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イノセント・プリンセス(3)
「では、12時半にそちらへ行きますので、待っていて下さい」
「ええ。アル。楽しみにしているわ」
 男は携帯ごしにそう言うと、優しげな言葉とは裏腹の冷たい目で静かに端末を閉じた。 今日、いよいよ決行する。
 失敗は許されない。必ず上手くやってみせる。準備は万全だった。
 これで、秘密を知る人間は、全員一度にこの世から消えるはずだ。
 ただ一人、女の世話をさせている老婦人だけは、口実をつけて遠ざける算段だ。
 あの老女は、元領地惑星出身の忠義者で、余計なことは言わない女だ。万が一誰かに何かを訊かれても、主人の不利になるようなことは言うまい。その前に、事が済んだ後は、退職金を弾んで、こっそり客船に乗せて故郷の惑星に帰すつもりだ。
 男にも、その程度の情けだけは、辛うじて残っていた。



 10月22日の午前11時。首都中心部に近いコンラート・リンザー准将の宿舎の庭で催されたバーベキューパーティに集まった面子は、新任の将官が開いた個人的な親睦会とは思えない程の豪華さだった。
 この日は、憲兵隊を除く軍の殆どが公休日で、感染防止対策室のメンバーが、新たに着任したヘレーネの歓迎会を兼ねてリンザーの宿舎でホームパーティを催すことになった。
 リンザーの将官への出世祝いと、ヘレーネの着任祝という意味合いもあったが、サビーネの事件の裁判が思っていた方向に行かず、落胆するヘレーネを慰めたい友人達の発案だった。
 当初、招待客は、ベアトリス達3名だけのごく内輪の宴のはずだった。
 それに対しアンナが、この1ヶ月で個人的にもすっかり親しく付き合うようになったヒルダも呼んではと言いだし、他の2人もそれに賛成した。
 ヘレーネは、いくら何でも伯爵令嬢が、自分達と一緒にバーベキューなんかするかしらと疑問を口にすると、3人は揃って、フェザーンに来てから、もう何度も自分達と一緒に一般市民向けのレストランやビアホールに行っているといって笑った。
 最初は、上司とはいえ、一応同じ職場の同年代女性として半分社交辞令でランチに誘ったのだそうだ。ヒルダは、それに思いの外嬉しそうに応じ、以来何度か仕事帰りに一緒に飲みに行くようになったという。3人とも、ヒルダの意外な人懐こさに驚いているようだ。
 それを聞いたヘレーネは、彼女もまた、生まれて初めて家族と離れ、一人フェザーンで暮らすことに、寂しさを感じているのではないかと思った。
 ヒルダまで誘うとなると、他の対策室メンバーもということになり、5人の男性官吏達は、出席を即答した。
 今回、リンザーのビアホールから食材を調達し、樽型のビールサーバーごと運び込む計画だった。
 帝国内に手広く展開する「リンザー」は、安い、美味い、早いをモットーに、手ごろな値段で現地産食材を使った拘りのメニューを提供することで、帝国内の主に一般市民から中・下流貴族層までの若者に人気だった。
 フェザーンには、10年前から進出し、現在都内に5店舗を展開している。いずれも、郊外に自社運営の農場、牧場、養殖場を持ち、野菜や食肉、魚介類を自家生産していた。
 客が増えたことで、どうせならとリンザーは、久しぶりに連絡を取るようになった士官学校時代の同期のバイエルラインを誘ってみた。
 退庁後に、自宅から「大将閣下」と呼んでヴィジホンごしに敬礼するリンザーに、バイエルラインは、「おい、よせよ」と言って照れ笑いをした。
 士官学校時代から任官間もない頃は、彼も散々オーディンのリンザーで、タダ酒を飲ませてもらったクチである。
 共に平民出身である彼等は入学直後から親しくなり、学生時代はリンザーの方が学科でも実技でも常に成績が上位で、中尉に昇進したのも彼の方が早かった。
 しかし、バイエルラインが艦隊勤務となり、ミッターマイヤーを上官としたことが、彼らの運命を逆転させた。
 リンザーは、補給部隊という地味な部署にも関わらず、二十代半ばの若さで佐官に昇進する異例の出世を遂げるが、バイエルラインは更にその数倍のスピードで出世の階段を駆け上がったのである。
