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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(34)
「あの女よ! あの女が、伯爵夫人を突き落としたんだわ。私、この目ではっきり見たのよ!」
 駆けつけた警備員に向かって、得意げにそう叫んだのは、偶然通りかかったというツェルプスト子爵の側室の女だった。
 野次馬達の中で、指を指された先にいたのは、ゴットルプ子爵家と最近親しくなった司法省官吏夫人のアリーセだった。
 他に目撃者もなく、当人のエルフリーデは、気を失ったまま、すぐに駆けつけた救助員に医務室へ運ばれていったので、事実を確認できない。
 ツェルプスト子爵の側室は、自分の手柄を誇示するように、一人の夫人を糾弾し続けている。
「早く! 誰かあの女を捕まえて、あの女は、帝国元帥夫人を殺そうとした大罪人だわ!」
「バカな! 見間違いだ。妻はそんなことをする女じゃない」
 騒ぎで駆け付けたアリーセの夫が、しっかりと妻の肩を抱きしめて、彼女を拘束しようかどうか迷っている警備員達から守るように立ちはだかった。
「そうですとも。こちらの奥様が、伯爵夫人を突き飛ばしたりするわけないわ。あなたこそ、妙な言いがかりをつけて、他人を貶めるのはおやめなさい」
 一緒にやってきたゴットルプ子爵夫人も、目撃者の女にそう言って、友人夫妻の肩を持った。
 名指しされた当人は、ぼんやりと虚ろな目で、明らかにいつもの彼女ではなかった。
 ホールの一角に出来た人だかりが、徐々に大きくなりはじめた時、漸く船長が駆けつけた。
 船内で事件が起こった場合、警察か憲兵隊が到着するまでの間、彼が臨時の警察権を持つことになる。
「どうぞ、こちらへ。お話を伺いましょう」
 船長は、引き連れてきた数名の船員と警備員に、目撃者の女と、犯人とされた夫人を別々の部屋へ通すよう命じた。
 船長は、目撃者から事情を聴き、後で警察と憲兵隊に引き渡す為に、聴取内容をデータ化した。
 隣の部屋では、犯人呼ばわりされた夫人に対して、一等航海士の一人が船長の代理で、話を聞いていた。
 事件が起きた場所は、丁度監視カメラの死角になっており、目撃者も未成年の女一人の証言だけでは、うかつに犯人扱いはできない。
 何と言っても、乗客であることを考慮し、担当した船員も、尋問ではなくあくまでも「お話を伺う」というスタンスで、終始丁寧に対応し、夫の同席も許可した。
 だが、簡素な応接セットがあるだけの談話室に通されたアリーセは、相変わらず焦点の定まらない目で曖昧に頷くのみで、エルフリーデを突き落としたか否かの肝心な点については、肯定も否定もしていなかった。
「コールラウシュ伯爵夫人と奥様とは、この航行で初めてお会いになったのですか?」
「もちろんです。当然、伯爵夫人は有名人ですから、私どもは2ヶ月前から知っていましたが、私どもが、伯爵夫人にお見知り置き頂いたのは、息子がたまたまゴットルプ子爵のご令息と友達になったのが切っ掛けで、子爵夫人を介して初めてご紹介頂いたのです」
 淀みなく真摯に答えるのは、本人ではなく、夫の方だった。
「お知り合いになってから、奥様と伯爵夫人との間で何かトラブルは?」
 船員の問いに、夫は苦笑した。
「まさか。あるわけないでしょう? いくら新王朝になって身分制度が崩壊したとはいえ、相手はあの伯爵夫人ですよ。いや、伯爵夫人というより、ロイエンタール元帥の奥様です。私どものような者が、ご不興を買うようなことをするわけがないでしょう? 現に今日だってゴットルプ子爵家の方々と一緒にパーティーに出る予定だったんですから」
 夫の言い分に、船員も尤もだと思って頷いた。
 一見して、夫妻ともに人品卑しからぬ人物に見える。
 ただ、懸命に濡れ衣を晴らそうと弁舌を奮う夫とは対照的に、終始虚ろで、事件について何も言わない妻の態度が多少気になった。
 夫の方はそれを、突然あらぬ疑いをかけられたショックで、声も出ない状態なのだと主張した。
 深層育ちの女性にはよくあることなのかもしれないが、聴取している船員は、それでもなんとなく腑に落ちないものを感じていた。
 その時、突然ノックと共にドアが開き、船長が入ってきた。
「この度は、お時間をとらせてしまい、誠に申し訳ございません。どうぞ、お戻りになって結構でございます」
 恰幅のいい老船長が、帽子を脱いで夫妻に向かって深く一礼した。
「では、妻の疑いが晴れたのですね?」
「はい。先程伯爵夫人が気付かれまして、転倒したのは、自分の不注意で、誰にも突き飛ばされてなどいないと証言なさいました」
