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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(42)
ラングと叔父のゴットルプ子爵とが、大本営の廊下で不穏な会話を交わしていた頃、エルフリーデは、フェザーン第27高等裁判所第115号法廷にて、サビーネ事件の最初の裁判を特別関係者席で傍聴していた。
 隣の席にはヒルダが座っており、その周囲にはベアトリス等対策室のメンバーと、サビーネの治療に当たった医師団の中で、こちらへ転属している者のうち、ほぼ全員が揃っていた。主治医を務めたファーレンハイト軍医中佐も無論同席している。
 サビーネの異母姉であるヘレーネと乳母のカルツ夫人は、これまでの帝国の裁判制度では存在し得なかった被害者遺族席に並んで座っている。ヘレーネ達だけでなく、事件のあった領地惑星の館に仕えていて虐殺された使用人達の遺族数名も列席していた。
 これも、遷都に向けて流通面を強化する為に、工部省の主導で交通インフラを充実させた成果と言えた。
 今日の被告人は、サビーネを直接襲った男ではなかったが、館の襲撃に主導的な役割を果たし、略奪、暴行、器物損壊及び強姦致死罪で起訴されていた。
 エルフリーデもヘレーネ達遺族もヒルダ率いる対策室のメンバーも、さすがに全ての裁判を傍聴するだけの時間的余裕はなかったが、この裁判が、とりあえずあの事件の最初の裁判になるということで、時間を作った。
 原則一審制をとることになった新たな司法制度の下では、主に政治犯や凶悪犯罪の刑事事件を高等裁判所で、民事事件や軽犯罪、経済事犯等を地方裁判所で裁くことになっていた。
 これらで審議を重ね、被告原告どちらか側かが判決を不服として司法尚書に直訴(実質上の控訴・上告)し、再審議が認められたケースのみ、司法省直属の大審院で再度審議される。
 それ故、一回限りの裁判は、陪審員の選定も含めて慎重に審議され、新たな証拠が出るなど余程の説得材料がない限り、判決に不服でも再審議が認められることはないとされていた。これは、裁判の長期化による被告、原告双方の負担が軽減される分、判事や陪審員の精神的負担は大きく、特に陪審員に選ばれた一般市民には二の足を踏む者が多かった。
 陪審員は、被告側、原告側どちらにも有利にも不利にも働かないよう配慮され、出身地や身分、年齢、性別に偏りがないように選出される。彼らは、日当が支払われる代わりに、特別な事情を申請しない限り拒否できない決まりになっていた。故に、上意下達の染み着いた帝国人と異なり、フェザーン人や同盟領出身者の中には、反発を覚える者も少なくなかった。
 陪審員の人数は、その事件の重大性よって8名〜40名までと、意見をまとめ易く且つ多角的見地から判断できる人数に固定される。
 リッテンハイム館襲撃事件裁判の陪審員は、全て総勢36名と大規模だった。
 当初、起訴された35名の元私兵達の裁判は、10月初旬にほぼ一斉に開始される予定だった。
 ところが、どの裁判も選出された陪審員が次々と理由をつけて辞退してしまい、なかなか開廷に漕ぎ着けられなかった。
 この35件の裁判に関しての争点は、事件当時の個々の被告人の責任範囲と、死罪が相当であるか、禁固刑が妥当であるかである。
 陪審員に選ばれた者達は、最初はこの件を残虐な集団による凶悪事件と認識しており、特に年端もいかない少女であるサビーネに対しての同情と、殆どの人間に共通する常識的な正義感もあり、誰もが被告に対して厳しい見方をしていた。
 ところが、裁判資料を閲覧すると、集団としては許せないと感じた罪も、その中に身を置いた被告人一人一人の人生と向き合って考えると、もしかしたらこれは、誰にもとは言わないまでも、世の多くの人が同じ立場に立った時、犯してしまうかもしれない罪なのではないかと感じるようになる。
 実際、これらを極限の状況下で、一時的に人間が深層心理の中に普段眠らせている動物的な残虐性にスイッチが入ってしまった状態と考えられると説明する有識者(精神科医や、人権派を標榜する弁護士等)の意見も添付されている。これは、所謂被告が心神耗弱状態にあった可能性を示唆し、情状酌量を促す方向性の資料である。
 一方で、どのような状況下であろうと、犯した罪は罪として裁くのが法治国家であると主張する専門家の意見も一緒に添えられ、「特殊な状況下で平時の精神状態ではなかった」という理由で凶悪犯罪を減刑、又は無罪にしてしまえば、治安は保てず、今後同種の犯罪の抑止力に影響する。陪審員も判事も、次の犠牲者がもし自分の身内だったらとの想像力が働けば、安易な減刑は危険であるのは明白である。との主張もまた、法曹界の一部から出ており、それを支持する社会学者等もまた多い。