 彼も久々にリンザーの味を楽しみにしていると言って出席の意思を伝えた。
 それを聞いたヘレーネは、そこまで規模が大きくなるならいっそと、オーディンでサビーネの主治医を務めてくれたファーレンハイト軍医中佐ことベルタを招待したいと言い出した。
 妹を最後まで全力で治療してくれた恩人でもある。無論、よろしければ御夫君もご一緒にと言うと、やはり以前はリンザーの某店舗の常連であったファーレンハイトからは、喜んで一緒に招待を受ける旨の返事が来た。
 バイエルラインやファーレンハイトに限らず、オーディンの若者の殆どが、一度はリンザーの安価でボリュームのある料理と上手いビールで胃袋を満たした経験を持つ。
 特に、軍の施設近くに積極的に店舗展開をしていることもあり、帝国軍人の下士官から佐官クラスまでの溜まり場となっていた。
 将官に出世すると、海鷲を利用できるようになる代わりに、警備上の問題からなかなかこうした大衆的な場所へ足を運べないことを残念に思う者も多い。
 こうなってくると、ついでとばかりに、ベアトリスが、対策室メンバーではないものの、日頃感染者の収容施設の件で何かと便宜を図ってくれている工部尚書の秘書官も、この際呼んではどうかと提案した。
 ビッテンフェルト提督と婚約間近と噂される彼女とは、いつもヴィジホンごしの会話だったが、共に帝国では数少ない女性キャリア同士で、業務上とはいえ、毎日のようにモニター越しに話していると、自然に親しみが湧いてくる。
 通常の業務連絡の後、この件を伝えると、美貌の工部尚書秘書官は、相棒と2人で喜んで出向かせて頂くと返事をした。
 こうして、2人の軍最高首脳を自分の宿舎に迎えることになったリンザー准将は、大本営へ出向いたついでに、まだ面識のないファーレンハイト、ビッテンフェルト両上級大将に、一度挨拶に出向いた。
「おう!“リンザー”の料理とビールが食い放題飲み放題と聞けば、行くしかあるまい」
 ビッテンフェルトの豪快な笑い声に、リンザーも苦笑した。
「ビールは、樽ごと運び込みます。こちらで作った自家製のビュルストやバーベキュー用の牛肉とオーガニック野菜、養殖ですが魚や海老なんかも大量に用意していますので、どうぞ思う存分食べて飲んでいって下さい。これで410年物の白でもあれば完璧なんですが、こればかりは流石に…」
 希少性の高いワインは、入手するのには相応のコネが必要となっており、残念ながら金を積めば手に入るというものではない。特にオーディンならまだしも、フェザーンでとなると、帝国産のヴィンテージものは、更に難しかった。
 それに対してファーレンハイトが色素の薄い瞳を細めながら、ならばいい方法があると言って、あることを提案した。
 それを聞いたリンザーは、半分冗談だと思いながらも、帰宅すると早速ヘレーネにその話をした。
 ヘレーネも笑いながら、まさかの気持ちでサビーネの姉として、オーディンでアドレスを交換していたコールラウシュ伯爵夫人を招待したのである。
 こうして、バーベキューパーティの当日、ロイエンタール元帥夫妻が、木箱に入った410年ものの白ワインを手土産に、リンザーの邸に現れた。



 その日の朝、ヒルダは久々の休日だというのに、いつもより早く目覚めた。
 正式な遷都までの間、大本営として接収されたホテルの一室に一人寝起きしている彼女は、この日の朝食を断り、代わりにミルクとコーヒーを部屋に運ぶようフロントに頼んだ。
 今日は、11時に約束しているリンザー准将の宿舎でのバーベキューパーティに出かける予定である。
 こんな風に友人達と楽しいひと時を過ごすのは、何年ぶりのことだろうか。
 大学の時以来だから、もう3年くらい経つのか。
 卒業に必要な単位を2年間で取得したヒルダにとって、短い大学生活は、その後の彼女の生き方を決定づける貴重な時間であったが、同時に、忘れようにも忘れられない出来事に遭遇した。
 それは、今でも彼女の奥深くで癒えない傷となっているものだった。
 こちらへ着いてから購入した、最近人気だというデザイナーの秋物のブラウスとスカートで身支度を済ませてコーヒーとミルクを飲むと、ヒルダは少し早目にホテルを出た。