 それを聞いた途端の、夫妻の対照的なリアクションを、船長は暫く忘れることができなかった。
 ぱっと、歓びに目を見開く夫に、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた妻。
 船長は、妻を抱き起こす夫に、「よい船旅を」とだけ言い、船員達を促して部屋を出ていった。
「本当に、あれでいいのですか?」
 部屋を出て廊下を数歩進んだところで、夫妻の聴取を担当していた一等航海士が、納得のいかない顔で船長に問うた。
 未成年とはいえ、目撃者の女の証言は終始一貫していて、辻褄も合ってるし、犯人とされた夫人の態度は明らかにおかしい。
「伯爵夫人自身がそういうのだから、我々はそれ以上何もできんよ。幸い軽い脳震盪で、怪我もない。医者の話によると、ご懐妊されているそうだが、そちらも無事だそうだ。被害がない以上、この件はこれで終わりだ」
 船長はそう言うと、警察に提出するつもりで目撃者の女から聴取したデータチップを握り潰した。
「ご懐妊…って、これはまた、随分と早急な…」
 フェザーン人の彼にとっては、自分の娘とそう変わらない年頃の少女の妊娠が、どうにも感覚的に馴染めない。
「ははは…ついこの前まで、後宮制度があった国だよ。帝国は。今の皇帝陛下は、そっちの方面には関心が薄いようだが、今後代を経ていけば、また復活の可能性もあり得るさ。我々は、そういう人間達の支配を受けることになったということさ」
「船長!」
 不穏にとられかねない発言に、船員達は思わず周囲を警戒した。
「なぁに、ここのチェックは万全だ。盗聴器の類は何度も調べてある。お客様のプライバシーの厳重さもこの船の売りなのでね」
 片目を瞑って見せる船長に、船員達からも笑みが零れた。
「…色んな人間を見てきた…歳だけとった大人子供、若いのに妙に老成されている人間もな…」
 船長が、唐突に声を落として視線を宙にやった。
 彼の40年以上に渡る船乗り生活の中で、このヴェルサイユ号は、船長として乗り込む8艘目の船である。そして、間もなく70歳を迎える彼にとって、最後の船となるであろう。
 船員達は、そんな大先輩の言葉を神妙に聴き入った。
「コールラウシュ伯爵夫人は、なんと早く大人にならなければならなかったことか…おいたわしい… 」
 事件の真相を深く洞察した老船乗りは、ぽつりとそう言った。


「知らん女だ」
 トリスタンの自室で報告を受けたロイエンタールは、僅かに双眸を揺らしたのみで、無表情に回答した。
 エルフリーデが、乗船している客船内で、階段の踊り場に倒れて意識不明の状態であるとの最初の一報に接した時、彼は珍しく艦橋の指揮シートでほんの少しだけ顔色を変えた。
 以後の連絡を自室で受ける為に艦橋を後にすると、数分後にエルフリーデ自身と懐妊している胎児の無事を知らせる第二報が入った。
 そして、妻を階段から突き落としたと名指しされた女性の映像とプロフィールデータが電送されてきたのである。
 ロイエンタールは、この女性の顔は本当に覚えていなかったが、その名に微かな記憶があった。
 女自身ではなく、その後に起こったことの方に印象が強かったのかもしれない。
 だが、エルフリーデの無事を確認した後では、それを他人に言うつもりはなかった。
「そうですか。お時間をお取り頂き、恐縮でございました。奥様のことは、フェザーン到着まで責任を持ってお世話させて頂きます」
「うむ。よろしく頼む」
 モニターごしに敬礼するヴェルサイユ号の船長に、鷹揚に応じたロイエンタールは、皇帝に代わって全軍の行軍を統括する統帥本部総長の権限を以って、航行スケジュールの一部変更を指示した。
 次回の停泊を予定より26時間早め、1時間後に全艦の停止を命じるというささやかな職権乱用を行ったのである。


 医務室のベッドで目を覚ましたエルフリーデの視界に真っ先に飛び込んできたのは、ゴットルプ子爵夫人の安堵の笑顔だった。
「ああ、よかった。伯爵夫人。お一人にしてしまったばかりに、伯爵夫人やお腹のお子様に何かあったら、主人にもロイエンタール元帥にも顔向けできないところでしたわ」
 若い義理の叔母は、本当に泣きそうな顔をしていた。
 当のエルフリーデの方は、まだ記憶が混乱している。
「階段の踊り場に倒れていて、すぐにここに運ばれたんですよ」
 叔母の言葉で、漸く少し記憶が戻ってきた。
 そうだ。私は、階段を降りようとして、後ろから誰かに突き飛ばされたのだ。でも、突き飛ばした人間の顔は見ていない。いったい誰が…? それに、お腹の子は?