 こうなると、素人の陪審員は、悩んでしまう。自分の判断が、一人の人間の命を奪い、その家族の運命を左右してしまうことに、特に戦時下になかったフェザーン人の陪審員には強い抵抗を覚える者が多い。結果、一人の陪審員が辞退する度に、予備選出者の中から補充することを繰り返す事になり、裁判はどんどん先延ばしされていった。
 司法省は結局、辞退の基準を厳格化し、とにかく36名が揃った時点で順次裁判を強行することに方針転換した。
 そして、今日、最初の日を迎えたのである。
 この日の被告は、サビーネに直接危害を加えたわけではなかったが、すぐ近くでそれを黙認し、自らは館に仕えていた若い侍女2名を襲った上、多数の使用人を虐殺している。
 当初、エルフリーデは、被告の男を見たら、平静を保っていられる自信がなかった。
 逆上し、思わず叫び出してしまうかもしれない。だが、肉親であるヘレーネや、乳母のカルツ夫人が、遺族席で自分より遥かに耐え難い怒りに耐えていることを思うと、爆発しそうになる衝動に私も耐えなければならないと自分を律した。
 しかし、初めて肉眼で見る被告人の20代の男は、どこにでもいそうな平凡な青年で、憎むべき凶悪犯のイメージとは程遠かった。軍の身分証明書からコピーしたと思われる無表情な画像データよりも、ずっと気弱そうな男の姿に、エルフリーデだけでなく、傍聴席の全員が拍子抜けした。
 彼には無報酬で名乗り出たフェザーン人の敏腕弁護士が15名もつき、弁護団を結成していた。
 無論、被告人に対する同情や正義感でやっているわけではなく、帝国中が注目する公判で少しでも被告人の罪を軽くすることによって名を挙げようという売名行為に他ならない。
「フェザーン人は犯罪すら商売にする」と、帝国側メディアは揶揄したが、資本主義経済が浸透したかの地では、これも当然の成り行きだった。
 エルフリーデは、最近地球学を学ぶ過程で、13日間戦争直前の地球の先進文化地域の裁判制度に触れる機会があり、この件にも然程驚かなかったが、やはり「なぜこんな男を弁護する必要があるのか」という個人的感情は、完全には払拭できなかった。
 全員が起立し、正面中央の裁判長が厳かに開廷を宣言すると、裁判は、形式に則って粛々と進んでいく。
 まず、検察官が起訴事実を朗読し、被告の罪状を述べる。それに対して、裁判官は、被告人本人と弁護団の代表に起訴事実を確認した。
 被告の青年は、裁判長の問いに、起訴事実に間違いのないことを認め、「申し訳ありません」と言って、深く項垂れた。その姿は、心の底から罪を悔いているように見えた。弁護人も、それに同意する。これにより、起訴事実については争わないことが決定した。
 続いて、検察側が罪名及び罰条を述べた上、被告人に死刑を求刑した。複数の殺人に関わった事実に照らせば、妥当な量刑と言えた。
 それに対して、弁護側は、当時の特殊な状況下での被告人の立場を考慮し、極刑を不服とした。
 これにより、来週行われる第2回公判は、裁判官と弁護団双方が、互いの主張の根拠を陪審員と判事に訴えることになる。それを基に裁判官達は、第3回の判決公判までの間に被告の量刑について話し合い、結論を出すことになるのだ。
 サビーネの側に立つエルフリーデとしては、新制度の裁判に間怠しさを感じる一方、犯罪者といえども人権に配慮した公正な公判に、新鮮な驚きも同時に感じ取っていた。
 弁明の機会すら与えられずに処刑された一族を思えば、これは大きな進歩に見える。
 受験勉強の為、最近になって解禁された旧王朝の歴史書で、不公正な司法制度の実態を知るにつけ、猶更その思いは強まった。
 エルフリーデもヘレーネとカルツ夫人も、この日の被告がサビーネに直接狼藉を働いた者ではないこともあり、思ったより冷静に裁判を見守ることができた。
 この日の第1回公判は、結局2時間足らずで閉廷となり、エルフリーデは、ヒルダ達と一緒にマスコミを避けて地下通路を通って、隣のビルの裏口から待機していたランドカーに乗り込んだ。
 エルフリーデは、車に乗るとすぐに、バッグに入れてきた小さな小瓶を開けて、ゆっくりと鼻から吸い込んだ。
 地球教徒の残党が、軍病院内にまで入り込んでいることが判ると、その日の内にロイエンタールが、栄養点滴を禁じた。
 代わりに、シュヴァイツァー夫人を初めとする使用人たちが、何とか安全な方法で栄養を摂取する方法を模索し始めた。
 そして、フェザーンで数年前から流行り出した悪阻を抑える民間療法を試すことを女主人に勧めたのだ。
 数十種類のハーブ系の香料を自分に合った組み合わせを見つけて調合し、それを1日数回吸引することで、悪阻を抑え、通常の食事ができるようにするというものだった。
 効き目には個人差があり、科学的根拠も薄いとのことで、最初はあまり期待していなかったが、これがエルフリーデには不思議なほどの効果を発揮した。
