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春の手紙
作: sabrina様


帝国歴488年3月初旬。
 アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト少将の元に、一通のホログラフィック・レターが届いた。差出人は、アルデンホフ子爵家の侍女ヨハンナ。
 懐かしさと同時にこみ上げるほろ苦い思い出に引かれながら封を切ると、赤みがかった茶髪に痩身の中年女性が立ち現れる。
 ヨハンナは、年を経ても変わらぬ澄んだ声で切り出した。
「アルデンホフ子爵夫人クリスティーナ様は、このたび重篤な病を得て、オーディン郊外シュヴァルツヴァルトの別荘に移られました」
 忘れようとしても忘れられない名前に、一瞬、心が揺れる。
「身の回りの品を整理しておりました際に、あなた様宛ての手紙が出てきましたので、ぜひ会ってお渡ししたく存じます。時勢不穏の折、お忙しい身とは存じますが、シュヴァルツヴァルトまでご足労願えないでしょうか・・・・・・」
 伏し目がちにそう告げると、ヨハンナの映像は消えた。
 時勢不穏、という言葉にファーレンハイトは軽く嘆息する。
 大衆は、時代の空気を敏感に察知するものだ。皇帝フリードリヒ四世が崩御したのは、昨年の秋。その後、皇孫エルウィン・ヨーゼフ二世が即位し、リヒテンラーデ公爵が宰相に就任した。リヒテンラーデは、ラインハルト・フォン・ローエングラムと手を組み、彼の脅威的な武力を背景にして、ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯を頭とする対抗勢力を駆逐しようとしていた。今のところ、帝都は平穏を保っているように見える。しかし、水面下での攻防はすでに始まっていた。両者の間で大規模な武力衝突が起こるのは、もはや時間の問題だ。貴族のお坊ちゃんが繰り広げるパワーゲームの巻き添えを食うほど馬鹿らしいこともない、と醒めた目で事態を見守っている彼も、職業軍人である限り出撃命令が下れば従わざるをえなかった。
 ファーレンハイトは正直、ヨハンナからの手紙に、何で今さら、と思わないことはない。あの熱に浮かされていたような日々から、もう十年以上が経過している。クリスティーナとの別れを想い起こすたび、胸に甦る小さな痛み。”青春時代の思い出”という言葉で片付けてしまうには、少し罪深いものがある。
 ――もう二度と振り返ることはないと思っていたが・・・・・・
 少しの間逡巡した末、結局、彼は動乱が起こる前に、シュヴァルツヴァルトに病床のクリスティーナを見舞うことを決めた。
 この機を逃せば、もう二度と彼女に会うことはないかもしれない。
 人生を変える出会いがあるとしたら、彼女は確かに良い意味での”運命の女”と言えなくもない。
 ある日、彼は仕事を午前で切り上げると、軍服姿のままシュヴァルツヴァルトへ向けて車を走らせた。通い慣れた郊外への道は、芽吹き始めた木立に柔らかな陽光が踊り、甘い感傷を誘う。柄にもないな、と自嘲しながら、彼は遠く過ぎ去った日に思いを馳せた。

**********

 ファーレンハイトが、クリスティーナ・フォン・アルデンホフと知り合ったのは、十八の夏。休暇を利用して、友人たちと避暑地で有名なシュヴァルツヴァルトの湖に遊びに来ていた時のことだ。彼はまだ、貧しい一介の士官学校生にすぎなかった。
 同じ頃、クリスティーナもこの地にある子爵家の別荘に一人で滞在していた。湖畔の並木道を馬に乗って散策する優美なその姿が、たびたび目撃された。
ブルネットの髪に白磁のような滑らかな肌、憂いを含んだペールブルーの瞳。その艶めいた美貌は、遠目にも若者たちの羨望の的だった。