 エルフリーデが、不安げに視線を泳がせると、叔母が、懐妊している子の無事と、実は目撃者がいて、こともあろうに、家族ぐるみで親しくなったれいの司法省官吏夫人を名指ししたのだという。
 エルフリーデは、途端に、目の前が回転する気がした。
 同時に、今までバラバラだった疑問が、パズルのピースがはまったように、頭の中で繋がっていったのだ。
 叔母は尚も言葉を続け、目撃したのは、あのツェルプスト子爵の妾で、彼女一人の証言など当てにならないと言って、友人を庇った。
「伯爵夫人だって、まさかアリーセが突き落としたなどとお信じになりませんよね?」
 哀願するように同意を求める叔母に、エルフリーデは、無理に作った笑顔を向けた。
「ええ。叔母様。私、慣れない靴を履いたので、自分で躓いたんですわ。きっと奥様が慌てて助けようとして手を伸ばした姿でも見て、突き落としたなんて、勘違いしたのでしょう。あの思慮の足りない女らしいわ」
 エルフリーデはそう言って、叔母の友人の無実を認め、ツェルプスト子爵の妾の見間違いと言いきった。
 こうして、この一件は、誰も裁かれることなく、エルフリーデの単なる不注意として終わったのである。
 誇らしげに目撃証言をした女が、最後まで不満顔だったことは言うまでもない。
 懐妊しているエルフリーデは、大事をとって、あと半日だけこの病室で安静に過ごすことになっていた。
 エルフリーデは、帰り際の叔母に、犯人扱いされてしまった夫人にお詫びを言いたいので、病室までご足労願いたいと伝えてくれるよう頼んだ。
 叔母は快く承知すると、ほっとした顔で病室を後にした。
 15分程して、その夫人は青い顔で一人病室に現れた。
「ダンネマン夫人」
 扉が閉まる音と同時に、エルフリーデは、横臥したまま視線を天井にむけた状態で、入室してきた女性に呼びかけた。
「オスカー・フォン・ロイエンタールは、私のものです。私だけのものです」
 幼さの残る少女の声にも関わらず、その声は、厳かな響きを以って、アリーセことダンネマン夫人の9年来の思いを断ち切る宣告となった。
 アリーセは、静かに膝を折ると、無言で自分の行為を断罪しなかった伯爵夫人に詫びた。
 今から9年近く前、美しいアリーセ・フォン・ダンネマンには、3人もの求婚者がいた。
 どの男もそれなりの人物だったが、今一つ決め手にかけ、自慢の娘を手放したくないのが本音の父親が何も言わないのをいいことに、3年近くもの間、男達を焦らしていたのだった。
 そんな時、一人の男が突然現れた。
 その男は、剛毅でありながら典雅であり、しなやかでありながら力強かった。
 神秘的な金銀妖瞳の美貌に、アリーセは一目で恋に落ちた。
 そして、彼と結ばれた。
 いや、結ばれたと思っていたのは、彼女の方だけだった。
「フロイライン・ダンネマン。結婚を望むなら、求婚者達を大事にすることだ」
 純潔を捧げ、当然彼と結婚できるものと思い込んでいた娘に向かって、男が最後に投げつけた台詞だった。
 悲嘆に暮れるアリーセの姿に、騎士道精神を刺激された3人の求婚者達は、不実な掠奪者と決闘した挙句、全員病院送りとなったという話は、後で聞いて知った。
 ともあれ、当時20歳になったばかりの娘にとっては、この失恋の痛手は大きかった。
「あの男は、お前の手にはおえん。諦めるんだな」
 不思議なことに、娘を溺愛していたはずの父親は、愛娘がそれほど手ひどい捨てられ方をされたにも関わらず、当時は階級が下だったその男に対して、何ら報復措置を執ることをしなかった。
 後になって考えて見れば、長年軍籍に在った父も、どこかで何かを感じ取っていたのかもしれない。