 おかげで、この数日は嘔吐もなく、食事も通常に近い量を食べることができている。
 車内が柑橘系のいい香りに包まれると、ランドカーがゆっくりと動き出した。


「あれは完全に演技ね。あの男、自分のやったことを露程も悪いと思ってないわ」
 8人乗りの大型自動運転ランドカーの座席に座るやいななや、開口一番アンナ・ケンペル准尉が言い切った。
「そこまで決めつけるのはどうかしら? 確かに彼のしたことは赦されるものではないけど、彼も他の被告達も、元は平凡な普通の市民だったのは事実よ。あんな状況に置かれなければ、一生犯罪とは無縁だった可能性も高いわ」
 ヒルダがやんわりと窘めるように言う。エルフリーデも彼らに対する憎しみとは別に、この件に関してはヒルダに同感だった。被告人の青年は、本当に罪を後悔しているように見えたからだ。
「だからこそ猶更罪悪感なんてないんですよ。連中は。まあ、罪を後悔しているという点は確かにその通りかもしれないですわね。でもそれは、被害者に対して申し訳ないというよりも、事件がこんな大事になってしまって、自分が重罪で裁かれることに対しての後悔ですわ。今日のあの態度は、敏腕弁護団の演技指導の賜物ね」
 アレクサンドラ・シェスター准尉ことサーシャが、アンナの見立てに同意した。
「帝国人には、ピンとこないかもしれないですが、これが、フェザーン式の裁判のやり方なんです。起訴事実を争わない場合は、只管被告人に悔悛の態度をとらせ、陪審員の同情を買うよう仕向けるんです。同時に被害者遺族に対しても、切々と悔悟を綴った手紙を書かせたりして。多分、ヘレーネにもそのうちそういう手紙が届くはずよ」
 再び断言するアンナの言葉に、ヘレーネは嫌悪感を露わにして、「そんな手紙がきても絶対に読むつもりはない」と言って首を振った。隣のカルツ夫人も、勿論同じ気持ちだと言う。
 アンナとサーシャの2人が同じように言うなら、恐らくそれが事実なのだろうと、ヒルダも思い直した。
 平民として育ったヘレーネや、逆に上流貴族令嬢のヒルダやエルフリーデと異なり、旧王朝下では富豪の平民家庭出身のアンナとサーシャは、物心ついた時から何度もフェザーンに旅行した経験を持つ。帝国の富裕層の子弟の定番として、初等教育からギムナジウムに在学中には、長期休暇時を利用したホームステイも数回体験しており、こちらに知人も多い。特にアンナは、ギムナジウムを卒業して1年程フェザーンに留学経験を持つ。その為、彼女はベアトリスやヘレーネ達よりも約1歳半年長だが、同じ年に大学に入学している。
「でも、それでは悪いことをしても、お芝居が上手ければ罪が軽くなってしまうの? そんなのおかしいわ」
 エルフリーデが、少女らしい率直さで声を上げると、一同から好意的な笑みが漏れた。
「そういう面も確かにあるかもしれません。ただ、人の心の中のことは、他人には完全には解りません。今日の被告人も、もしかしたら本当に後悔しているのかもしれませんし、アンナやサーシャの言う通り、弁護団の指示でポーズをとっているだけなのかもしれません。いずれにしろ、私達はその判断を裁判に委ねるしかないのです。その為に、可能な限り多角的見地から判断できるよう様々な立場の陪審員が36名も選出されたのです。彼らが被害者遺族と民意を反映した判決を下せるかどうかで、今後の帝国の裁判制度そのものの方向性を示すことにもなります。今はとにかく、新制度の正しさを信じて待ちましょう」
 ヒルダが静かに諭すと、エルフリーデも落ち着きを取り戻して頷いた。
 ランドカーは、十数分走って、17時過ぎにはオティーリエの待つボーデン邸に到着した。
 裁判が思っていたよりも早く終わり、予定していた時刻よりもだいぶ早かったにも関わらず、オティーリエは、フェザーンの最新キッチン機器を慣れた手つきで操作し、手伝いを申し出るカルツ夫人の出番もないほど素早くよい香りのダージリンを淹れてくれた。
 リンザーは、この日は他の幕僚達と夕食を済ませてくる予定なので、遅くなるとのことだった。女性ばかりの集まりに遠慮したのかもしれない。
 この夜、オティーリエがご馳走してくれた夕食は、エルフリーデにとっては、衝撃的な体験だった。
 紅茶を飲みながらサロンで今日の裁判や先日の爆破事件についてなど、女性同士の会話らしくない話題で時を過ごしていると、19時近くにオティーリエが、準備ができたと言って一同を一室に招いた。
 入った部屋は、ヒルダ達同居人やオティーリエ自身がいつも食事をしている食堂ではなく、部屋の中央に大きなドーナツ型のテーブルが置かれ、人数分の椅子がある広めの部屋だった。。
 椅子の前のテーブルには、ランチョンマットが敷かれ、オーディンの長楽宮で食べた東洋的な前菜がそれぞれ盛られていた。
 何より奇妙なのは、中央の空洞部分には、4本の手のようなものが伸びた機械が稼働していて、その脇には丸い木製の入れ物に入ったライスと小さく切られた魚介類が冷蔵シートの上に並べられていた。