「あれはアルデンホフ子爵家の後妻だよ。帝国騎士だった親父の借金を肩代わりしてもらうかわりに、二十も離れた子爵に嫁がされたんだってさ」
 地元の人間の間ではそう噂されていた。
 可哀そうな囚われの姫。薄幸の美女。年頃の若者たちの想像と好奇心は、否が応にも高まった。
 そんなある日、出会いは突然に訪れた。クリスティーナの乗った馬が、水鳥が飛び立つ羽音に驚いて暴れ、彼女を振り落とそうとしたところを偶然ファーレンハイトが助けたのだ。手慣れた様子で馬をいなした青年に、クリスティーナはふわりと優しく微笑んだ。
「どうもありがとう。あなた、優しい人なのね」
「会ったばかりで、どうしてそんなことが分かるんですか」
「動物はね、人間の心が読めるのよ」
 クリスティーナは、軽やかな身ごなしで馬上に戻ると言った。
「助けていただいたお礼をさせてくださらない?今夜、食事にご招待するわ。この先の湖畔にあるアルデンホフ子爵家の別荘にいらして」
 そして、そっと髪飾りをはずすと、ファーレンハイトの手に握らせた。見事な象牙細工のバラ。貴婦人の装飾品について何ら詳しくないファーレンハイトでも、一目で高価な代物だと分かる。
「使用人にそれを見せれば分かるようにしておくわ」
 あまりに唐突な出来事で、何が起こったのか俄かには状況が呑み込めなかった。やがて、年上の美人に誘われたのだと分かった時には、喜びより戸惑いの方が大きかった。
 ――行かない方が・・・・・・いいのだろうか。
 相手は人妻だ。しかもアルデンホフ家は確か、権門リッテンハイム侯爵家と縁戚関係にあったはず。何事も起こらないとは思うが、人の口に戸は立てられないとも言う。後々、面倒なことに巻き込まれたりはしないだろうか。考えるほどに迷いは深まったが、気づくと足は湖畔の方へと向かっていた。
 子爵家の別荘は、すぐに見つかった。シュヴァルツヴァルトに貴族の別荘はいくつもあったが、湖のほとりに建つ屋敷はひとつしかなかったからだ。門の前まで行っては「やっぱりよそう」と思い直して、もと来た道を戻りかけ、「せっかくの誘いを断っては失礼だ」と、再び門の前まで行って・・・・・・というのを何回か繰り返した挙句、結局、最後は好奇心が勝った。
 全てを心得た様子の侍女ヨハンナに案内されて通された部屋は、瀟洒な晩餐室だった。食卓には銀食器がきれいにセッティングされ、クリスタルのグラスが、シャンデリアの柔らかな光を反射してきらめいている。思えば、爵位のある貴族の家に招待されるのは初めてのことだ。それなのに、何も考えず、思い切りラフな私服で来てしまった自分の非礼をひどく恥じ入ったが、女主人は、まるで意に介さない様子だった。
 テーブルマナーを勉強しておくべきだったと、頬を染めて俯いた青年の素直な態度にも、クリスティーナは少女のような笑顔を見せて言った。
「気にしないで。私も初めは何も知らなかったから。ナイフとフォークは外側から順に使ってね」
 そして、訥々と自分のことを語った。母親は弟を生んですぐに亡くなったこと。下級貴族だった父親は、人が好いばかりに知人に騙されて、莫大な借金を背負わされたこと。それで、彼女は入学したばかりの音楽学校を辞めたこと。間もなく、先妻と死別していたアルデンホフ子爵に見初められ、後妻になったが、まだ子どもはいないこと。
「弟さんは今、どちらにいらっしゃるのですか?」
「小さい時に養子に出されたわ。後継ぎのいない軍人の家、としか聞いていない。きっと両親のことも私のことも覚えていないでしょう。でも幸せでいてくれれば、それでいいの」
 ファーレンハイトは、訊いてはいけないことを訊いてしまったような気がした。彼女の白い横顔は、形容しがたいほど寂しげだったからだ。美術の授業で見た古典絵画の聖女のようだと、らしくもない芸術的な感想を抱いたのは、酔いのせいだったかもしれない。
