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イノセント・プリンセス(8)
 軍病院でベアトリスを見舞ったヒルダは、 病室を出ると、他の3人にバッケスホーフの遺体を密かに運び出すつもりでいることを打ち明けた。
 既に、多くを語らずとも意思の疎通ができるようになっていた彼女等は黙って頷くと、ベルタの意を受けた軍医の先導で、遺体安置室に赴いた。
 多くの身元不明遺体と共に、冷蔵カプセル型の棺に納められた同僚を見つけると、4人は数秒間の短い黙祷を捧げた後、速やかに棺ごと遺体を運び出した。
 さすがにこれだけの大荷物を運び出すとなると、誰にも見られずにという訳にはいかず、途中、警備の兵士に一度呼び止められた。
 だが、先導役の軍医とヒルダが、わざと居丈高に身分と階級を述べて威圧し、特別措置により外部の病院で遺体を解剖する為に運び出すことを堂々と告げて押し切った。
 裏手の通用口には、ベルタが手配したワゴン車が待機しており、5人がかりで棺を荷台に積み込むと、車は素早く走り去った。
「困ります。いくらフロイライン・マリーンドルフと言えど、軍病院の管理下にある遺体を勝手に運び出すとはっ!」
 警備兵から報告を受けた担当医が、慌てて駆けつけた時には、車は既に病院の裏門を出て、数分が経過していた。
「お黙りなさいっ! 不審な点があるからこそ、外部機関で調べ直すのです。私は、彼の上官として、死因に納得しておりません。それとも、何か調べられては不都合なことでもおありなのですか? もし、私の行為が越権に当たると仰るなら、改めて皇帝陛下に直訴する所存です」
 最後の一言で、中年の軍医中佐は押し黙って退散した。
 以前から、軍内のみならず一般でも、マリーンドルフ伯爵令嬢と皇帝とは、ただの上司と主席秘書官の関係ではないのではという疑いを以って見られていた。特に、今月13日に行われた叙勲式典に同伴したことで、その認識は確信に変わったと言っていい。ヒルダは、幾分後ろめたさを感じつつも、この非常時を乗り切る為に、彼等の思い込みをこの際利用したつもりだった。
「これで、犯行組織に繋がる者を焙り出せるといいですわね」
 軍医が去ったのを確認した後で、ヘレーネが静かに問い掛けた。
「ええ、これだけ脅しておけば、この話は今夜中に軍病院中に広まるでしょう。多分、バッケスホーフ事務官の治療に関わった者達の中で、突然連絡が取れなくなる人物が出てくるはずよ」
 ヒルダが、いつもの穏やかで冷静な彼女に戻って答えた。
 既にこの件は、爆破事件捜査の総責任者である憲兵副総監に伝達済みで、解剖結果と容疑者次第で、すぐに警察も憲兵隊も動く予定である。
 とはいえ、軍病院の管理下にある遺体を強引に外部に運び出すというのは、かなり危険なスタンドプレーには違いなく、軍医総監を通じて、抗議される覚悟もヒルダにはできている。
「それにしても、ヒルダの啖呵は、なかなか迫力だったわよ。あれぞ、まさしく、皇妃様の威厳ね。あのおっさん、ほんとにビビってたし」
 アンナが茶化して言うと、途端、ヒルダの顔は年齢相応の若い女性のそれに変わり、かっと頬を赤らめた。
「もう! やめてよ。これでも、心臓がばくばくだったのよ。その場で警察を呼ばれでもしたら、どうしようかと思ってたんだから。私達のしたことは、今の段階では死体泥棒みたいなものなのよ」
 当人の抗議に、3人は顔を見合わせて微笑した。
「解剖結果は、何時頃出るんですか?」
 サーシャが、少し気を引き締めた口調で訊ねる。
「ファーレンハイト軍医中佐によると、早ければ、明日の朝にも出るとのことよ。それで死因に不審な点が出れば、一歩前進すると思うのだけど…」
 ヒルダは、彼女にしては珍しく、曖昧に語尾を濁した。
 実のところ、バッケスホーフの死が、今回の爆破事件に関係しているのか、彼を含めて、ブラウンシュバイク公に関連する人々が次々に被害に遭っていることに、何か意味があるのか、それとも、単なる偶然なのか、ヒルダにもまだ確信が持てなかった。
 4人は、一先ず無人タクシーを2台拾うと、ヒルダと他の3名に分かれて、一旦、それぞれの宿舎となっているホテルへ帰っていった。
 深夜11時に、もう一度密かに対策室で落ち合う予定である。
 今日の彼女等には、もう一つ重大な仕事が残っていた。それを確認する為の再度の集合を約束して別れたのだ。
