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イノセント・プリンセス(5)
 バッケスホーフの死は、対策室を震撼させた。
「どういうことですか? 午前中の報告では、意識も戻り、回復に向かっているとのことでしたが?」
 軍病院の事務員に向かって、動揺を押し殺しながら、ヒルダはモニターごしに訊ねた。
「後ほど、主治医から改めて説明があるはずですが何分にも重傷でしたから、こういうことも有り得ると…」
 事務員も困惑しているのか、歯切れが悪い。
 ヒルダは、何か異様なものを感じ取っていた。
 そう言えば、彼は爵位のない貴族ということにはなっているが、かつてのフェザーン高等弁務官レムシャイド伯の甥であり、ブラウンシュバイク公とも遠縁に当たるはずだった。
 もっとも、門閥貴族の場合、それを言ってしまうと殆ど全てが血縁になってしまうので、適当なところで切って考えなければいけない。
 そでれもヒルダは、後から死亡に至る経緯を知らせてきた主治医からの報告を続き部屋の個室で受けると、密かに遺体を司法解剖するよう依頼した。
「残念ではありますが、重傷者には稀にあることです。自然死でありますし、今は他の負傷者の治療で手いっぱいの状況で、軍病院は余裕がありません」
 中佐の肩書を持つ中年の軍医は、准将待遇の若い娘に向かって、それでも丁寧に無用な依頼を拒絶した。
 確かに帝国内でもフェザーンでも、法的には変死でなければ司法解剖は行わないことになっていた。
「わかりました。では、暫くの間、遺体を安置所に保存して下さるようお願いします。ご遺族がオーディンにいらっしゃるので、火葬する前に対面させて差し上げたいのです」
 ヒルダは、そう嘘をついて、主治医を説得した。バッケスホーフは独身で、数少ない身内は皆、銀河帝国正統政府が瓦解した時点で行方不明だ。
 しかし、主治医はその言葉を信じたのか、「そのくらいなら特別に計らいましょう」と言って承諾してくれた。
 ヒルダは、主治医との通信を切ると、すぐに今度は休暇をとっているファーレンハイト軍医中佐の携帯端末にかけた。
 ヒルダは、休暇中の連絡を詫びると、誰か外部の信頼できる解剖医を手配できないかと相談を持ちかけた。
 バッケスホーフが急死したことを伝え、確証はないが何かその死に不審を感じていることを正直に告げて、密かに遺体を解剖したいのだと言った。
 ファーレンハイト軍医中佐ことベルタは、バッケスホーフを最初に治療した医師として、死亡の報を聞くと、通話口から息を呑むのが判るほど驚いたようだ。そして、ヒルダの勘は間違っていないと思うと言う。
「オーディンならともかく、フェザーンの医療水準で、あの状態で死亡するなど考えられません」
 ベルタは、即座に解剖に同意すると、心当たりがあるので、今夜にでも遺体を運び出す準備をすると言って通話を切った。
 ヒルダは、とりあえず証拠が隠滅されるのを免れたことを感じ、一人ほっと胸を撫で下ろした。
 軍病院の職員は、バッケスホーフの主治医を含めて殆どが帝国本土から帯同してきた軍医や看護師だが、フェザーンの先進医療を取り入れる為に、こちらの大学病院から各科に医師、看護師、理学療法士、薬剤師等を派遣させていた。その為、現場は帝国人とフェザーン人が入り乱れている。更に、バーラトの和約以来、名目上は終戦となった同盟出身の医療従事者も少数だが含まれているとのことだった。
 そのような状況下で、今は確実に信頼のおける者にしか、この事は打ち明けられない。その点で、軍首脳の妻であり、姉でもあるベルタは、最初に秘密を共有するのに適任な医療関係者だった。
 ヒルダは、バッケスホーフの遺体に対面するのと、先程搬送されたベアトリスを見舞う為、退庁時間後にヘレーネ達3人と共に軍病院を訪れた。