「今度はあなたの話を聞かせて」と促され、ファーレンハイトが下級貴族の出身で士官学校の学生だと話すと、弟の面影が重なったのか、クリスティーナはふと表情を和ませた。
「じゃあ、将来は栄えある帝国軍の高級将校ね」
「いいえ、それは、たぶん無理でしょう。軍の幹部は門閥貴族出身の者がなるものと暗黙の了解で決まっていますから。家は兄妹が多くて、食べていくのがやっとです。軍を志願したのだって、ただで勉強させてくれて手っ取り早く稼げると思ったからで、愛国心なんかじゃない・・・・・・あまり大きな声じゃ言えませんが」
「あら、それはそれで立派な動機よ。諦めて卑屈になっていたら、大事な時に運を逃すわよ」
 ファーレンハイトは、はっとして目の前の美女を見つめた。
「それとも、まさか今からもう自分には能力がないって決めつけているの?」
 頬がカッと熱くなる。
 ――そんなことはない、絶対に。
 士官学校に入学以来、ずっと言い聞かせてきた。何をするにも虎の威を借りなければできない貴族の子息連中に、自分が出自以外で劣っているなどということは断じてない、と。   
そんな彼の心中を見透かしたように、クリスティーナは、ワインの最後の一口を飲み干すと微笑んだ。
「・・・・・・湖畔を散歩しながら、ずっとあなたを見てた。あなたは自分で思っているより魅力的よ。もっと自信を持ちなさい」
 その言葉はさりげなかったが、ファーレンハイトの胸の深い所にあるどこか乾いた感情を静かに潤していった。地表に水が染みわたるように、ゆっくりと・・・・・・
「ねえ、ワルツは踊れる?」
 食事の後、クリスティーナはやや強引に彼をホールへと誘った。
「い、いえ・・・・・・」
「教えてあげる。来て」
 ファーレンハイトは、恐る恐るクリスティーナの細い腰に腕を回す。言われるがままに心もち引き寄せると、豊かな白い胸元からむせ返るような甘い香りが立ち上り、思わず息を呑んだ。
 彼は、最初こそ拙い踊り手だったが、ものの一時間も経つと、見守るヨハンナも感心するほど見事なステップを踏むようになっていた。
「勘がいいのね、上手いわ」
「いえ、子爵夫人の指導がいいからです」
「あら、口もお上手」 
 クリスティーナは呟くと、急に踊るのを止め、ファーレンハイトの水色の瞳を切なげに見上げた。二つの心が、見えない力に逆らえず、急速に引き寄せられていくのが分かる。熱い身体と高鳴る鼓動は、ダンスを踊ったせいだけではない。カタンと乾いたドアの音がして、ヨハンナが部屋を出ていくのが分かった。窓の外は、夜半から降り始めた雨が勢いを増し始めている。
「嵐になりそうね・・・・・・」
 クリスティーナは、青年の肩に置いた手をそっと背中へと滑らせると、胸に顔を預けてきた。
「今夜は、泊まっていくといいわ」
 それが一体何を意味するのか、十八の青年の頭でもはっきりと理解できた。
 今、薄い服の布地越しに、美しい人妻の柔らかで瑞々しい肢体を感じる。
 屋敷を訪れる前にあれほど心を苛んだ迷いは、すでに消え去っていた。
 ファーレンハイトは、クリスティーナの腰に回した腕に力を込めると、艶やかな黒髪に口づけながら目を閉じた。

**********

 クリスティーナは、ファーレンハイトにとって初めての女だった。彼女は、年下の愛人を”kind(坊や)”と呼んだ。愛し合う時は、それが”liebes Kind(可愛い坊や)”になった。
「七つしか違わないのに、坊やなんて失礼だ」
 ファーレンハイトが抗議すると、クリスティーナはいつも決まって、「七つも違うわ」と、陽気に笑うのだった。
