった。彼と同い年であるはずの皇太子とでさえ、比べるべくもない。
 艶やかなダークブラウンの髪に、彫像のように整った顔立ちは、女性の心を惹き付けてやまない魅力を持っていた。何より印象的なのは、彼のその目だった。金銀妖瞳というのだそうだが、右目は黒く、左目は青い。本来ならシンメトリーに反する配置が、他の完璧な均衡と見事に相まって、神秘的なまでの美しさを演出していた。
 この少年、オスカー・フォン・ロイエンタールとは、後年、数奇な因縁で再会することになるが、この時のリースルは、それを知りようもなかった。
「まあ、彼が来年士官学校へ入学するまでの付き合いよ。それまでは、お互いに楽しむことにしているの。彼、あの歳に似合わず、ドライでね、他の若い男みたいに、執着しないの。そこが助かるわ」
 リースルは、一瞬、あんぐりと口を開けて何も言えなかった。いったいどういう育ち方をしてきたのだろうと、金銀妖瞳の美少年を思い出して呆れた。


 皇帝に、お暇を頂き後宮を去ろうというリースルの計画は、しかし、思いもかけない形で頓挫することになった。
 後宮の住人に対して定期的に行われる健康診断で、懐妊を告げられたのである。
 リースルにとって、これはまさに晴天の霹靂だった。
 決して子供は産むまいと決心してから、常に気をつけてはきたものの、気まぐれな皇帝はふいに訪れることもあり、完璧な避妊は不可能だった。
 リースル自身は戸惑ったが、懐妊の知らせに、オッペンハイマー子爵家は、狂喜した。後宮に送り込んだ養女は、嫡男の栄達という最低限の成果を上げてくれてはいたが、格別寵愛が深いわけではなく、後宮入りしてから年月が経っていることもあり、懐妊は半ば諦めていた。それよりも、今度こそ、もっと皇帝の心を掴める、ベーネミュンデ侯爵夫人にも勝る娘はいないかと、物色していた矢先の出来事だっただけに、一家揃って欣喜雀躍の体でリースルの館を訪れたのである。
 しかし、数日後、検査の結果、胎児が女児であることが判ると、途端にオッペンハイマー家の態度はトーンダウンしていった。逆にそれは、リースルを安堵させることになった。女児で、しかも母親が元平民ともなれば、皇位継承争いに巻き込まれることもないだろう。皇帝の子の誕生を喜ばない何者かも、きっと見逃して下さるだろうと楽観した。
 それでも、リースルは身辺には最大限気を配り、細心の注意を払って妊娠期間を過した。
 周囲は、オッペンハイマー家から従ってきた、長い付き合いの気心の知れた者達で固め、日々の食材は、特別に願い出て、実の兄と父に納品させた。調理も可能な限り自分で厨房に入って作ることにした。
 不思議なことに、当初は、自分の体内に巣食った厄介な生き物くらいの感覚しかなかった胎児が、その存在が確かなものになるにつれ、次第に愛しい我が子になっていった。
 子供の父親であるフリードリッヒという男個人に対しては、正直、愛とか恋といった感情はない。ただ、頻度は少ないとはいえ、10年近くに渡り男と女として肌を合わせ、リースルが望むことを概ね叶えてくれたという感謝の気持ちと、情のようなものは漠然と感じていた。
 皇帝の子を産めば、その子がいる限り、皇室の一員として、今上帝在命中は、もう新無憂宮を去ることは適わない。
 しかし、リースルは、娘と二人なら、ここで生きていくのもいいかもしれないと思い始めていた。どうせ、帝位とは縁のない子である。ずっと年上の皇帝は、リースルよりも早くヴァルハラへ召されるはずである。そうなったら、この子には、一臣下として適当な爵位や領地を与えられるか、皇女としてどこぞの然るべき人物に降嫁するという道がある。どうなるにしろ、リースルは、自分には叶わなかった夢を娘に託したい気持ちになっていた。それは、決して大それた夢ではなく、ただ、愛する男性と結ばれ、幸せな家庭を築くという平凡なものだった。
 胎児の経過は順調で、検診の度に問題ないことを宮廷医から告げられると、リースルも柔らかな表情で日に日に大きくなる腹部を撫でた。

 
 帝国歴473年9月12日未明、リースルは、フリードリッヒ4世の第6皇女を出産した。
 陣痛の痛みから解放され、赤子の元気な産声を聞いた途端、猛烈な睡魔に襲われた。
「赤ちゃん・・・私の・・・見せて・・・」
 一目我が子の姿を見ようと手を伸ばしたが、瞼の重みがそれに勝った。
「暫くお休み下さい」
 そう言ったのが、医師だったのか、看護師だったのか、助産婦だったのか、リースルはそれを確認できないうちに、そのまま深い眠りについた。