「うわぁ! スシロボットをレンタルしたのね」
 一番のフェザーン通であるアンナが感嘆の声を上げた。
 オティーリエの説明によると、これは地球時代のある国の料理で、近年ヘルシー志向のフェザーン人の間で爆発的人気らしい。
 ビネガーライスを楕円型に握り、上に生の魚介や卵を焼いたものを載せて、ソイソースを付けて食べるのだそうだ。元々は人間の専門職人が握っていたものだが、再現するに当たり、フェザーンの家電機器メーカーが自動製造機を開発した。
 今回、オティーリエがレンタルしたものは、その中でも最高級の、最も人間の手に近い動きができ、音声指示で稼働するものだった。
 まずは、お任せで、それぞれの前に5個づつ赤身、鮭、イカ、穴子、縁側が色合いよく並べられている。
 あとは個人の好みで音声で一貫(2個)づつ注文すれば、即座に食べたい寿司が目の前に置かれるということだ。
「生ものは、全て新鮮で、念のため検査済ですので、安心して召し上げって下さい」
 というオティーリエの言葉通り、皆次々と美味しそうに平らげていく。
 エルフリーデも、長楽宮で食べた東洋的な味が好きだったので、まずは隣のヒルダに倣って一番端の鮪の赤身に小皿のソイソースを付けて口に運んだ。
 最初に口に飛び込んできたのは、ビネガーライスの程よい酸味だった。丁度、悪阻中のエルフリーデには、心地よい味だった。
 ところが、次の二噛み目で、つーんと強烈に鼻に抜ける感覚に、思わず口の中のものを吐き出しそうになった。
「伯爵夫人!」
 右隣に座っていたヒルダが、いち早く気づき、慌てて背中を摩りながら温めの湯を口元に運んでくれた。
 エルフリーデは、ごくりとそれを飲み干したが、口の中の辛さはまだとれない。
「申し訳ございません。伯爵夫人、うっかりしておりました」
 左側にいたオティーリエが立ち上がって、まだ目を白黒させているエルフリーデを覗き込んだ。
 カルツ夫人が心配そうに、タオルを持って駆け寄ってきた。
「伯爵夫人の分は、さび抜きにして頂戴」
 オティーリエがスシロボットに命じると、「了解致しました」という機械的な声が聴こえた。
 エルフリーデは、まだ何がなんだか解らなかったが、毒を盛られたわけではなかったようだとわかって一安心した。
「あれは、ビネガーライスと生魚の間に挟まっていた“ワサビ”という香辛料なんです。スシにはかかせないものなのですが、苦手な方も多いので、入れなくても食べられますわ」
 オティーリエの指示通り、エルフリーデの分は下げられ、改めてさび抜きで握り直されたので、その後は美味しく食べることができた。
 アンナのお奨めの、イクラやウニの軍艦巻きや、中トロ、甘い卵焼きなど、どれも酸味の効いたライスと合って、エルフリーデは、悪阻が起こって以来久しぶりに満腹感を味わった。
 珍しい地球時代の味を堪能したエルフリーデ達は、食後の歓談の場をサロンに移し、今度はオティーリエの手作りだというマンゴーケーキを茶請けに話に花を咲かせた。
「ところで、伯爵夫人。昨日のお電話のお話、詳しく伺いたいですわ」
 オティーリエが、興味深そうに眼を輝かせると、他の女性達も一斉にエルフリーデに視線を向ける。
 エルフリーデにとってオティーリエは、屋敷が背中合わせに敷地が繋がってるということもあり、フェザーンに着いて最初に仲良くなった人物だった。
 先行してフェザーンに到着したロイエンタール家の執事とシュヴァイツァー夫人は、年の功の抜け目の無さで、主人の身辺のセキュリティ管理にも余念がなかった。宿舎となる屋敷が決まると、早速、引っ越しのご挨拶の名目で周囲の邸宅を巡り、住人のチェックを始めたのだ。
 その過程で、裏庭で敷地が接するボーデン邸も訪れ、ギゼラとオティーリエの母子と対面した。
 ブラウンシュバイク一門であるボーデン家に、当初シュヴァイツァー夫人等は警戒心を持った。しかし、ギゼラ夫人と話すうちに、彼女の飾らない人柄や、現皇帝の信頼する側近であるシュトライトと今でも懇意にしていること知り、逆に慣れない土地での頼もしい知己を得たと考えるようになった。娘のオティーリエが、面識はないもののエルフリーデの貴族女学院の先輩だということも、女主人にとって心強い友人となってくれると期待した。その通りに、エルフリーデは、フェザーンに到着後すぐに、シュヴァイツァー夫人の助言でオティーリエをティータイムに招き、すぐに打ち解けた。
 エルフリーデの方は、オティーリエのことを知らなかったが、オティーリエは、「3学年下のリッテンハイム候の令嬢と同じクラスに、リヒテンラーデ一族のとてもかわいい子がいる」と同級生の中でも評判だったエルフリーデのことを以前からよく知っていたらしい。