 ヒルダは、仮大本営となっているホテルに戻ると、まだ執務室に残っていた皇帝に簡潔に報告を行った後、同じホテルの下階にある自室に戻った。
 将官待遇の彼女の部屋は、オーディンの伯爵邸に比べれば豪華さはないが、女性一人が暮らすには充分広いスペースが確保されており、ダブルサイズのベッドに、簡単な応接セットがある機能的な部屋だった。
 職場とプライベートが同じ建物内にあるということは、合理的な反面常に勤務状態であるのと同じで、ストレスになる。だが、今回ばかりはこの状況が便利で有難かった。
 ルームサービスで簡単な夕食を摂ると、ヒルダはじっと時間が来るのを待った。
 午後11時3分前、部屋を出たヒルダは、エレベーターで真っ直ぐ対策室オフィスとなっている元は会議室だった部屋の前に来ると、ヘレーネ達3人が既に来ていた。
 ヒルダ達は、身分証をかざして部屋のロックを解除して入室すると、遮光カーテンを下ろしてから照明を点け、一斉に作業に取り掛かった。
 まず、送信データを復旧させ、部屋にある業務用端末20台を、一台づつチェックしていく。 
 ベアトリスの叔母にして、ブラウンシュバイク公爵家の一門、ボーデン子爵家の次男に嫁いだギゼラ夫人は、娘のオティーリエ嬢によると、事件の日の前日の午後、ベアトリスから連絡があり、翌日に会う約束をしたらしい。
 爆心地となった待ち合わせ場所の高級デパートには、有名レストランが何件も入っており、ランチタイムや夕食時には、裕福なフェザーン人達で、いつも賑わっている。
 ギゼラ・フォン・ボーデン夫人は、その中で最近評判になっている店の名前を挙げ、姪のベアトリスと昼食を摂りながら、久しぶりにゆっくり話をするのを楽しみに、着飾って出かけて行ったという。
 オティーリエも母親と一緒に行きたかったらしいが、私立大学の演劇科に通う彼女は、丁度大事な講義のある日だったので、同行できなかったらしい。もし、行っていれば、間違いなく母と共に爆死していたであろうことを思うと、未だに震えが止まらないと言う。
 勿論、ベアトリス自身は、そんな話は寝耳に水で、彼女がボーデン夫人を誘ったのではないことは確実である。
 しかし、夫人がベアトリスからの連絡だと全く疑いもせずに信じた根拠は、恐らく、音声通話ではなく、メールでの誘いだったからだろう。だが、肝心のギゼラの個人用端末は、爆破と共に跡形もなくなり、再生は不可能である。
 ヒルダは、即座に警察を通じて、サーバーにバックアップを取ってあるはずの通信サービス事業者に、データを提出するよう依頼したが、個人情報の保護という観点から、フェザーンの条例に照らし合わせると、許可が下りるのに、時間がかかるとのことだった。
 彼女を偽メールで誘い出して爆殺することが、この事件の動機の一つであるという何らかの傍証があれば、強権を発動できないでもないが、今の時点ではそれは難しかった。
 ならば、発信源をまず調べるしかない。
 4人は、オフィス内の端末をチェックし、オティーリエが記憶している、ギゼラがベアトリスのなりすましメールを受け取ったと思われる時間前後の発信記録を全て調べたが、予想した通り該当するメールは見つからなかった。
「まあ、当然、いつまでも証拠を残しておくようなバカなことはしないでしょうね」
 アンナが、嘆息しながら言う。
「では、削除されたデータを復旧させましょう」
 ヒルダの号令以下、4人は一斉に作業に取り掛かる。
 まず、ヒルダが、室長である彼女にしかアクセス権のないバックアップ用データにアクセスすると、膨大な作業データの中から、該当箇所のデータを拾っていった。
 だが、いくら復旧させても、ベアトリスの業務用IDからボーデン夫人へ送られたメールのデータは見つからなかった。
 どうやら、相手はかなり用心深く念を入れたのだろう。
 他のメンバーにはあえて知らせていなかった非常用バックアップデータまで削除したということは、ベアトリスだけでなく、ヒルダのパスワードも盗まれていたことを意味していた。
 ヒルダは、感染拡大防止対策室の業務に関しては、元からいる女性軍人達だけでなく、バッケスホーフを含む新任の5人も信頼していた。
 まして今回の爆破事件を予測することは、神ならぬ身の彼女には不可能であり、結束の強い小規模な部署にありがちに、セキュリティを徹底していなかった。
 思い返して見れば、この部屋に所属する者なら皆、「盗む」などという大げさなことではなく、日常業務中の自然な動きの中で、他の同僚達のIDとパスワードを知ろうと思えば容易に出来る環境だった。