 どのくらい眠っていたのだろうか。
 気が付くと、産室ではなく、見慣れた自室の寝台に横たわっていた。
 時間の感覚がなくなっていたが、窓にはカーテンが下ろされ、部屋が薄暗いことから、夜なのであろうことは辛うじてわかった。
『そうだ・・・赤ちゃんは?・・・私の娘は?』
 不思議なことに、赤ん坊の気配がまるでなく、寵姫が出産したというのに、邸は静まりかえって閑散としている。
 急に激しい不安感に襲われたリースルは、まだ感覚がおかしい身体を起こした。
「あ、お気がつかれましたか」
 ずっと傍に控えていたと思われる侍女が声をかけた。
「私の赤ちゃんは? あの子はどこ?」
 侍女はその言葉に表情を雲らせ、ふいと顔を背けると、リースルの問いには答えず、医師を呼んでくるからと言って、逃げるように部屋を出ていった。
 間もなく、主治医の宮廷医と看護師が駆けつけた。
「誠においたわしいことではございますが、皇女様におかれましては、ご生母様の胎内で、既にお隠れあそばしておいででした。ご遺体をお取り上げる仕儀になり、我等一同も痛恨の極みでございます。謹んでお悔やみ申し上げます」
 淡々と申し述べる主治医に、「嘘だわ!」と、リースルは叫び出しそうになったが、声が出なかった。
 私は確かに産声を聞いた。あの子は生きて産まれたはずだ。死産など有り得ない。
 階下の居間には、既に祭壇が設えられ、小さな棺が置かれていた。
 リースルは、棺を開け、そっと既に冷たく固まった赤子を抱き上げた。
 何て小さいのだろう・・・
 母と同じブルネットの髪が僅かに頭部を覆っている。硬く閉じられた瞳は、永久にその色を確認することはできない。
『ごめんね・・・ごめんね・・・あなたを守ってあげられなくて・・・』
 リースルは、止め処なく流れる涙を拭うことなく、一晩中我が子を抱き続けた。
 なぜこんなことになったのか? いったい誰がこんな帝位から程遠い無害な子を・・・
 少し冷静さを取り戻すと、深い悲しみと同時に、我が子を弑いた見えない敵に対する憎しみが噴出してきた。
 背後にいるのは、皇太子派か、皇帝の女婿達のいずれかだろう。
 しかし、彼らの意を受け、実際に手を下した人間が必ず身近にいるはずである。
 医師も、看護師達も、助産婦も、産室にいた全員が買収されていたのか、それとも産声を上げた後で、何らかの不測に事態が起こったのか? 
 だが、周囲には医療関係者だけでなく、侍女や執事を始め大勢の人間がいたはずである。皆、このような事態を想定して用心し厳選した信頼に足る人間ばかりのはずだった。
 しかし、個々人の心や事情はわからない。もしかしたら、何か弱みを握られて、強要されたということも考えられる。
 誰もが怪しいようにも思え、誰も怪しくないようにも思える。
 リースルは、疑心暗鬼で混乱しそうになる頭を、必死に整理しながら考える。
「死因は何なのですか?」
 翌朝、赤子を棺へ戻したリースルは、出産に立ち会った医師団と助産婦を問い詰めた。
「それが・・・今となっては、何とも・・・」
 代表して答える主治医は、歯切れが悪かった。
「わからないということですか?」
「はあ・・・」
「ならば、司法解剖をお願いします。速やかに死因を突き止め、もし、不信な点があれば、宮廷警察にて厳正な調査を希望します」
 リースルの断固たる口調に、医師団は一斉に困惑の色を見せた。
「恐れながら、皇帝陛下のお子様のお体を傷つけることはできません。フロイライン・オッペンハイマーのご心中はお察し致しますが、どうかご配慮あって・・・」
 その言葉に、リースルは切れた。
「私は、私の子がなぜ死んだのか、その原因を知りたいのです。親ならば当然のことです。あなた方がどうしても司法解剖を拒否するならば、いたし方ありません。ここではなく、民間の医療機関に依頼します」
 その時、今まで黙っていたオッペンハイマー家から付いてきた最古参の年配の侍女が、そっと歩み寄り、リースルの耳元で囁いた。
「無駄ですよ。お嬢様。帝国中のどの医者も、答えは同じです」
 侍女は、目尻に涙を浮かべ、つと顔を逸らして言った。
 その言葉で、リースルも全てを悟った。
 ここは、こういう場所なのだ、と。
 医師団が去ると、午後になって皇帝が見舞いに訪れた。
 女漁りと薔薇栽培にしか興味のない皇帝も、この時は流石に神妙で、リースルを優しく労わった。
「そなたも、辛い思いをしたであろう。願いがあるなら、きいてとらす。何なりと申してみるがいい」
 リースルは、その言葉に甘え、娘は皇室の御陵ではなく、この館の敷地内に埋葬し、毎日墓参できるようにしたいと申し出た。
 異例のことながら、フリードリッヒ4世はこの願いを聞き入れた。
 また、死産の子は、固有名を付けないのが慣例であったが、リースルは密かに、亡くなった娘に、Felicia<フェリシア>と名付け、墓標に刻んだ。
 古い言語で「幸福」を意味する名である。
 一度も光を見ることなく逝った娘に対する、リースルの思いが込められている名だった。


 帝国歴474年、リースルは、新無憂宮で9回目の春を迎えた。
 娘を死産した傷心の寵姫に対し、皇帝は最初の頃こそ何度か館を訪れ、慰めの言葉をかけてくれたが、年が改まる頃にはそれもなくなり、リースルは再び無為な日々を過すことになった。
 ただ、それでも皇帝なりに彼女を慰撫する気持ちがあったのか、特に願い出てもいないにも関わらず、その年の春の人事で空席になった憲兵総監の地位に、副総監の一人であったオッペンハイマー伯が、座ることとなった。
 リースルは、今度こそ後宮に別れを告げる決意をした。
 去るに当り、たった一つ願い出たのは、館の片隅に葬られた娘の墓の手入れを欠かさず行うことだけだった。
 その願いはあっさり聞き入れられると、皇帝から、300万帝国マルクという破格の慰労金を下賜され、新無憂宮に生涯出入り自由な通行証も同時に賜った。
「そうか。行くか。そなたは、そなたに相応しい場所に戻るがいい。健固で暮らせよ」
 最後にそう餞の言葉を賜ると、リースルは9年半過した西苑の館を後にした。
BACK TOP NEXT
footer
Copyright(C)2010 Jeri All rights Reserved.