 ギゼラ夫人の突然の死を知らされた時も、エルフリーデはすぐに裏庭伝いにボーデン邸を訪れ、オティーリエを慰めた。
 そのエルフリーデから、今朝端末に、折り入ってお願いしたいことがあるので、協力して欲しい、詳しいことは夜、会って話すからと連絡があったので、オティーリエはずっと気になっていたのだ。
「実は、ちょっとしたお芝居をして頂きたいのです。これは、女優を目指されているオティーリエ様に適役だと思って…」
 いつになく懇願口調のエルフリーデの説明に、オティーリエはとりあえず、私にできることならと頷いた。
「どんなお芝居をなさるの?」
 珍しくヒルダまでもが興味を覚えたように問う。
「あ、できれば、オティーリエ様だけでなく、皆様全員にご協力頂きたいのです」
 エルフリーデは、好奇心に目を輝かせている他の女性士官達にも頼んだ。
 そして、この計画の目的が、今自分の屋敷に強引に連れてきたツェルプスト子爵夫人ことフレデリーケと、ミュラー提督とを結びつけることにあることを打ち明けた。
 工部省は、先日の爆破テロの被害を免れた帝国軍人や官吏に対し、部屋に空きのある者は、宿舎を失った帝国人達を余裕のある範囲で一時的に受け入れるよう通達を出した。それにより、空いた宿泊施設に、家を失ったフェザーン人が入るスペースを拡げる意図があった。
 ロイエンタール元帥邸となった宿舎は、母屋の東西両側に瀟洒なゲストハウスを有していた。ロイエンタールも、新政府の高官として、工部省の意向を受け入れ、二つのゲストハウスを宿舎を失って安ホテルで不自由している佐官以上の高級士官に開放することにした。これは彼等を警護する警備の兵士にとっても有難い措置だった。
 早速、執事の指示で、長く空き家になっていた二棟のゲストハウスに手が加えられ、人が住めるようになると、明日からミュラーとその幕僚達数名と、軍務省所属の少佐から中将までの10名程の軍人が引っ越してくることになったという。
 エルフリーデは、自分が知る限りでフレデリーケとミュラーの経緯を説明し、この機会に今度こそ2人を結婚させたいと語った。
「伯爵夫人のお気持ちはわかりましたわ。でも、やはりこれは、最終的にはご本人同士のお気持ち次第ですわ。仮にこの作戦が成功して、ツェルプスト夫妻が円満離婚したとしても、ミュラー提督がフレデリーケ様にプロポーズなさるかわかりませんし、フレデリーケ様もそれをお受けになるかどうかわからないのですから」
 ヒルダが冷静な意見を述べると、エルフリーデもそれに対しては異議を唱えず、尤もだと頷いた。
「私も、それは承知しています。私にできることは、あくまでもあのお二人が一からやり直せる環境を作って差し上げることです。その後のことは、お二人の意思にお任せするしかないとわかっています。でも、これは私のただの勘なのかもしれませんが、ミュラー提督とフレデリーケ様とは、本当に、波長が合っているというか…何か、運命的なものを感じたんです。あの人たちは、本当に結ばれるべき運命で、ちょっとした時間のズレで、結婚が叶わなかったような…そんな気がするんです。それに、たとえお二人が結婚しなくても、フレデリーケ様があの節操のない子爵と妾の女から解放されるだけでもいいことだと思っているんです」
 言ってしまってから、エルフリーデは、はっとなって口元を抑えた。ツェルプスト子爵が、マリーンドルフ家の一門であることを思い出したのだった。
 しかし、それを聞いたヒルダの顔に不快感は微塵もなく、いつものように柔らかく、それでいて怜悧な瞳を向けるのだった。
「よろしいのよ。ツェルプスト子爵に限らず、最近マリーンドルフの一門であることで何か勘違いしてしまっている貴族が多くて、私も父も頭を悩ませていたというのが、正直なところなの。その意味では、この計画は、ツェルプスト子爵にお灸を据えるいい機会になるかもしれないわ。私も、及ばずながら、伯爵夫人の書いたシナリオに、一役買わせて頂きます。でも、それには、やはりロイエンタール元帥や宮内尚書の協力も不可欠ではなくて?」
 それに対しても、エルフリーデは、既に夫にも旧知の宮内尚書にも了承済で、ついでに叔父のゴットルプ子爵まで共犯者に巻き込んでいるという。
 その根回しの良さに、ヒルダは今更ながらリヒテンラーデの血筋を感じずにいられない。
「では、ほぼ役者が揃ったということですわね」
 にっこり微笑みながら協力を快諾したヒルダは、ヘレーネ達同僚に向かって、
「皆もいいわね?」
 と、同意を求めた。
「私は最初から伯爵夫人に協力するつもりよ。何より面白そうじゃない?」
 一番に名乗り出たのは、アンナだった。
「もちろん、私だって喜んで参加させて頂くわ。こんな機会、滅多になさそうだし」
 サーシャも意気込んで参加表明する。
「もちろん、私もよ。私は元々貴族の男の側室だの妾だのっていうのが大嫌いだったの。ツェルプスト子爵をやり込められるなら、こんな爽快なことはないわ」