 ベアトリスは、対策室で倒れてから4時間後に軍病院の個室で目を覚ました。
 窓の外の夜景が、定時なら既に退庁時間をとっくに過ぎていることを示していた。
 担当の軍医と看護師が部屋を出ると、ヒルダとヘレーネ達4人が、笑顔で覗き込んでいた。
 対策室の方は、今のところ緊急を要する事案はなく、クリューガーやリスナー達が手分けして処理しているので、心配ないとヒルダが言う。
 バッケスホーフの件は、まだ黙っていた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
 身を起そうとするベアトリスを制し、ヒルダは、あらためて自分が想像していた彼女の事情を確認する。
「オーディンのお屋敷にいらっしゃるご家族は、かなりご不自由をしてらっしゃるのですか?」
「はい。母と叔母の一人が、週に3度マナースクールの講師をして、扶養控除枠内で働いています。弟は、来年ギムナジウムを卒業しますが、大学進学を諦めて、学費が無料で寮にも入れる士官学校へ進むと言っています。妹達も事情を察して、進学せずにできるだけ早く働きに出るか、弟と同じように今年から女子が入学できるようになった士官学校を目指すことを考えているようです。ですが、やはり今の収入で叔母達の医療費と邸の維持は、もう限界です。男爵号を競売にかけることや、思い切って邸を売却することも、考えましたが、どちらも上手くいきませんでした」
 気落ちしたように、淡々と話すベアトリスに、ヒルダの蒼碧色の瞳が一瞬曇る。だが、その曇りは、本当に一瞬のもので、すぐさま決意を秘めた輝きに変わった。
「私が民政省に働きかけ、何とか早急に、叔母様方のような方々の治療費を、全額国費で賄えるようにします。これは、あなた一人が背負う問題ではありません。民政省が聞き入れなければ、陛下にも直訴するつもりです」
 ヒルダの言葉に、ベアトリスと事情を知るヘレーネの瞳に、希望の光が灯った。
 だが、アンナとサーシャは、まだ怪訝な表情で、自分達だけが蚊帳の外の会話にやや不満そうな顔をしていた。
「叔母様の治療費って、ベアトリスの叔母様って、私達がお邪魔した時にご挨拶した、あの明るい綺麗な方だけじゃないの?」
 アンナが、オーディンでサビーネの事件の折にアデナウアー男爵邸に集まった時に紹介された、ダニエラという名の二十代の女性を思い出して言った。
 ベアトリスの母である義姉と一緒に、使用人のいないアデナウアー邸で、手料理を振舞ってくれた気さくで、明朗快活な健康そうな美女だった。
「ええ、ダニエラ叔母様は病気ではないのだけど、彼女の他に、亡くなった父の妹になっている叔母達が、邸の二階に6人いるわ。皆、それぞれ病気を抱えていて、介護や保険が適用されない治療が必要だったりするの。使用人は全員解雇せざるを得なかったので、母と健康なダニエラ叔母様が、働きながら交代で面倒をみているわ。妹達も大きくなったので、最近ではよく手伝ってくれているみたい」
 6人という数字に、アンナとサーシャの2人は絶句し、ヒルダは軽い溜息を漏らした。最初から事情を知らされているヘレーネだけが無表情で俯いた。
「それにしても、どうしてその方達全員をあなたが面倒を見なければならないわけ? それぞれ結婚して家族はいないの?」
 サーシャが、得心がいかない口調で問う。
「誰も結婚してはいません。そして、全員父の本当の妹でもありません。皆、アデナウアー家の娘として、祖父が養女にして後宮に送り込んだ人達なのよ」
 目を伏せながら自家の事情を話すベアトリスの苦悶の表情に、友人達も少しづつ状況を理解し始めた。
 そして、ベアトリスは、信頼する4人の友に、あらためて半世紀遡る発端から、アデナウアー家の抱える闇を具に語ったのだった。



 アデナウアー男爵家は、60年前までは平民だった。