 その夏は、休暇の週末の大半をシュヴァルツヴァルトの別荘で過ごした。秋になると、クリスティーナはオーディン市内にある子爵家の本宅に戻ったが、冬が過ぎ春が来ても、シュヴァルツヴァルトでの二人の密会は続いた。真面目な工部省の役人であるアルデンホフ子爵グスタフは、普段から任務で家を空けることが多かったことも幸いした。月に一度、グスタフの母カタリーナが所領から出てきてオーディンに滞在することがあり、その時ばかりは、クリスティーナも姑に気を遣って家を出ることができなかった。会えない時間が続くと、若いファーレンハイトは募る欲情をもてあまして眠れないこともあった。
 士官学校の同級生たちの目下の話題は、毎週末に行われている女学校生とのパーティに参加するかどうかだ。金や家柄で労なくして女が釣れる貴族の子弟と違い、平民や下級貴族出身者が多い友人たちには、妙齢の女性と知り合うチャンスなどほとんどない。
「あー、彼女欲しい」
「こないだのローゼンベルク大の女子大生の時は、さんざんだったからなー」
「金持ちで可愛くても、頭良すぎるのは良し悪しだ」
「今回はその点は大丈夫そうだ。今度こそ絶対持ち帰る!おい、お前も来るだろう?」
 悪友たちの作戦会議が始まりそうになるたび、ファーレンハイトは、そっと話の輪を抜け出すようになった。
「いや、俺はいい」 
「何だ、またか。お前最近付き合い悪いな」
 バイトでもしているんじゃないか、という洒落にならない冗談を適当に笑って誤魔化しながら、彼は、初々しい友人連中の会話を密かな優越感をもって聞いていた。
 彼にはクリスティーナがいる。あの美しい子爵夫人が。そして、彼はすでに、友人たちが知らない世界を知っている。もちろん、人妻である彼女との関係は誰にも言えない。しかし、秘密だからこそ余計に燃え上がる想いというのは、確かにあるのだ。他人の妻――それも名のある貴族の正妻を寝取っているという罪の意識や、もし世間に知られたらどうなるだろうという不安よりも、恋の甘美さとスリルの方が勝ったのは、若さゆえかもしれない。
 クリスティーナは、金銭的な援助を与えるだけでなく、音楽、絵画、ダンス、オペラ、料理、マナーなどおよそ社交に必要な知識を教えてくれた。そして時には、大胆にもファーレンハイトを父方の従弟と偽って、貴族のサロンやパーティに連れ出した。
「さすがに、子爵にばれないかな?」
「構わないわ。夫は私の交遊関係なんて興味ないんだから。それに、どうせみんな酔っ払って明日の朝にはあなたの顔も名前も覚えてないわよ」
 初めて垣間見た社交界は、思い描いていた以上に享楽的で退廃的ですらあった。何がどう面白いのかはよく分からない世界だが、見るものすべてが新しく、同級生と繰り出す女学校生とのパーティよりずっと刺激的。何より、これで自分も大人の仲間入りをしたのだという気分になれることが嬉しかった。そこでは、愛人の存在など特に珍しくもないらしい。ファーレンハイトは、自分と同じような立場らしき若い男に何人も会ったが、お互い見て見ぬふりをするのがルールなのだという処世術を自然と身に付けていった。
 美しくてピアノとダンスの上手いクリスティーナは、華やかなサロンでも特に目を引いた。その一方で、どこか神秘的な匂いを漂わせた謎の多い女でもあった。そもそもなぜ、彼に目をかけたのかもよく分からない。しかし、なぜか分からないからこそ恋なのだ、とも思う。昼も夜も関係なく抱き合えば、理由などはどうでも良いことに思える。
 ――恋に溺れる、というのはこういうことかもしれない。
 たとえ、暇を持て余した貴婦人の気まぐれだとしても一向にかまわなかった。
 ある時、情事の後で、唐突にクリスティーナが呟いた。
「子どもたちに音楽を教えるのが夢だった。本当は子爵夫人になんてなりたくなかったわ」