 ヒルダは、その点の自分の甘さを悔いていた。
「成果なし、か…」
 サーシャが諦めた口調で嘆息した時、アンナが突然思いついたように声を上げて、自分の端末に向かった。
「やっぱり、思った通りだわ。これを見て」
 一同がアンナの周囲に集まり、同じ画面を見入る。
「ほら、バックアップデータに残っていた送信メールの数と、受信メールの数が、1づつ足りないでしょ」
「あっ」
 と、全員が同時に声を発した。
 アンナは、独自に送受信したメール数を日毎にカウントするソフトをインストールしていたらしい。
 元々商売人の娘である彼女は、新たに実家が始めた事業の為に、処理件数と通信量から作業効率を計ることを考え、それを密かにこの部署で試すことを思いついたのだという。 無論、外部に漏らす意思はないので、メールの内容は残さず、こちら側の送受信者と数しかわからない。
 それでも、データによると、爆破事件のあった日の前日、21日1532時にベアトリスのアドレスから外部端末へ発信記録があり、8分後の1540時に受信の記録がある。
 バックアップデータと照合した結果、削除されていたのは、この2件に間違いない。
 内容が読めないのが残念だったが、それはこの際大した問題ではない。
「でも、ちょっと解せないわ。ベアトリスを騙ってボーデン夫人を上手く誘い出すメールを送ったとして、夫人が必ず承知するとは限らないでしょ? もしかしたら、その日は都合が悪いかもしれないじゃない?」
 ヘレーネが尤もな疑問を口にした。
「もし、夫人が来られない場合は、もしかしたら、計画を別の日に変更するか、彼女だけを後日改めて始末するつもりだったのかもしれないわ。ボーデン夫人が、犯人の動機に気付いていないとしたら、これだけ大胆なことをした者ですもの、女性一人を殺すことくらい躊躇しないでしょう」
 ヒルダが静かな怒りを含んだ声で答えると、ヘレーネも成程と納得した。
「でも、それよりも、夫人の方から本物のベアトリスの個人用端末にでも電話が入ったら、どうするつもりだったのかしら? いっぺんにバレちゃうわ」
 今度はアンナが疑問を呈した。
「それが、8分後の返信メールだったんじゃない?」
 サーシャが思いついたことを口にすると、ヒルダがこくりと頷いて、「私もそう思うわ」と言った。
「ボーデン夫人を、22日の丁度12時半くらいの時間に、あのデパートの中の店に誘って、『実は今、勤務中で音声通話ができないの。申し訳ないんですが、ご都合をこのアドレスに返信して頂戴』とか書き添えて、ついでに『私は今日は残業で深夜にならないと宿舎に帰れそうにないので、私用通信はこれ以上できませんので、よろしく』とか?」
 ヘレーネが想像した具体的な手口を話すと、ヒルダがまた「多分、そんなことでしょうね」と言って同意した。
「事件当日の午前中、確認の為にベアトリス本人に連絡する可能性も考えれば、もしかしたら、個人端末のアドレスを変更したので、新しいものを知らせるとかまで念を入れたかもしれないわね」
 アンナが端末に向かいながら、更に推理を拡げていく。
「でも、そうするとやっぱり、犯人は、この部屋に入れる人物、つまり、対策室の誰かということになってしまうのね」
 ヘレーネが声を落とすと、ヒルダも無念そうに「ええ」とだけ言って肯定した。
 念の為、ヒルダは皇帝主席秘書官の権限で、この建物全体の入出室データを閲覧したが、問題の日にこの部屋に入った部外者はいなかった。
 第一、元々人数の少ないチームで、それ程広くない部屋である。部外者が入ってきて、一定時間端末の操作を行えば、必ず誰かの記憶に残っているはずだ。特に、あの事件の偽メールが送られた日は、公休日の前日ということもあり、皆根を詰めて仕事をしていた。
「でも、いったいあの4人のうちの誰が?」
 サーシャが誰に問うでもなく、自分の疑問を口にした。
「いいえ、4人とは限らないわ。亡くなったアレク…、バッケスホーフ事務官も、この際、容疑者から外すべきではないと考えています。あの事件は、とても一人の人間が起せるものではありません。背後に何らかの組織がいるのは明らかでしょう。バッケスホーフ事務官の死は、もしかしたら、手先に使った用済みの人間を消したという可能性もあるわ」
 ヒルダの怜悧な瞳が、冷徹に現実を分析し始める。