 エレベーターで一階のホールに降りると、カフェで小さめのケーキを適当に10個ほど見繕って箱詰めしてもらい、隣の花屋でピンク系のチューリップを主体にしたブーケを作ってもらった。
 無人タクシーで10時半過ぎにリンザー邸に到着すると、ヘレーネの3人の友人達と、ロイエンタール元帥夫妻が既に来ていた。
 ヒルダは、伯爵夫人にあらためて懐妊祝いの言葉を贈ると、まだ母親になるには若すぎる少女は、少しはにかんだように、「ありがとうございます」と礼を述べた。
 間もなく、リンザーの友人のバイエルラインが、敬愛する上司であるミッターマイヤーと共に現れた。
 ミッターマイヤーは、丁度公休日を利用して、伯爵夫人の懐妊祝いにロイエンタール邸を訪ねる予定だったという。彼も士官学校時代から大佐までは、ロイエンタールと共にオーディンのリンザーで散々飲み食いしたものである。
「お言葉に甘えて、バイエルラインに便乗させてもらった」
 少し照れくさそうに笑いながら、ミッターマイヤーはそれでも律儀にヴィンテージものの赤ワインをリンザーに手渡した。
「とんでもありません。ミッターマイヤー元帥にまでおいで頂けるとは、光栄です」
 敬礼しようとするリンザーを、ミッターマイヤーは、今日は全員私人だからと言って制した。
 カルツ夫人が、ヒルダが持参した花束を、庭の中央に出した大テーブルに飾ると、程なくして対策室の男性5人が到着した。
 5人とも、帝国軍の双璧が揃った姿に驚いて緊張したが、私服のミッターマイヤーが、今日はあくまでも私人として楽しもうと言うと、ほっとした表情で顔を見合わせた。
 5人は、保冷容器と一緒に高級アイスクリームメーカーのアイスクリーム1L入りを5種味持参しており、ヘレーネが嬉しそうにデッシャーと一緒に並べた。
 あと数分で11時になろうかという時、最後の客達が到着した。
 ヘレーネとは馴染みになっているフェ―レンハイト軍医中佐と夫の上級大将夫妻、工部尚書筆頭秘書官にして新帝都建設局参事官であるビアンカ・ヴィーク嬢と、ビッテンフェルト上級大将のカップルの4名は、同じランドカーでやって来くると、ビッテンフェルトが代表してウィスキーのボトルをリンザーに手渡した。
 全員が揃ったところで、まずはビールで乾杯した。
 ただし、ただ一人未成年で懐妊中でもあるエルフリーデにだけは、カルツ夫人が搾りたてのフルーツジュースを用意していた。
 全員が私服の所為か、軍服もスーツも着ていない彼等は、普通に仲の良い若者達の集まりに見える。
 特に軍人達は、元々彼等の年齢に似つかわしくない地位にあるせいか、普段よりずっと若々しい。
 ヒルダは、その様子を眩しそうに眺めていた。
「よし! はじめるとするか」
 リンザーとカルツ夫人が、今朝届いたばかりの野菜や肉の塊を大量に運んで来ると、突然ビッテンフェルトが、黒いシャツを腕まくりして、その場を仕切り始めた。
 エルフリーデが、不思議そうにきょろきょろと周囲を見渡して、隣の夫に尋ねる。
「料理人はどこにいるのかしら?」
「そんなものはいない。これは自分たちで肉や野菜を切って焼くものだ。まあ、見ているがいい」
 ロイエンタールがそう言って、同じく腕まくりをすると、リブロースの塊を切り始めた。
 その脇で、ビッテンフェルトが更に手慣れた手つきで牛肉の塊を見る見るうちに捌いていく。
 眼を丸くするエルフリーデや文官達を、ヒルダはくすりと笑って見ていた。
「そう言えば、士官学校や幼年学校出の方々は、こういうこともお出来になるんでしたわね」
「ええ、これでも野営の実習訓練の成績は、同期でトップでしてね」
 ビッテンフェルトが自慢げに言うと、ミッターマイヤーとファーレンハイト、バイエルラインも次々と野菜の皮を剥いたり、肉を切り分けたりし始める。
 自慢するだけあって、ビッテンフェルトの包丁捌きは見事なものだった。
 ロイエンタールも、切り分けられた肉や野菜を手際良く大皿に盛り付けていく。
 ミッターマイヤーとリンザーも手早く魚を捌き始めた。
 その横で、バイエルラインだけは、こういった作業が苦手らしく、不器用な手つきで籠に積み上げられていたキャベツや玉ねぎと格闘していた。
「おい、玉葱の皮とキャベツの芯を捨てるな。使い道がある。肉の脂身も捨てるなよ」