 開祖ルドルフ以来、建前上は身分が固定されているはずのゴールデンバウム王朝だったが、何らかの功により、平民が貴族の称号を得たり、下級貴族が爵位を授けられる例は、開闢直後から度々存在した。
 もっとも、その「功績」とやらの殆どは、真に国家への貢献という場合は少なく、典礼省の役人や、権門の大貴族等への賄賂の金額で決まることは、暗黙の了解だった。
 ベアトリスの曽祖父に当たる人物は、株の投資で巨万の富を得た。
 彼は、築いた財産の半額に相当する金額を典礼省にばら撒き、晩年に目出度く「フォン」の称号を手に入れて、貴族の仲間入りを果たしたのである。
 しかし、こうしたアデナウアーのような新興貴族は、帝国内各所に山ほどおり、特に帝国歴400年以降は、同盟との戦争による慢性的な財政難から貴族称号を乱発する傾向があった。
 その為、こうした成り上がりの一代、二代目の貴族は、当然のことながら数百年の伝統と血筋を拠り所にする代々続く門閥貴族達からは蔑視され、同じ貴族でありながら、彼等と名門貴族との間には、依然として高い壁が存在した。
 貴族となったアデナウアー家が次に目指したのは、爵位を得、門閥貴族と縁戚となってその列に連なることだったが、その夢は、初代の死後その息子であるベアトリスの祖父が受け継ぐこととなった。
 だが、多少の資産があるとはいえ、親の代にやっと貴族になったばかりの成り上がりに嫁ぐ爵位のある名門貴族の娘は流石におらず、祖父は結局、同じ下級貴族だが、200年以上代々帝国騎士の称号を持つ家から妻を迎え、とりあえず一段階段を登った。
 ベアトリスの祖母に当たるその女性は、父を出産して間もなく亡くなり、祖父はその後、希望する良縁に恵まれず、生涯後妻を迎えることはなかった。
 祖父の野望は、息子の嫁に爵位を持つ門閥貴族の娘を迎え、自身もまず男爵号を得ることだった。
 当時、それを達成する為に最も有効な手段は、身内から皇帝の寵姫を出すことだった。
 その為、好色な皇帝に自分の娘や妹、時には妻を指し出す野心家の貴族は珍しくなかった。
 しかし、生憎と祖父には父以外嫡出子がおらず、何人か外に産ませた庶子の女児達も、明らかに当時の皇帝の好みに合致していなかったり、年齢的に後宮には上げられない者ばかりだった。
 そこで、仲介業者に依頼し、皇帝が好みそうな娘を選んで養女にし、次々と後宮に送り込んだのである。運よくお手が付けば、寵姫に昇格でき、その娘を通して実家に爵位を齎させる。
 養女にする娘には事欠かなかった。長きに渡る戦争で、一家の柱を失い、困窮している家は多く、美しい娘を積極的に売る親は後を絶たなかったらしい。
 こうして、ベアトリスの祖父が、自分の娘として後宮に送り込んだ女性は、約30年間の間に、21名にも及んだという。
 だが、初代の曽祖父以上に野心家で商才にも長けていた祖父とは正反対の性質のベアトリスの父は、そんな自分の父親の生き方に激しく反発し、強い嫌悪感を抱いていた。
 祖父の希望した官僚にも軍人にもならず、自家の経営する会社の一つに身を置き、長く商船の船長として暮らしていた。結婚も、親の承諾を得ず、ギムナジウムの後輩で、同じ下級貴族出の母と勝手にしてしまい、父親を激怒させたという話を、ベアトリスは祖父の死後に知った。
 祖父が最初に送り込んだ女性は、フリードリッヒ4世が即位して間もない時期で、皇帝が成熟した豊麗な女性を好んだ為、辺境惑星の貧民街生まれで、十代後半だった彼女を教育し直し、22歳の時に、後宮に納めた。
 大金を支払って買った娘だけに、美貌ではどの門閥貴族令嬢にもひけをとらず、入宮してすぐに皇帝のお手付きとなり、寵姫の末端に加わった。更に彼女は程なくして懐妊し、養父を狂喜させた。
 しかし、結局、このアデナウアー家から出た最初の寵姫は、難産の末、母子共に亡くなる。後に当時の関係者の証言から詳細を調べたベアトリスは、帝王切開を忌む後宮で、逆子であるのを無理に自然分娩させようとして、胎児は窒息死し、母体は大量出血して適切な措置が施されなかった結果であったことを知る。