 男は、3人の求婚者達との私闘により、軍規に則って一階級の降等処分を受け、イゼルローン要塞へ転任という左遷人事で、アリーセの前から消えた。
 しかし、そんな降格などものともせず、男は軍功を上げ、その年のうちに元の大尉に返り咲くと、やがて、瞬く間に父の階級を追い越して行った。そして、門閥貴族出でないにも関わらず、20代で将官になったということと、ゴシップ誌を賑わせる数々の浮名で、オーディンでは有名になっていた。
 アリーセは、それから丸1年以上、泣き暮らす日々を過ごした。
 しかし、やがて時の流れが、ゆっくりと彼女の心の傷を癒し始めた時、知人から今の夫を紹介された。
 さる男爵家の分家筋に当たる帝国騎士の家の三男で、帝国大学の法学部を卒業した将来有望な優秀な判事との振れ込みだったが、アリーセが彼に惹かれたのは、家柄や学歴ではなく、穏やかで誠実そうな彼の為人だった。
「いずれわかることだから、最初に言っておきたい。うちの娘はキズものだ。君はそれでもいいのかね?」
 大佐に昇進していた父親は、正式に求婚の挨拶にきた青年に対して、そう言ったらしい。
 処女性を重んじる帝国社会では、それが原因で、結婚した後に態度を急変させる夫が多い事実を鑑みての親心からだった。
 しかし、相手の青年は、顔色一つ変えずに、
「構いません。今のアリーセが、私を必要としてくれるなら」
 と言って、求婚の意思を変えなかった。
 夫は、それ以後、結婚してからも一度としてアリーセの過去に触れることはなかった。
 アリーセも、自分から話すことはなかったし、彼女に何リットルかの涙を流させた男が、オスカー・フォン・ロイエンタールという名であることも無論、彼は知らない。
 そして、正式に婚約した直後、父と兄が相次いで戦死した。
 三男だった婚約者は、婿入りを快諾してくれると、喪が明けると同時に2人は結婚した。
 夫は、結婚後も変わることなくアリーセを大切にしてくれ、子供にも恵まれた。
 エリート法曹家である夫は、徴兵されることもなく、職業軍人だった父や兄のように、家族を心配させることも悲しませることもない。
 全てが順調で、穏やかな日々が流れていく中、アリーセは、あの男との日々は、夢だったのだと思えるようになった。
 少女が一度は夢見る、強く美しい貴公子との甘い白昼夢。それがあの出来事だったのだ。
 そう思い込むことで、男との思い出を記憶の奥に押しやって、夫との生活を大切にするよう努めた。
 しかし、旧王朝末期、門閥貴族派と枢軸派との対立が顕著になると、再びオスカー・フォン・ロイエンタールの名は、枢軸派の有力提督の一人として、頻繁にアリーセの耳に入るようになっていった。
 元々、ゴシップ週刊誌の類は、あまり見ない彼女だったので、これまでの数々の彼の醜聞は、なるべく自分の耳に入れないようにすることができたが、今度は毎日のようにソリヴィジョンで報道される旬の政治・軍事問題のニュースなので、高級官僚の夫と暮らす以上、避けられない。
 そして、新王朝に代わって間もなくの、ロイエンタール元帥の結婚報道である。
 それを聞いた時のアリーセの気持を、一言で表現するのは難しい。
 この時やっと彼女は、今までどれだけの女と浮名を流そうが、決して長続きすることがなく、理由はわからないが、結婚というものをひどく嫌悪していた様子の男に、唯一の救いを見出していた自分の気持ちに気付いたのだ。
 だが、妻となった16歳の伯爵夫人に対しては、不思議と憎しみとか嫉妬という感情は湧かなかった。
 かつて彼女を無残に捨てた男が妻に選んだ女性は、とびきり若く美しく、毛並みもいい少女だった。もしこれが、自分と同年代の同じ下級貴族か平民の娘なら、発狂していたかもしれないと、アリーセは真面目に思った。そう考えてしまうところがまた、彼女も帝国の階級社会で育った人間なのである。或いは、女としてのプライドだったのかもしれない。