 ファーレンハイトが、無駄のない動きで食材を切りながらバイエルラインに言うと、ベルタがやれやれという顔で視線を上に向けた。
 危なっかしい手つきのバイエルラインを見かねたリンザーが、彼から包丁を受け継ぐと、大皿に盛り付けられた肉を焼いていくよう促した。
「悪いな。どうも俺は、平民出のわりに、こういうのが苦手で…」
「気にするな。俺の同期に下級貴族だが、やたら金持ちの坊ちゃんで、野営実習で生まれて初めて包丁握ったって奴もいたさ」
 リンザーに向かってすまなそうに頭を掻くバイエルラインを、ビッテンフェルトがそう言って慰めると、ロイエンタールが、ぐっと声を詰まらせた。
 ヒルダ達は、その様子に笑いを堪えるのに苦労した。
 和やかな雰囲気の中、バーベキューパーティーは進んでいった。
 当初は軍の高官達に遠慮がちだった男性の文官達も次第に慣れ、年齢も近いこともあって話が弾んでいる。
 まだつわりの気配のないエルフリーデも、この形式が気に入ったらしく、最初はロイエンタールが食べ頃に焼けた肉や野菜を皿に取ってやったのを食べていただけだったが、次第に興味を示して自分で焼いて食べるようになった。
 巷で噂されている「お前呼ばわり」は相変わらず健在で、ヘレーネから聞いていたベアトリス達も実際に目の前で聴いて、あらためて驚いていた。
 ヒルダは、ヘレーネの幸せそうな姿に、心底救われる思いがした。
 あのような悲劇は、二度と起きて欲しくない。
『あれが、リッテンハイム候の娘か…』
 ミッターマイヤーは、甲斐甲斐しく客達の間を縫って何かと世話を焼きながら、婚約者のリンザーと仲良さそうに笑い合う気さくな娘を見て感慨を深めた。
 自分は我ながら父にも母にも良く似ている息子だと思うが、親に似ない子というのも確かに存在するものなのだなと、彼女を見てあらためて思う。
 そう言えば、今年軍に採用されたキャリア女性達は、皆才色兼備だと聞いていたが、彼女の友人の女性士官達もなかなかではないかと思った。ただし、妻一筋の彼の場合、自分にとってではなく、彼に心酔する可愛い部下の為にそう思ったのである。
「おい、シェリング准尉の友人達も感じがよさそうじゃないか。伯爵夫人の同級生などよりも、年齢も卿に釣り合う。せっかくの機会なんだから、声くらいかけてみたらどうだ?」
 ミッターマイヤーは、ビールジョッキを片手に、未だに女っ気のないバイエルラインに小声で促した。
「はあ、小官もそう思うのですが…」
 彼とて若く美しい女性の集団に興味がないわけではないらしいが、典型的な堅物故、話しかける切っ掛けが掴めないらしい。
 だが、こんな機会はなかなか巡ってこないと考えた彼の上官は、更に部下の背を押した。
「まずは、普通に当たり障りのない話をすればいいだけだ。いいか? 間違ってもこの前のように、軍が恋人だなどとは言うなよ。いらぬ誤解を招くからな」
 だが、それに対して「誤解とは、どのような誤解でありますか?」と大真面目に訊く部下に、稀代の戦術家も、「ダメだ。こいつは」と呟いて匙を投げた。



 惨劇は、全員が一通り酒と食事を楽しんだ午後12時半を回った時に起こった。
 突然、鼓膜が破れるような爆音と共に、邸から数百メートル離れた建物が炎に包まれた。続いて今度は後方のビルが、同じく爆発して火を噴き、濁流が流れ込むように炎の塊が周辺地域を襲っていった。
 実戦経験の豊富な軍人達は、それがすぐさまゼッフル粒子への引火であることを悟る。明らかに意図的な爆発である。
 テロだ!と、彼等の誰もが思った。
 この時、陸戦部隊の指揮官であるリンザーの対応は素早く的確だった。
 国家の重鎮が複数集まるということで、密かに邸の周囲に配備していた一個分隊を集結させると、直ちに消防、警察、憲兵隊に連絡させると同時に、状況確認と、要人たちの安全を確保すべく努めた。
 火の手は見る見る拡がり、あっという間にリンザー邸周辺に迫っている。
 邸内のスプリンクラーが作動し、水飛沫が上がった。
 リンザーは、炎から逃れるべく、全員を一旦邸内に避難させようとした。
 だが、次の行動に出る前に、3度目の爆発が起こり、通り一つ隔てた前方の高層ビルが火を噴いた。