 しかし、祖父はそれでも諦めず、今度は多産系の家系出身で、身体頑健な娘をあえて選んで後宮に入れた。
 ギゼラという名のその女性は、以後数奇な運命を辿ることとなる。
 豊麗な美貌と健康な身体のみならず、才智にも長けた彼女は、意外にも皇帝ではなく、当時健在だった皇后に気に入られる。
 そして、皇后付き女官として、後から後宮入りした“妹”達や他の寵姫が、必死で皇帝の寵を争うのを尻目に、次第に宮廷内での地位を固め、発言力を増していった。
 プライベートでは、子爵家の二男だった近衛兵と恋に落ちて結婚し、3児を儲けた後も皇后の側近として仕え、遂には副女官長にまで出世している。
 首都星の地方都市出身の平民の娘が、宮廷生活を満喫し、公私共に幸せを掴んだ典型的なサクセスストーリーだった。
 このギゼラが、アデナウアー家に待望の男爵号を齎した。
 彼女は、皇后の長女であるアマーリエと、夫の実家の本家筋であるブラウンシュバイク公爵家の世継ぎの長男との間の婚約を纏めるのに尽力し、その功により実家のアデナウアー家に男爵号が授与されることとなったのである。そして、このことは、平民であったアデナウアー家が、細いながらも門閥と繋がったことも意味していた。
 それ以降、アデナウアー家が次々と後宮に送り込む娘達は、最初から「男爵令嬢」の肩書で入内することになるのである。
 しかし、後宮に納められた“アデナウアー男爵令嬢”達は、次々と皇帝の寵愛を受け、何人かは懐妊したものの、誰一人として、無事に出産を果たし、皇子女の「ご生母様」となった者はいなかった。
 唯一、現在、アデナウアー邸で療養中の元寵姫の一人は、4年間の後宮生活の中で、5回懐妊し、その内3回流産、1回死産の後、漸く男児を出産したが、生後一週間で原因不明の病死を遂げている。
 もっとも、こういった悲劇は、彼女達だけではなく、正史でも明らかなように、フリードリッヒ4世の子供達の内、無事成人したのは皇后の産んだ3人を含む5人のみで、その他、複数の寵姫達が生んだ11人の皇子や皇女は、いずれも夭折している。
 その原因が、復古主義の退化した医療にあるのか、何者かの作為によるものなのかは、誰にも判らない。
 確かなことは、祖父の野心の為に、21名の女性が、良くも悪くも人生を大きく変えられたという事実である。
 寵姫として後宮に納められたベアトリスの戸籍上の叔母達は、長期間皇帝のお渡りの無い者や、なかなか懐妊しない者、流産や死産で体調を崩し、容色の衰えた者などは、順次後宮から退がり、代わりに次々と新しい娘が送り込まれた。
 男爵となったベアトリスの祖父は、強引で野心的な事業家だったが、用済みとなった養女達には、それでも最低限のことはしてやった。
 当時はまだ、手広く事業を展開していて裕福だったこともあり、肉親が健在な者には、養子縁組を解除し、家族が生活していくのに十分な金銭を与えて実家に帰らせた。
 身寄りのない者で健康な者にも、充分な金を払い、同じく戸籍を元に戻して縁を切り、自由にしてやったのだ。
 これは、同じように血の繋がらない娘を後宮に納めていた門閥貴族達が、役に立たなくなって戻った元寵姫を、殆ど裸同然で叩き出した例が多かったことに比べると、各段に手厚い処遇と言えた。
 冷酷な成り上がり者と言われた祖父だったが、やはりそういう点は、平民の血なのだろうと、後になってからベアトリスは思った。
 こうした中で、アデナウアー家を出た辺境惑星出身者の中には、オーディンの新無憂宮で元寵姫という経歴がステイタスとなり、手切れ金として貰った金を元手に、商売を始めて成功している者や、妻に請われて家庭を築き、新しい幸せを見つけた者もいることを風の便りで知った。