 自らもリッテンハイム候の庶子として複雑な生い立ちを生きてきたヘレーネが、不遇の内に亡くなった母親を思い出したのか、一番やる気満々だった。
「私も、側室制度は後宮制度と共に、新政府が将来的に法的に撤廃しなければならない悪習と考えています。それに最初に亀裂を入れるかもしれない作戦に参加できるなんて、とっても嬉しいわ」
 4代に渡る後宮の暗部を垣間見て育ったベアトリスは、静かだが一番強い意志を秘めた瞳で参加表明した。
 皆の気持ちが一つになったところで、主役を演じるオティーリエを中心に、細部を煮詰めた。
 まず、第一段階の舞台設定だったが、これはヒルダの提案で、焦らず無理のない場所がセッティングされるのを待つことにした。
 ヒルダの考えは、憲兵隊と警察組織が総力を挙げて捜査している為、間もなく先日の爆破テロ事件の全容が明らかになるだろうという。
 政府としては、皇帝臨御の元、捜査や被害拡大防止に功のあったものを表彰する為に、小規模だが式典を挙行するはずだった。
 今回、事件の完全解決の後は、初動捜査や初期の避難民誘導で多大な功績のあったリンザーには何らかの恩賞があるはずだし、場合によっては昇進もあり得る。式典には、武官文官揃って、政府の主だった高官が列席すると思われる。当然、ツェルプスト子爵もその中にいるだろうし、三元帥も顔を揃えるはずだ。第一幕の舞台としては申し分ない。
 あとは、一日も早く爆破事件の全容が明らかになるのを待つばかりだった。
 エルフリーデ達が、作戦会議で盛り上がっていた時、インターホンがリンザーの帰宅を告げた。
 すっかり話し込んでしまって、時刻は23時近くになっている。
 この日の天気予報で、深夜に雷雨になる恐れがあることが判っていた為、エルフリーデは、急いで帰り支度を始めた。
 外に出ると、この季節にしては生暖かく、空の暗雲が小雨を降らせていた。
 エルフリーデは、すっかり打ち解けた共犯者達を名残惜しそうに振り返りつつ、リンザーに送られて、裏庭伝いに、自邸に戻った。
 連絡を入れていた為、既に境界線の扉には、侍女のミミが迎えに来ていた。
 リンザーは、差し掛けていた傘をミミに手渡すと、身を反転させてボーデン邸に戻っていった。
 エルフリーデは、いつまでも子供扱いをする使用人達に、少しばかりの不満を覚えないではなかったが、気持ちを押し隠して、黙って裏口から屋敷に入った。
 邸内に入ると、シュヴァイツァー夫人が素早くハンドタオルで、少し濡れた女主人の髪と衣服を拭きはじめ、執事が熱いミルクを淹れてきた。
 フレデリーケとゴットルプ子爵夫人は、子供たちと共にもう就寝したとのことだったが、サロンでは、珍しくロイエンタールと叔父のゴットルプ子爵とが、ウイスキーを酌み交わしながら何やら親しげに話し込んでいる。
 エルフルーデは、奇妙な感じがした。確かに叔父は如才なく、どんな身分や立場の人間とでも上手く付き合ってしまうという唯一ともいうべき特技の持ち主だが、それがロイエンタールのような男にまで通用すると思っていなかったからだ。むしろ、ロイエンタールにとって、この叔父のような人種は、彼が最も忌み嫌っていた門閥貴族そのものではなかったのか?
 だが、不思議なことにロイエンタールは、この自分と同い年の青年貴族に対して、悪い感情を持っていなかった。
 エルフリーデは、二人の会話の内容が気になったが、夜も遅く疲れていたのと、男同士の会話に入るのが憚って、結局そのまま夫と共有の自室へと引き上げた。


「元帥は、ご両親のどちらにもよく似ていらっしゃる」
 ロックグラスをくゆらせながら、ゴットルプ子爵エドアルドは、壁にかかる先代夫妻の写真を見て呟いた。
 オーディンのロイエンタール邸の食堂に飾られていたものを、破棄するよう命じる主人を説き伏せて、執事がわざわざ引っ越し荷物に入れたものだった。
 若く美しい、いかにも上流遺族の娘らしい妻と、大柄で整った顔立ちの精悍で有能そうな男だが、明らかに妻とは親子ほど年の離れた春の盛りを過ぎた中年男のカップル。それが少しばかりのバランスを欠いた組み合わせの先代ロイエンタール夫妻だった。
 彼にとって禁忌とも言うべき両親の話題を振られても、この日のロイエンタールは僅かに眉を動かしたのみで、黙ってグラスを呷った。
「元帥は、まるでご両親のいいところを選定して生まれてきたような方ですね。私のような日陰者には、眩しい限りです。来年姪が生む子が、本当に楽しみです。無事に見られればいいのですがね…」
 本心からに聴こえる子爵の言葉に、ロイエンタールは何かしらの違和感を感じて、思わず向いに座る男を双色の瞳で凝視した。
 エドアルドは、相変わらず、グラスをゆっくりとくゆらせながら、少しづつウイスキーを口に運んでいる。