 同時に、上空から様々なものがバラバラと降ってきた。
 瓦礫や硝子片に交じって、高温の鉄板や人肉らしきものまでが、後から後から降り注ぎ、楽しいバーベキューパーティの庭が、一瞬にして地獄と化した。
 漸く収まった時、リンザー邸の庭は、発ち込める煙と異様な臭気に包まれて、極度に視界が悪かった。
 ヒルダは、当初呆然と立ち竦んでいたが、前線に従軍した経験が活きたのか、3度目の爆発音のあたりから徐々に冷静さを取り戻し、とにかく非戦闘員の文官や女性達の安全を確保しなければと考えた。
「ヘレーネ、サーシャ、アンナ、ベアトリス、皆、大丈夫?」
 煙で自分の位置も定かでない中、ヒルダは同僚達の名前を叫んだ。
「私は無事です。ここにいます。カルツ夫人も一緒です」
 最初に返事をしたのは、偶々キッチンに追加の皿を取りに戻っていたヘレーネだった。 ヘレーネは、緊急用のライトを持ち出し、位置を知らせた。
 ヒルダはその光を目指して進もうとした瞬間、先程の爆発で降ってきた瓦礫に躓いて前のめりに転倒してしまった。
「フロイライン、大丈夫ですか? さあ、掴まって下さい」
「その声は、ベルトなの?」
 左前方から、対策室のアルベルト・フォン・ケルトリングの声が聴こえると、差し出された手をとって、やっと彼の姿を確認できた。
 ヒルダは、彼に支えられてたった7メートル程の距離を数分かけて進んで、邸内に避難した。
 リンザーが、警備兵に命じて邸の周囲を非常用ライトで囲ませると、やっと視界が開けて、全員の状況が確認できた。
 テラスに近い位置にいたファーレンハイト夫妻とアンナは、ヒルダよりも先に邸内に入っていた。3人とも幸い怪我はない様子だった。
 その後すぐに、クリューガー中佐が煙で咽ながら、何とか自力で邸内に辿り着いた。こちらも頬にかすり傷を負っている程度だ。
 バイエルラインは、近くに居たフレッドことアルフレット・フォン・リスナー中尉と、サーシャことアレクサンドラ・シェスタ―准尉を助け起して避難してきた。この3人も無傷のようだった。
 ビッテンフェルトは、恋人を庇って左腕に10cm程の硝子片が刺さっているのを自分で引き抜いた。
 一瞬、噴き出た血を、ビアンカが自分のブラウスの右袖を破って止血する。
「救急箱持って来て」
 ベルタが、軍医中佐の顔に戻ってヘレーネに言う。
「は、はい」
 ヘレーネは、はじかれたようにリビングに向かうと、救急箱と言うには大げさなステンレス製の中型トランクを持って戻ってきた。
 幸いにも高官の官舎には、緊急時に備えて、AEDをはじめとする一通りの医療器具が揃っている。
 だが、ベルタが真っ先に治療に向かおうとしたのは、間に合わせの止血処理をした弟ではなく、庭に倒れている負傷者達だった。
 ヒルダは、この時、身重の伯爵夫人の姿が見えないことに気付いてはっとなった。
「ベアトリス!」
 その隣では、アンナとヘレーネの2人が悲鳴を上げていた。
 ベアトリス・フォン・アデナウアー准尉が、下半身が落ちてきた瓦礫の下敷きになって動けないでいた。
 そのすぐ脇では、バッケスホーフ事務官が、頭から血を流して動かない。どうやら運悪く落ちてきたコンクリートの塊の直撃を受けたらしい。
 更にその隣の壊れたテーブルの下で、カール・フォン・リスナー管理官が倒れていた。
「ミッターマイヤー元帥、ロイエンタール元帥、ご無事ですか?」
 リンザーが帝国軍の双璧の無事を確認しようとすると、白煙が発ち込める一角から、ミッターマイヤーの声が聴こえた。
「俺は大丈夫だ。それより、ロイエンタールを…」
 ミッターマイヤーは、バーベキュー用の消火器を持ったまま自分の無事を知らせると、その先には、何かを抱えるような形で蹲るロイエンタールがいた。
 周囲に散らばる残骸を見ると、高温化した金属片が落ちてきてロイエンタールの背中に引火し、ミッターマイヤーがそれに向かって消火器を吹き付けた直後らしい。
「閣下!」
 バイエルラインが、ミッターマイヤーに駆け寄ろうとすると、自分はいいから他の負傷者の救護に当たれと命じた。
 ベルタは、医師としての責務を果たすべく、まず男達にベアトリスを瓦礫の下から救い出すよう指示した。