「どうして。女は皆、いい家に嫁いでいい暮らしをしたいものだろう」
「そんな女ばかりじゃないわ。私は、誰かが私をこの閉ざされた世界から連れ出してくれるのを待ってる・・・・・・」
 閉ざされた世界。
 煌びやかでめくるめく夢のようにも見える彼女の日常が、そうだというのだろうか。
 彼女は、細い指先で、ファーレンハイトの額に落ちかかる銀色の髪を軽く引っ張りながら、溜息と共に吐き出した。
「私、次に生まれる時は男がいい。自分で自由に生き方を選べるから」
 何でそんな話をするのだろうという疑問が、ちらりと頭を掠めたが、口に出しては別のことを言った。
「男だっていいことばかりじゃない。第一、戦場で命を張るのは男だ。俺は次に生れる時は女がいいな。そして羽振りのいい旦那を捕まえて、一生楽して食わせてもらう。貴女のようにね」
 ファーレンハイトが、まだ熱の残る白い裸身を抱き寄せ、滑らかな肌に口づけようとすると、クリスティーナはわざと子どものような嬌声を上げ、おどけて抵抗してみせた。
「まあ、何てこと!あなたって、思ったより軟弱者だったのね」
 もしかしたら、少しだけ眉根を寄せていたのかもしれないが、その時は気づかなかった。
 アルデンホフ子爵に酒乱癖があることを教えてくれたのは、ヨハンナだ。普段は融通がきかないと思えるほど真面目な男だが、酒を飲むと人が変わったようになり、手がつけられないのだと、彼女は俯きがちに告白した。
そして、それから間もなく、ファーレンハイトは自分自身の目でその暴挙を目撃することになる。長期出張中だったはずの子爵が、突然シュヴァルツヴァルトの別荘に現れたからだ。すでにかなり泥酔しており、前後不覚の状態だった。若い愛人の姿を目にして頭に血が上ったらしく、クリスティーナを口汚く罵ると、掴みかかって乱暴を働こうとした。止めに入ったファーレンハイトだったが、「若造、殺してやる、決闘だ」と喚き散らす子爵についカッとなり、殴り飛ばしてしまった。彼は、よろめいたはずみに飾り棚の角に頭をぶつけて倒れ、周囲は一瞬色を失ったが、幸い軽い脳震盪で意識を失っただけだった。
 ファーレンハイトは、この不祥事が公になれば最悪の場合退学処分もあり得る、と覚悟した。しかし、グスタフは自分の面目もあってか、妻の不貞には沈黙を守ると決めたようだった。態度が変化したのは、むしろクリスティーナの方だ。
「もう会うのはやめましょう」 
 ある日、別れ際にぽつりとそう言った。なぜか理由を聞くと、彼女は透けるような微笑を浮かべた。
「・・・・・・あなたにはあなたに相応しい場所があるわ。そのことに気づいただけ」
 それが、最後に交わした言葉。二人の関係は、張り詰めた糸がぷつりと切れるように、あっけなく終わりを迎えた。ファーレンハイトが望んでも、クリスティーナは二度と会おうとはしなかった。
そして月日は過ぎていく。ゆっくりと想い出の上に時間が降り積もり、彼の胸に空いていた穴をまるで何事もなかったかのように埋め尽くしていった。
 彼女の心だけはついに分からないままに――

**********

 十数年ぶりに訪ねるアルデンホフ家の別荘は、昔と変わらない佇まいであったが、敷地をめぐる生け垣や庭木は手入れがされていないらしく、ずい分荒れて様変わりしていた。出迎えたヨハンナも、良家の使用人らしい立ち振る舞いはそのままだが、表情はやや強張り、心なしか曇ってさえ見える。
「わざわざお呼び立てして申し訳ありません」
 海の物とも山の物ともつかない士官学校生だった頃には決して聞けなかった慇懃な挨拶に、ファーレンハイトは時の流れを痛感せずにいられなかった。
「一体何の病だ。よほどお悪いのか」
「奥様はご病気ではありません」