「その論法で行けば、この部屋に入れる人間は全て容疑者と考えるのが公平ではありませんか? 少なくとも現時点では。勿論、私も入院中のベアトリスも、失礼ですが、フロイラインご自身もです」
 ヘレーネの突飛な発言に、アンナとサーシャは同時に声を上げた。自分達はともかく、いやしくも上司であり、未来の皇后陛下かもしれない方に対して非礼であろう。
 しかし、ヒルダはその言葉に不快感を示すどころか、柔らかく微笑して頷いた。彼女は、ヘレーネの発想が嫌いではなかった。むしろ、このような公正さを好ましく思っていた。
「そうね。可能性だけを言えば、あなたの言う通りだわ。でも、私達女性5人は、アリバイがあるから、容疑者から外していいと思うの」
「アリバイ?」
 ヒルダの意外な返答に、3人は同時に訊き返した。
「そう。思い出してみて。公休日の前日の、午後3時半前後にそれぞれがいた場所を」
 そこではじめて、3人は気付いた。
 あの日、ヒルダは、主席秘書官として、久々に皇帝と昼食を共にする為に、正午には対策室を出ていた。その後、そのまま午後から定時の退庁時間の17時半頃まで、ずっと皇帝執務室に居て、18時近くに対策室のこの部屋に戻って来て残務処理をしたのだ。彼女のアリバイ証人は、恐れ多くもラインハルト皇帝陛下であると言える。他にも、現在は危篤状態の高級副官シュトライト中将を除けば、共に傍にあった親衛隊長のキスリング准将や、次席副官のリュッケ中尉、近侍のエミール少年など証人はいくらでもいる。また、ベアトリスは、午後2時から工部省に出向いて、収容施設の件で、あの工部尚書の筆頭秘書官と打ち合わせをし、戻ったのは4時半近くだったのを思い出した。
 そして、ヘレーネ、アンナ、サーシャの3人は、昼食を食べ損ねて一段落着いたところで、午後4時までランチメニューをやっているという噂の近くのファミリーレストランに行く為に3時に部屋を出て、1時間の休憩をとった。
 ヒルダは、午後6時近くに部屋に戻ると、ベアトリスから工部省側との打ち合わせ結果の報告と、他の3人からは、ランチの店の候補が一店増えた報告をそれぞれ受けたのを覚えていたのだった。
「まあ、アンナがあのソフトの情報の時間を書き換えて捏造したって線もあるけど、それを言ったらきりがなくなってしまうし、私はやっぱり、感情的と言われようが、貴女方を友人として信用しているのよ」
 ヒルダが少し悪戯っぽく言って微笑すると、他の3人にも笑顔が零れた。
 ヒルダが、女性同僚4人を信じ、一方で同じ立場で働く男性5人の疑いを解かなかった理由は、それなりに自分の中で思うところがあってのことだった。
 彼女達4人とは、短い付き合いながらも、オーディンからの知己ということもあり、それぞれのバックグランドをかなり詳しく把握しているつもりだった。
 ヘレーネについては、サビーネの事件で、彼女の立場や生い立ちを知ることとなり、ベアトリスについても、つい先程彼女自身の口から語られた。
 アンナとサーシャも、折に触れて自分や家族の話をしてくれる。そこでヒルダが彼女達から共通して感じるのは、新政権に対する強い期待だった。
 4人とも、それぞれ立場は異なるが、ローエングラム政権によって、何らかの特権を剥奪された経験を持つにも関わらず、新たな世に希望を見出しているのが、強く伝わってくるのだ。
 それは、門閥貴族の令嬢でありながら、旧体制打倒に思い至ったヒルダには、よく解る気持ちだった。
 自分も彼女達も、失ったものに対する嘆きよりも、不条理な旧帝国の男社会から自由になった解放感の方を悦んでいるのだ。その彼女達が、現体制の崩壊に繋がりかねない事件に手を貸すとは思えない。第一、彼女達に、ブラウンシュバイク公の関係者達を殺す動機がない。
 一方、男性の同僚5人については、こちらへ着いてから初めて会ったこともあり、まだよく解らない。
 全員有能で、彼等の生まれや立場にしては思考が柔軟で、新政権にも上手く順応している賢いタイプに思える。だが、同時にそれは、新たな秩序に必死で迎合し、生き残りを図ろうとしている計算の上の姿ともとれた。
 これからの世の中は、女や平民とも上手くやっていかなければ生きていけない。そう察して、動いているようだった。
 それが悪いとは思わない。むしろ、いつまで経っても旧体制の、血統優位、男性優位の価値観を捨てきれない男も多い中で、立派と言える。
 経歴を一見したところ、彼等のうちの誰にも、今のところブラウンシュバイク家と殊更深い関係にあった者はいない。