 同時に自分は、意識のないバッケスホーフ事務官に駆け寄り、AEDで蘇生措置をした後、応急手当を施し、軍病院のドクターヘリの到着を待った。
 次にテーブルの下敷きになっているリスナー管理官の脈を確認し、落下物による軽い脳震盪で、命に別条がないことを確認した。
 その間、残りの全員で力を合わせてコンクリートの塊を持ちあげ、ベアトリスを助け出した。
「オスカー…!」
 ロイエンタールの中から、聞き覚えのある少女のくぐもった声が聴こえた。
 ベルタは、慌ててロイエンタールに駆け寄ると、真っ赤に染まった皮膚が露わになった彼の背中一面に絶句した。
 戦場でもっとひどい状態の兵士など見慣れていたはずだったが、ロイエンタールのこんな生々しい傷を見るのは初めてのことで、この男もやっぱり人間だったのかと、妙な感慨を覚える。
 防火性機能を備えた軍服ではなく、今日は私人としてラフな私服であったことが、負傷の程度を重くしているようだった。
 背中の火傷以外にも、頭や肩にかなり強い打撲を受けていると思われた。
 それでも、彼は、状況の安全を完全に確認するまで、幼妻を懐に収め、身動ぎもしなかった。
「オスカー! オスカー!」
 常には気位が高く、ツンと取り澄ました伯爵夫人の取りみだした声が聴こえた。
 ロイエンタール元帥は、妻である伯爵夫人を自分の身体ですっぽり包み込み、微動だにしないで落下物をやり過ごしたらしい。
 その所為か、漸く身体を離した伯爵夫人は、見たところ全くの無傷だった。
「オスカー! オスカー! 誰か、助けて。お願い…」
 エルフリーデは、涙声だった。
 今まで夫に対して、従者か何かのように振舞っていた少女とは別人のようだった。
「騒ぐな。生憎と俺はまだ死なん」
 ロイエンタールは、僅かに眉を歪めただけでそう答えると、エルフリーデに、怪我はないか、お腹の子は無事かと尋ねた。
 エルフリーデが大丈夫だと言うと、ロイエンタールは、満足そうに少し唇の端を上げて頷いた途端、意識を失って昏倒した。
「オスカー!」
 エルフリーデが、自分の膝元に伏して倒れた夫に悲鳴を上げた。
 ミッターマイヤーが即座に救急医療箱にあった冷却スプレーを背中に吹き付けた。
 ロイエンタールの右手が微かに動き、何か言おうとしているのを見て、意識があることが判ると、エルフリーデは、もう一度夫を安堵した声で呼んだ。
『愛しているのね…』
 ヒルダは、ほんの少しの間だけ、2人を羨ましそうに見ていた。
 ベルタは、ロイエンタールに意識があることを確認すると、落下物の下から引き出されたベアトリスを診た。
 幸いにも彼女は、潰れた椅子がクッション代わりになっていて、落下物の直撃を和らげたらしく、左脛の骨折と右足全体の打撲程度で済んでいた。
 辛そうながら意識もしっかりしており、命に別条はないと思われる。
 ベルタは、骨折の応急処置を済ませると、最後にロイエンタールの治療に当たった。
 間もなく、軍の救急医療チームと、官民それぞれの病院から救急車やドクターヘリが次々と現場周辺に到着し、負傷者は都内の病院へと分散して運ばれていった。
 ベルタは、一番の重傷者であるバッケスホーフに付き添ってヘリに乗り込んだが、その他の無傷の者や軽傷者も、一応検査を受ける為、リンザー配下の兵士達に護衛されて、軍用車で軍病院へ向かった。
 リンザー一人だけがそのまま残り、指揮下にある部隊に緊急招集をかけると、憲兵隊と協力して、周辺住民の避難誘導や救出作業、また不審者の捜索に従事していった。


 
 この日、フェザーンの首都中心部を約30平方キロメートルに渡り焼き尽くした火災は、午後3時過ぎには鎮火し、初期の消火活動が迅速だったことが幸いして、爆発の規模に比して延焼は狭い範囲で済んだ。
 フェザーンの合理的で最新設備を備えた消防体制も被害の大規模化を防いだと言えよう。
 これがもし、旧体制下のオーディンで起こったことならば、住民の避難よりも、ルドルフ大帝の像や、貴族や皇室の所有建築物が優先された挙句、消火が大幅に遅れ、一般市民への被害が拡大したであろうことは想像に難くない。