 その一方で、以後全く消息が不明になってしまった者もいた。
 ベアトリスは、偶然にも今回のTIEG−36型感染拡大防止対策室での業務中、発生源となった娼婦達の名簿を作成していた時に、そのうちの一人を発見することとなる。
 名前だけしか知らなかった元叔母は、アデナウアー家から貰った金を持って一旦は生家に帰ったものの、その後、両親がその金を元手に始めた店の経営が上手くいかず、逆に借金を作ることになってしまったという。やがて、父はそれを苦に自殺し、徴兵された弟が戦死すると、病に倒れた母を養う為に様々な職に就いたが、借金は一向に減らず、最終的に身を売ることになったと、ベアトリスの聴取に淡々と答えた。
 一方、身寄りがなく、身体を壊している者達は、仕方なく当初別邸に住まわせ、養生させていた。
 現在、アデナウアー家で暮らすダニエラは、祖父が最後に後宮に送り込んだ21人目の養女だった。
 その時点では、皇帝の好みはとっくに豊麗な大人の女から、年若い少女へと移っていたので、ダニエラも辺境惑星からオーディンのアデナウアー家に買われて来た時は、まだ14歳の少女だった。
 幼いベアトリスは、この当時の彼女に遊んでもらった記憶が微かにあった。
 ダニエラは、利発で可憐な美少女だったが、辺境出身だけに、訛りがひどく、貴族令嬢として美しい帝国標準語に矯正するのに1年あまりの時間がかかった。他に、行儀作法や、最低限の教養など、男爵家の娘として恥ずかしくないだけの体裁を整えるのに更に1年を要し、16歳の誕生日を迎えてすぐに、やっと後宮入りを果たした。
 だが、アデナウアー男爵の期待を担って寵姫となったダニエラは、その期待に応えることはできなかった。
 皇帝は、彼女の純潔を奪った後、暫く訪れることはなく、結局寝台を共にしたのは、合計で3回程に留まった。
 その理由は、同時期に後宮入りした、彼女より一つ年下だという15歳の帝国騎士の娘が、皇帝の寵愛を独り占めし出したことだった。
 その娘の名前が、アンネローゼ・フォン・ミューゼルということと、皇帝の子を産むどころか懐妊もしないうちにグリューネワルト伯爵夫人の称号を授与されると知り、ますます後宮での存在感を無くしつつあるダニエラは焦った。
 このままでは、自分がここにいる意味がなくなってしまう。元々孤児であり、既に故郷の星に肉親もいないダニエラは、自分の居場所がなくなる恐怖に怯えた。
 そんな中、帝国歴478年、ベアトリスの祖父、アデナウアー男爵は、卒中で倒れて急死する。
 継嗣であった父が、急遽商船団から呼び戻され、家督を継いだ。
 当主となったベアトリスの父は、元々祖父の生き方を嫌っていたので、ダニエラを含め、その当時の後宮に居た3人の自分の戸籍上の妹達に対し、希望するならいつでも迎えるつもりだから、後宮を辞し帰ってきても構わない、必要なら籍を抜き、相応のお金を支払うので、元の家に帰ることも可能だと申し入れた。
 3人は、すぐさまその温情を受け入れると、ダニエラ以外の2人は、籍を抜いて、アデナウアーが用意した充分な金を持って親元へと戻っていった。
 彼女達が華やかな宮廷生活をあっさり捨てる気持ちになったのは、一つには、アンネローゼの登場で、自分達がこのまま年齢を重ねても、皇帝の寵愛が厚くなることは、ないだろうと冷静に判断したことと、何と言っても身の危険を感じたからだった。
 この30年近く、たとえ皇帝の寵愛を受けて、皇子や皇女を産んだとしても、殆どまともに育たず、自身も命を落としたり、著しく健康を損なう先輩の寵姫達を直に見てきた彼女達にしてみれば、義理の兄の申し出は、まさに渡りに船だった。
 また、3人共一度も懐妊したことがなく、まだ充分若く健康体だったことも、新たに人生をやり直す気持ちを後押しする材料だった。