「元帥のような方に姪を嫁がせることができて、私も肩の荷が下りた気分です。これでいつかヴァルハラで兄に会っても、堂々と報告できるというものですよ」
「これは、異なことを。小官のような身持ちの悪い男に、かわいい姪御を嫁がせるなど、本来ならご心痛のことと察するが?」
 ロイエンタールが彼独特の皮肉を帯びた冷笑を返しても、子爵の口調は変わらなかった。
「いいえ。元帥は、私の実の父とは似て非なる方です。そうではありませんか?」
 酒が入って饒舌になっている子爵が断定口調で言うのに、ロイエンタールは否定せず少し唇の端を上げただけの笑みを漏らしながら、グラスを一気に空けた。
 確かに彼は、どれほど漁色を重ねようと、決して複数の交際を並行させなかった。
 結婚した今となっては、彼の女はあの幼妻ただ一人である。
「卿のご母堂はご健在なのか?」
 ロイエンタールは、ふいに子爵に尋ねた。彼については、エルフリーデの父の異母弟であり、祖父の庶子で、マリーンドルフ家の遠縁に当たるゴットルプ子爵家に婿養子に入ったとしか聞いていなかったし、今まで興味もなかった。
「いえ、だいぶ前に亡くなっています」
 ゴットルプ子爵は、ロイエンタールと自分のグラスに新しいウイスキーを注ぎながら、短く答えた。
「私は、世間で言う“お下がりさん”の子でしてね。13の年まで平民の父と母に5人兄弟の長男として育てられました」
 旧体制下では、権門の貴族が大勢の側室や妾を囲うことは珍しくなく、彼の実父である先々代コールラウシュ伯爵は、その中でもかなりの艶福家だった。
 しかし、いかに大貴族とはいえ、関係した女の全てを正式な側室に迎えたり、妾として囲うのは流石に無理があり、気まぐれに手をつけてしまった身分の低い女を、相応の持参金を付けてつり合いのとれる男の使用人に下賜する、即ち、「お下げ渡し下さる」というのはよくある話だった。
 エドアルドの母は、コールラウシュ伯爵邸の上屋敷の下女だった。首都星の地方都市出身で、口減らしで奉公に出た平民の娘だったという。
 主人のお手付きとなって子を身籠っても、正妻の手前これ以上妾を増やすこともできず、元々大して執着のなかった女をどうするか考えた末、伯爵はブーフホルフという厨房の若いコックに彼女を娶せた。
 平民のコックは、伯爵様の子を宿した娘を有難く頂戴して妻にし、手切れ金代わりに貰った金で独立し、下町に小さなレストランを開業して所帯を持った。
 旧王朝下では、そうした事情の夫婦はままおり、下賜された女は、周囲から影で「お下がりさん」と呼ばれていた。
 とはいえ、エドアルドの両親の夫婦仲は良好で、彼の下に次々と4人の弟や妹も生まれ、ただ一人父親に似ていない貴族的な風貌の長男を除いては、一見平凡な家庭に見えたという。
 物心ついて、学校に通い始めると、彼は初めて「お下がりさん」という言葉の意味と、大好きな父と自分が血の繋がりのない事実を知った。
 それでも、以前と変わらず彼を息子として接してくれる父の気持ちに応えようと、エドアルドは、大きくなったら自分もコックになって、父さんの店を継ぐんだと言った。
 しかし、父も母もそれには賛成せず、彼にはギムナジウムから大学へ進学することを強く望んだ。たとえ認知されていなくとも、伯爵様の胤を小さな店の料理人にするわけにはいかないと考えたのかもしれない。父も母もそういう古風なところのある人達だったと、エドアルドは酔いの回った顔で懐かしそうに淡々と語った。
 そして、今でもそんな育ちの自分が、貴族同士の権力闘争の渦中に身を置くことになろうとは、何とも奇妙な気分なのだと率直に本音を言う。
 だが、そんな生活も彼が13歳の夏に突然終わりを告げる。
 エドアルドが、ギムナジウムの夏季特別講座の合宿に参加している最中、他の家族は全員で山へキャンプに向かう途中、不慮の事故に遭う。自動運転装置に誤作動を生じた大型ランドカーが、次々と周囲の車を巻き込む大惨事を起こしたのだ。
 エドアルドの家族は、母親に抱かれていた当時4歳の末弟を除いて全員即死した。
 その弟は、父の実家に引き取られたが、父と血の繋がりのないエドアルドは一人取り残された。母親には、この時点でもう肉親はいなかった。
 そんな彼に、コールラウシュ伯爵家の使いが訪れ、異母兄の現伯爵が、屋敷に引き取りたいと申し入れていることを伝えにきたのだった。
 こうして、平民の大衆食堂の息子は、一夜にして伯爵家の若様となったのである。
「すると、卿は、実の父上には一度も会わず終いだったのか?」
「ええ、兄に引き取られてから、肖像画と映像で見ただけです。別に会いたいとも思いませんでしたからね。私にとって、父は、あの美味いフリカッセを作ってくれたブーフホルフの父だけです。兄には、感謝もしていますし、恩も感じていますが、先代コールラウシュ伯とやらを父と思ったことは一度もありません」
「そうか…」
 ロイエンタールは、それだけ言って、再度グラスを空けた。