 ベアトリスを騙ってメールを送った理由も、何か別のことで、犯行組織に脅されていたということも考えられる。
 今の段階では、まだあらゆる可能性を排除できない。
 ヒルダは、自分の権限で動かせることになっている民間の調査組織をオーディンに遣わし、密かに5人の経歴をもう一度洗い直す決意をすると、その夜はこの成果を以って3人と共に撤収した。
 部屋を出た後、念の為もう一度主席秘書官としての執務室に戻ると、今の4人分の入退室データを消去した。大本営の勤怠管理を行っている一門の人事局長に、予めアクセス権を一時的に貰っていたのである。


 翌朝6時、ヒルダは自分の携帯端末が音声通話を知らせる音で目覚めさせられた。
 深夜の2時過ぎに部屋に戻ってベッドに入ってから、まだ3時間程しか経っていない。
 それでも、眠い頭を叩き、いつもと同じ声で応対した。
 相手は、予想した通りファーレンハイト軍医中佐だった。この時間の連絡を気遣ってか、モニターをオフにした音声のみの通話であることが有難かった。
 ベルタは、まず、個人用端末への早朝の電話を詫びると、バッケスホーフの解剖結果が出たことを伝えた。
「とんでもございません中佐。何時でも結果が出次第お知らせ下さいとお願いしたのは私です」
 ヒルダは、自分より10歳以上年上の軍医中佐に恐縮すると、結果に聞き入った。
 ベルタは、冷静な声で、予想した通り、バッケスホーフの血液中から検出されたとして、耳慣れない薬品名を2つばかり上げた。そのすぐ後で、この分野には素人であるヒルダに対し、それらがサイオキシン麻薬の原料として使用される物質であると説明を加えた。
 ヒルダは、一気に眠気が吹き飛んだ。
 恐らく、点滴に混入されたものと思われるが、それが可能だった者は限られている。
 ベルタは、この件を既に憲兵副総監に連絡済みで、今頃は憲兵隊と軍務省の調査局員が、軍病院を抑えに向かっているはずだと言う。
 そこでヒルダは、はたと気付いた。とりあえず危機的な状況は脱したとはいえ、未だ話が出来ないシュトライトとフェルナーの2人も危ない。
 ヒルダは、心臓が高鳴るのを抑えながら、そのことをベルタに伝え、早急に2人を別の病院へ移す手配が必要であると主張した。
 ベルタは、本来なら自分が陣頭に立って2人を安全な別の病院へ移し、一部の人間にしか身元を明かさずに、匿名で入院させる措置を行いたいのだが、実は今、ある事情であまり迅速に動けないのだという。
 その理由を、一瞬の逡巡を感じさせる声で、自らの懐妊にあることを打ち明けた。
「まあ、それは…おめでとうございます」
 ヒルダは率直に祝いを述べた。
 ベルタは、それでも軍医中佐として、この大事に自分の身がままならないことを詫びると、ヒルダは、そんな風に思われる必要はないと労った。
「それより、お身体を大事になさって下さい。シュトライト中将とフェルナー准将の件は、こちらで何とか致します」
 ヒルダは、安心させるように言ったつもりだったが、彼女より10年以上のキャリアを誇る女軍医は、それに安住する気はなかった。
 ベルタは、自分の代わりに、確実に信頼のおける軍医の名を3名程伝えると、彼等には話を通して置くので、早急に計画を実行するよう促した。
 ヒルダは、その計らいを有難く受けると、もう一度礼を言って端末を切った。
 身支度をしようと、バスルームに向かおうとした時、今度は憲兵副総監からメールが入った。
 ベルタからの連絡をを受け、軍病院に派遣された憲兵隊の一個大隊は、直ぐにバッケスホーフの治療に携わった者全員の身柄確保に乗り出した。非番の者にもすぐに出勤するように命じたが、一人の20代の男性看護師と、どうしても連絡がとれず、即座に部下2名を、彼の自室がある病院裏に建つ寮に急行させた。
 しかし、そこで憲兵隊員が発見したのは、ブラスターで自ら頭を打ちぬいた男の無残な自殺死体だった。
 ここまでは、ある程度予測していたことだったので、ヒルダもさして驚かなかった。
 彼女が息を飲んで困惑してしまったのは、自殺した看護師が、予想していたフェザーン人でも同盟人でもなく、今回の大本営の移動で共にフェザーンにやって来た、生粋の帝国人であったことだった。
 その男の部屋には、地球教の教典があり、死体の右袖の内側には、「地球はわが故郷、地球をわが手に」という刺繍が施されていたという。
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