 しかし、その時点で判明しているだけでも、死者69名、重傷者300名以上、軽傷者と無傷で避難した者は1万人を越えた。更に、行方不明者の数が5000人以上にも上り、彼等の殆どは、個人の判別のつかない程炎に焼き尽くされたか、爆破の衝撃で肉片と化したと思われた。
 今後、捜査官達は、これらの有機物を丹念に拾い上げ、DNAを採取・鑑定した後、データベースと照合して個人を特定する。
 オーディンでは数ヶ月かかる作業も、フェザーンでは数日で完了するという。
 従って、最終的な死者数は、事件後1週間もしなううちに判明することになる。
 また、爆破や火災によって全壊又は半壊した建物は、数万戸に及び、その中には、コンラート・リンザー准将の官舎も含まれていた。
 更に問題が深刻化したのは、最初とその次に爆破された中級ホテルは、殆どの部屋を軍が士官用の宿舎として借り上げており、その中には、皇帝の高級副官シュトライト中将と、軍務省のフェルナー准将がそれぞれ住んでいた。
 2人は、事件のあった時刻、各々の部屋で昼食を摂っていたが、危険を察して逸早く非常口から脱出した為、一命を取り留めた。
 ただし、瓦礫の下から発見された時には、意識不明の重体であり、特にシュトライトの方は、一時心肺停止状態だった。
 フェザーンの最新医療を以ってしても、2人とも依然として危険な状態であり、予断を許さない。多分、これがオーディンで起きた事件なら、2人とも搬送先の病院で亡くなっていただろうと思われた。
 最後に爆破された高層ビルは、地下1階から8階までが高級デパートで、9階から最上階の24階までが、フェザーンでも屈指の高級コンドミニアムとして有名な建物だった。
 このビルの被害が最も大きく、事件当時いたデパートの買い物客と従業員、コンドミニアムの住人のほぼ全員が死亡又は行方不明となっていた。



 軽傷者と怪我をしていない者達と一緒に、軍病院へ着いたヒルダは、看護師に擦り剥いた膝の傷を手当してもらっている時に、自分の携帯端末に何度も呼び出しが入っていたことに気付いた。
 端末を開くと、一部側近のみに知らされている皇帝のプライベート番号からだった。
 ヒルダは、映像モードにして返信をすると、ワンコールでラインハルトが白皙の顔を紅潮させて画面に映し出された。
「フロイライン! 無事か!?」
 携帯画面ごしのラインハルトの勢いは、一見怒っているようにも見えた。
「は、はい。申し訳ございません。何度もお呼び出し頂いていたにも関わらず、大変失礼いたしました」
 ヒルダが、首席秘書官として、非常時の招集に即座に応じられなかった失態を詫びると、黄金の覇者は、叱責する様子はまるでなく、誰も見たことのない安堵感で脱力したような表情をしていた。
 ヒルダは、被害地区にあるリンザー邸でバーベキューパーティをしていた時に事件に遭遇し、対策室の1名が重症であることを除いて全員が無事であることを知らせた。
 4人の軍最高首脳も、ロイエンタール元帥が怪我を負った以外は軽傷か無傷で、自分も含めて今は全員軍病院にいることを報告する。
 ヒルダは、直ちに自分の宿舎に戻り、その後すぐに大本営に出仕すると告げたが、ラインハルトはそれを制し、逆に今から自分が軍病院へ行くと言って、一方的に通信を切ってしまった。
 10分後、親衛隊長のキスリングと、次席副官リュッケ少佐を含む数名の僅かな伴で、皇帝自身が軍病院の玄関に現れた。
 病院長を務める軍医大佐が挨拶に降りてくる間もなく、皇帝一行はヒルダ達が検査と治療を受けている部屋に早足で入っていった。
「フロイライン!」
 扉が開くやいなや、ラインハルトはヒルダに向かって一瞬、両腕を広げる仕草を見せたが、直立して敬礼する軍属達の姿に、慌てて手を引いて自身も敬礼を返した。
 ミッターマイヤーが代表して、現場に居合わせた立場での事件の概要と、ロイエンタールが別室で治療を受けている事を報告した。
「陛下。これは、陽動かもしれません。一刻も早く安全な場所へお移り下さい」
 ミッターマイヤーの進言を、ラインハルトは即座に退けた。
「無用なことだ。予がどこにいるにしろ、反逆者どもの目的が予自身であるならば、直接大本営を狙えばよいだけではないか。警備は万全を期している」