 自分は、母の浮気の所為で、父からずっと疑いの目で見られてきた。そのくせ、決定的な事実を突きつけられるのを恐れた父は、遂にDNA鑑定をしないままこの世を去り、真実は藪の中となった。
 しかし、自他共に元々母親似と思われていたロイエンタールが、父の死後、思春期を過ぎる頃には、父の身体的形質を顕著に現すようになったのは、全く以って皮肉としか言い様がなかった。
 そう考えると、目の前の同い年の男と自分の生い立ちに、人間の運命の滑稽ささえ感じる。
 エドアルドは、ボトルに残った最後の酒をロイエンタールのグラスに注ぎ終えると、すっかり酔いの醒めた顔で、改めで向き直った。
「元帥」
「ん?」
 ロイエンタールが視線を上げると、今まで見たこともない真剣な眼差しの子爵がいた。
「…もし、私に何かあっても、どうか、あの子と、エルフリーデと添い遂げてやって下さい。あれは、少々気が強い娘ですが、兄に似て一途で根は優しい子です。何より、元帥のことを慕っています。どうぞ、くれぐれも…」
 そう言ってテーブルに頭を擦り付けんばかりに平伏する子爵に、ロイエンタールは再び先ほど感じた違和感を覚えた。
「卿に言われずとも、そうするつもりでいるが? まあ、叔父上が不安に思われるのも無理はない。これも、今までの行い故か…。しかし、卿に何かあってもというのは、些か大げさではないか? 卿と私は同い年で、しかも軍人の私と違い、卿は戦死することもなかろう?」
 そう言われて、エドアルドも流石に喋り過ぎたと気づいたらしく、照れ笑いを返す。
「まあ、確かにそれはそうですね。いえ、これでも兄に代わってあの子の父親代わりのつもりでいるものですから、つい老婆心を…お恥ずかしい。お忘れ下さい」
 それを潮に、2人は酒盛りをお開きにすることにした。
 ロイエンタールは、ふと思いついて、ドアを開けて部屋を出ようとするエドアルドの背中に問いかけた。
「それはそうと、卿の父親違いの末の弟御とは、今でも親しくしているのかな?」
 しかし、その問いにエドアルドは、一瞬肩をピクリと動かしただけで、ロイエンタールを振り返ることはなかった。
「いえ、亡くなりました」
 エドアルドは短くそれだけ言うと、ロイエンタールが次の言葉を発する前に扉を閉めた。


「叔父様と何を話していたの?」
 アルコールの香りを纏った夫が寝室に現れると、既にバスを使い、夜着に着替えたエルフリーデが訊いた。
「別に大した話ではない。お前の計画した芝居にも協力してくれると言っていた」
「そう…」
 答えながら真っ直ぐにバスルームに向かう夫の背中に向かって、エルフリーデは呟いた。
 外は予報通りすっかり雷雨となり、激しい雨音と共に、遠くでゴロゴロと音が聴こえる。
 エルフリーデは、一人先にベッドに入ると、今朝、あの男の言った言葉を思い出して赤面し、毛布を被って潜り込んだ。
 あの男は、昨夜の行為は、まだ初歩的なもので、今夜はもっとすごいことを始める気でいるらしい。
 この胸の高鳴りは、恐怖なのか、期待なのか…
 間もなく夫がバスルームから出て近づく気配がすると、エルフリーデは体を丸めて全身を強張らせた。
 だが、ベッドに入った夫は、連日の激務の所為か叔父と2人でウイスキー1本空けた為か、幼妻の隣で早々に規則正しい寝息を立て始めた。
 エルフリーデが、安堵か落胆か自分でもわからない感情に捉われた時、突然窓の外が一瞬、昼間のような明るさになると、凄まじい落雷の音が襲った。
 エルフリーデは、咄嗟に身を反転させると、真っ先に隣で眠る夫の身体に強くしがみ付いた。
 ロイエンタールの右腕に力がこもり、幼妻の華奢な体を抱き寄せる。
「俺はお前にとって、枕よりマシなようだな」
 男の冷静な声が雨音の中で聴こえる。
「?」
 エルフリーデは、意味がわからなかった。この男は、時々変なことを言う。
「安心しろ。フェザーンの建物には、一般家屋にまで避雷針が標準装備されている」
 ロイエンタールは、そう言うと、部屋の窓の全てのシャッターを閉じるよう音声指示を発した。
 間もなく、ゆっくりとシャッターの降りる音がして、完全に閉まると同時に、雨音も雷の音もピタリと止むと、部屋は怖いくらいの静寂に包まれた。
 ロイエンタールは、幼妻を腕に抱いたまま、再び眠りに就いた。
 エルフリーデは、自分を抱く夫の胸に静かに耳を充てて、彼の規則正しい鼓動を聴いていた。
 子守唄を聴いているような心地よさに、安らぎと睡魔が同時に訪れる。
 ふと、もう一度夫が確実に寝入っていることを確認すると、エルフリーデは、何度か胸の裡で反芻した後、ずっと言えなかった一言を小さく呟いた。
「…あ・な・た…」
 ロイエンタールの腕が、僅かに動いた気がした。
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