 ヨハンナは抑揚のない声で言うと、部屋の扉を開けた。常駐しているらしい看護師に声をかけ、退室を促す。
「一年前に自ら命を絶とうとなさって、そのまま意識不明の状態が続いているのです」
 広い部屋の中央に置かれたベッドに、クリスティーナは眠っていた。
 湖に面した大きな硝子扉の向こうは、ウッドテラスになっている。燦々と降り注ぐ春の午後の光の中で見る彼女の寝顔は、昔と少しも変わらない。まるで十数年の間、そこだけ時間が止まっていたかのように。
 ヨハンナは、驚きと困惑に揺れる水色の瞳を真っ直ぐに見つめ、一通の象牙色の封書を差し出した。
「あなた様にだけ、遺書を残しておられました。・・・・・・もう昔の話ですし、ご連絡差し上げるのも随分迷ったのですが、やはりお渡しするのが一番良いだろうと思いました」
 手紙に目を通すファーレンハイトの横で、彼女はメイドが持ってきた花を花瓶に差しながら語って聞かせた。
 もともとクリスティーナが子爵家の後妻にと請われたのは、単に跡継ぎを生むためだったという。しかし、十年以上も正常な夫婦生活を営みながら、彼女はついに懐妊しなかった。子爵の母カタリーナは、彼女に原因があると信じて疑わず、会うたびに大層責めていたが、実際はそうではなかった。しかし、真実を知らないカタリーナは、息子の愛人の世話までしたという。しかも、大変迷信深い女で、アルデンホフの正統な血筋にこだわり続け、あまたの養子縁組の話も全て断り続けた。
夫婦と家族の関係が軋み始めるのに、そう長い時間はかからなかった。気詰まりな暮らしに耐えられなくなったグスタフは、元来好きだった酒に逃げ、次第に仕事と称して家を空けるようになった。一人孤独を託つクリスティーナは離縁を願い出るものの、またも子爵家の体面を保とうとするカタリーナと親族の意向で、許されることはなかった。
 飼い殺し。
 一見、何の不自由もない満たされた生活は、徐々にクリスティーナの生きる希望を奪っていく。ファーレンハイトと出会ったのは、ちょうどその頃だ。
 この閉ざされた世界から私を連れ出して――
 いつかの言葉の意味が、今ようやく分かったと思った。そして、そこに込められた深い苦悩も。一緒にどこかへ逃げて欲しいと思ったのか、不義の子でもいいから欲しいと望んだのか、その本心は定かではない。だが、きっと、クリスティーナが望んだものは、金や地位や名誉では購えない、もっと純粋なものだったのだろう。割り切って生きる人間も多いのに、彼女にはそれができなかった。
「奥様は年々塞ぎがちになり、ここ数年はずっとこの別荘にこもりきりでいらっしゃいました。気分の良い時には、時々あなた様のことを思い出して、懐かしんでおられましたよ」
 去年、カタリーナが亡くなり、アルデンホフ家はようやく養子を迎えることを決めた。クリスティーナが服用していた精神安定剤を大量に飲み、昏睡状態に陥ったのは、その矢先のことだったという。
 ファーレンハイトには理解できない。門閥貴族の家が、一人の女の心を犠牲にして守らねばならないものとは、それほど重いものなのだろうか。
「どうか誤解なさらないで下さい」
 ヨハンナの声が、暗い迷宮へと迷い込みそうになる感覚を現実に引き戻す。
「奥様は決してあなたを利用しようとしていたわけではありません。奥様はあなたを本当に愛しておいででした。ただ、あなたの未来に陰がさすようなことになってはいけないと仰って・・・・・・女とはつくづく、ままならぬ生き物なのですわ」
 あの別れの日、もし自分が今の年齢だったら、そして全ての事情を知っていたとしたら、もっと違う言葉と態度でクリスティーナに接してやれただろうか。彼女を救ってやれただろうか。いや、とファーレンハイトは思い直す。たとえそうだとしても、クリスティーナはやはり彼を自由にしただろう。この手紙に書かれていることが彼女の心からの想いならば、きっと。