「御意。しかし、マイン・カイザー、やはり、これは新政府に不満を抱くフェザーンの残存勢力か、同盟側の反帝国組織あたりの犯行でしょうか」
 ミッターマイヤーも、自分自身に問い掛ける気持ちで疑問を口にした。
 反帝国的な組織の犯行にしては、大本営でも軍務省ではなく、民営のホテルやデパートを狙うというのは、一般市民の支持を得られないどころか、逆効果だろう。
 皇帝と新政府の重鎮達を狙う陽動作戦にしては、次の動きがない。
 また、今のところ、どの地下組織からも犯行声明は出ていなかった。
 犯行組織の目的も正体も不明のまま、ラインハルトは、捜査指揮の責任者に、憲兵副総監ブレンターノ大将を任命すると、直ちにフェザーンにいる政府と軍の首脳達を招集し、今夜緊急御前会議を開くことを告げた。
 但し、怪我を負ったロイエンタールと、軽傷だが、女性の身で事件現場に遭遇したヒルダのショックを思い、2人に出席を免除した。
 そこでラインハルトは初めて、実は爆破されたホテルを宿舎としているシュトライトとずっと連絡がとれないことを伝えた。
 ヒルダの顔が見る見る青ざめていく。
 あの状況では、助かる見込みは薄いと思われた。
 元ブラウンシュヴァイク公の片腕であり、今は共に新皇帝に仕える身である彼を、ヒルダは誠実で良識ある大人の男として、深い信頼を寄せていた。
 更に、2番目に爆破されたホテルを宿舎としている軍務省調査局長であるフェルナー准将も重傷を負って現在この病院で手術中だと聞くと、全員に緊張が走った。
 彼を密かに慕っていたベアトリスは、骨折の治療中でこの場にいなかったが、知ればさぞ衝撃が大きいだろうと、ヘレーネ達は案じた。
 他には、工部省の仮庁舎ビルも同じ街区にあり、半壊したが、幸いにも工部尚書のシルヴァーベルヒとグルック次官をはじめとする官僚たちは、全員軽傷で大事ないとのことだった。
 これには、当然ながらビアンカが最も嬉しそうに、ほっと胸を撫で下ろした。



 その夜の御前会議には、皇帝の免除の温情にも関わらず、ロイエンタールもシルヴァーベルヒも出席し、ヒルダもいつも通り主席秘書官として傍に控えた。
 元々かすり傷だったヒルダと、軽傷のシルヴァーベルヒはともかくとして、背中一面に重度の火傷と、肩と頭部にも打撲を負っているはずのロイエンタールが、常と変らず端然とした様子で現れたのには、流石に一同も驚きを隠せなかった。
 しかし、結局この時点では、事件の全容が不明であることから、とにかく事後処理に各部署から人材を割いて事に当たらせることと、新王朝の権威を損ねぬ為にも、フェザーンの市民感情に充分配慮して動くよう末端にまで徹底させるよう訓示がなされるに留まった。
 また、捜査に当たっている憲兵隊と警察が、犯行組織を割り出した時点で、再び招集をかけることを通達し、御前会議は散会した。
 翌日、大本営に出仕したヒルダは、まだ予断を許さない状況であるものの、シュトライトが宿舎近くの病院へ収容されて無事であることを知らされ、一先ず安堵した。
 感染防止対策室に赴くと、重傷のバッケスホーフ事務官を除く全員が出勤している姿に驚いた。
 足に打撲と骨折を負っているはずのベアトリスも、歩行補助器具をつけてデスクにいた。今回の件の負傷者には、公休日にも関わらず、皇帝の特別な計らいで労災休暇が許可されていた。
 ヒルダがそれを言うと、ベアトリスは笑って、宿舎でじっとしていても治りが早まるわけではないからと言った。
 彼女には、働き続けなければならないある事情が存在したのだが、その訳を知っているのは、まだヘレーネ1人だった。
 翌10月24日、大本営に、被害者の識別調査に当たっていたフェザーン警察の科学捜査本部から、意外な情報が齎された。
 事件現場から採取した遺体及び肉体の一部のDNA鑑定を行い、データベースと照合作業を進めていた途中、その中の若い女性の腕の一部と思われるものが、リップシュタット戦役後行方不明となっていたエリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイクのものと一致したというのである。
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