 この辺りの割り切り方が、同じく自分の意思での後宮入りでなかったにも関わらず、最期まで寵姫の座に執着し続けて破滅した、生粋の門閥貴族令嬢のベーネミュンデ侯爵夫人と、金で買われた元平民の娘との差だった。
 身寄りがなく、流産や死産を経験した他の6人は、ある者は瀕死の状態で、子宮や卵巣と周辺臓器の壊死で摘出手術を受け、ある者は脳に障害が発生して半身が麻痺しており、またある者は精神を病んでいた。そして、全員慢性的な全身の痛みと倦怠感に苦しんでいた。
 一番年上の女性は、法廷伝染病に指定されている性病の一種と診断され、彼女だけが辛うじて全額国費で治療を受けている。
 フリードリッヒ4世は、大公時代からの放蕩癖が即位後も暫くの間は改まらず、30代後半くらいまでは、昔からの馴染みの娼館に、しばしばお忍びで通い続けていたらしい。
 その為、当時の後宮には、娼館経由で性病が持ち込まれることも時々あったが、毎日侍医の診察を受けるのが日課の皇帝自身は、初期の段階で発見され、適切な治療を受けられた為に大事に至ることはなかった。
 しかし、感染させられた寵姫達は、相当に症状が進むまで明らかにされず、お役御免で実家に戻ってきた時には、既に手遅れというケースが殆どだった。
 皇后や当時の宮内尚書等の説得もあり、フリードリッヒの娼館通いは、40近くになると漸く収まったが、死産や流産で命を落としたり、後遺症に悩まされる寵姫は後を絶たなかった。
 帝国人として育ったベアトリスは、当初このことを特に疑問には思わなかった。
 しかし、後に大学へ進学し、ローエングラム体制下でフェザーンや同盟の医療事情を知る機会を得ると、ゴールデンバウム王朝の後宮は、明らかに異常だと感じるようになった。
『多分、何か毒物が使われたんだわ』
 一般の閲覧が許されたばかりのフェザーンの出産に関する統計資料を読みながら、大学に入学したばかりのベアトリスはそう確信した。
 曽祖父や祖父に似ず、金銭欲も権力欲も乏しかったベアトリスの父だったが、男爵家の当主となったからには、流石に一商船の船長でいるわけにもいかず、戦時下の帝国では、爵位はあるが領地惑星を持たないという中流貴族は、建前上何か公職に就いて皇帝陛下の為に身を捧げなければならない立場にあった。
 しかし、それはあくまでも建前上のことであり、通常、貴族社会で慣例的に行われていたのは、典礼省や政権中枢の大貴族に付け届けを行い、勤務実態のない名誉職を得るか、軍籍を得ても予備役の将官か、首都星でのデスクワークが主体だった。
 ところが、新たなアデナウアー家の当主は、この慣習に従わず、典礼省に対しても、一応閥に属しているはずのブラウンシュバイク公爵家に対しても、「爵位継承のご挨拶」という名目での贈賄を一切行わなかった。
 無論、これは違法ではないが、それを当然の礼儀と思っていた人々にしてみれば、面白かろうはずがない。
 その報復のように、アデナウアー男爵は、士官学校出でもなければ、実戦経験もないにも関わらず、軍に徴用され、少佐の地位を与えられると、イゼルローン要塞第237駆逐隊所属の旧式駆逐艦ハーメルンIIの艦長として、前線に送られることとなる。
 階級も配属も、男爵家の当主に対するものとしては、嫌がらせに等しい人事だったが、父はそれにも不平を言わなかった。
「普通なら、一兵卒で徴兵されるところを、貴族だというだけで、少佐など身に過ぎると思っているよ。それより、戦争には素人の私の下で働くことになってしまった部下達が、私の判断ミスで命を落とすようなことだけは、あってはならない。幸い、副長の大尉が有能な人物らしくてね。実務的なことは、彼に任せようと思っている」
 家族の前で、穏やかにそう言って、初出仕していった時の父の顔を、ベアトリスは今でも鮮明に覚えている。
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