 ヨハンナは窓辺に花を飾る。クリスティーナの好きだったカトレヤの花。
「もうじき・・・・・・戦争が、始まるそうですね」
 アルデンホフ家はすでに遠い縁戚関係にあるリッテンハイム侯のために、私兵を投じることが決まっているという。
「あなたは、敵軍の将となられるのでしょうか」
 ためらいがちの問い掛けに、ファーレンハイトは微かに笑って首を振った。
 幸か不幸か、彼はローエングラム侯の元帥府に招聘されていない。従って、ブラウンシュヴァイク・リッテンハイム連合軍を率いる貴族軍人の指揮下に入ることになるだろう。 
ローエングラム侯には、かつてその下でアスターテ会戦を戦って以来、面白い男だと感じて興味深く注目していた。やがて、身分に関係なく能力のある若い将官が、彼の下で次々と登用されていくのを横目で見ながら、自分に声が掛からないのを歯がゆく思ったこともある。しかし、今に至って思う。これも何かの巡り合わせではないだろうか、と。
「俺はブラウンシュヴァイク公にもリッテンハイム侯にも義理はない。彼らの為に命を賭けるのは不本意だと思っている。だが、アルデンホフ子爵夫人には世話になった」
 数か月の間、左右に大きく振れ続けていた胸のベクトルが、一つの方向に定まっていくのを感じながら、ファーレンハイトは、眠るクリスティーナの美貌に目を落とした。彼女と出会っていなければ、もしかした今日の自分はいなかったかもしれない。
「だから、もしも・・・・・・いつか彼女が目を覚ますことがあったなら、伝えて欲しい。今度の戦役に際し、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイトは、他の誰の為でもなく貴女への恩返しのつもりで戦ったと」
 ヨハンナは深く頷いた。たとえ叶わぬことだと分かっていても、もしかしたら、これが彼の最後の願いになるかもしれないのだから。
「はい。必ず、お伝えします」
 昼下がりの淡い陽射しが、鏡のような湖面に反射してきらきらと煌めいた。
 クリスティーナは、少女のように眠り続ける。いつまでも。
 夢を見ているだろうか。
 もしそうならば、どうか幸せな夢であって欲しいと願いながら、ファーレンハイトは、今はもう何も語らないその唇にそっとキスをした。
 胸に、ひとつの予感がある。
 内戦が起こったとして、おそらく貴族連合軍はあの男に負けるだろう。そうなればこの国は変わる。
 ――もし、この戦いで死ぬとしたら、それが俺の運命だったということだ。だが、運良く生き残ったら、その時は・・・・・・
 新しい時代の到来をこの目で見てみたい。それを誰よりも願ったであろう彼女の代わりに。


親愛なるアーダルベルト・フォン・ファーレンハイト 様

 あなたがこの手紙を読む頃、私はこの世にはいません。
 私が死を選んだのは、月並みな言い方ですが、これ以上生きていく意味を見失ったからです。
 子どもを生むこともできず、夫に愛されもせず、仕事をして世の中に貢献するわけでもない。
 人は、自分の為だけに生きていくことはできません。誰かの為に何かをして生きていたい。それを愛と呼ぶのだと思います。
 愛のない世界で、いたずらに生き続けるほど孤独なことはないでしょう。
 あなたは、私のただひとつの希望。でもあなたにはあなたの未来がある。あなたを自由にすることが、私の最後の愛でした。
 どうかお元気で。あなたは心のままに生きてください。
 今後のご活躍を遠い空からお祈りしています。

 愛を込めて クリスティーナ
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