 大本営の移転に伴い、司法省から先行して派遣される文官に夫が選ばれた時も、元帥となった男と接点を持つことはないだろうと思っていた。
 将来夫が司法省で次官とか尚書にでもなれば、公式の場で顔を合わせる機会があるのかもしれないが、実力主義の軍部や、逆に恩賞的なポストとされている宮内省と違い、地道な実績と実務年数がモノを言う司法の世界で若い夫が幹部に登るのは、まだ当分先の話だ。
 だから、アリーセは、フェザーンへ移転する為に乗り込んだ客船の中で、思いがけずエルフリーデと顔を合わせた時、内心どうしようもなく動揺していた。
 伯爵夫人は、伸びやかな四肢に、アリーセが失いつつある透明感のある少女の肌をしていた。軽い嫉妬を覚えながらも平静を装い、ゴットルプ子爵一家はともかく、彼女とは、フェザーンへ着くまでの短い付き合いだと割り切った。
 だが、そのエルフリーデが懐妊していると子爵夫人から打ち明けられた時の衝撃は、アリーセ自身も驚くほど大きなものだった。
 自分自身、とっくに結婚し、今や2人の子供の母であるというのに、この気持ちは、我ながら本当に身勝手で、理解し難いものだと思う。
 それでも、アリーセは、子爵家と自然に付き合いながら、できるだけ伯爵夫人とは当たり障りのないよう接するよう努力した。
 伯爵夫人の方でも、何か漠然と察しているらしく、アリーセには必要以上に近づかない。その勘の鋭さが、有難いと思った。
 そんなある日、船内で伯爵夫人を偶然見かけた。
 彼女は珍しく一人だった。
 エレベーターを待ち切れず、階段へ向かっている。
 アリーセは、最初、知人として普通に社交的な声をかけようとした。
 その途端、彼女の中に突然今まで眠っていた感情が覚醒した。
 目の前にある伯爵夫人の背中は、どこまでも華奢でしなやかだ。象牙色のうなじが美しい。
 この、まだ半分子供のような女性が、あの剛々しく美しい男の子を身籠ったというのか。
 私には決して叶えられなかったことが、この少女はいとも簡単に叶えた。
 あの男に抱かれ、あの男の愛を宿した女…
 次の瞬間、アリーセは、自分が何をしたのか、良く覚えていない。
 突き飛ばしたのを見たという人がいるのだから、きっとそうなのだろう。
 やってしまってからの後悔は、言葉に尽くせない。
 自分の名誉はどうでもいいが、法曹家である夫や子供達の将来まで奪い兼ねないことを考えると、生きた心地がしなかった。
 傷害罪で告発され、全てを失うことも覚悟したが、意外にも当人が自分の不注意だと主張したことで、何事もなかった。
 アリーセには、無論、それが伯爵夫人の配慮であることがわかっている。
 だから、不問に付してくれた伯爵夫人が自分を呼んでいいると聞いて、ありったけの勇気を振り絞って医務室にやってきたのだ。
 ベッドに横たわるエルフリーデは、静かに目を閉じた。
 本当は、もっと言ってやりたいこともあった。
 怒ってもいた。偶々大事にならなかったからいいが、一歩間違えば自分だけでなく、お腹の子の命すら危険に晒されていたのだ。
 だが、エルフリーデがアリーセことダンネマン夫人に対して感じたのは、怒り以上に憐憫だった。
 以前、邸に訪ねてきた女性もそうだが、あの男はいったい何人の女の心を傷つけてきたのだろう。
 あの男は魔物だ。
 エルフリーデは最近そんな風に考えるようになった。
 自分も、そして、この夫人も、いや、この夫人だけでなく、女学院の理事の伯爵夫人も邸に来たピアニストくずれの令嬢も、みんなあの男の魔力に魅入られてしまった哀れな獲物だ。
 あの男に一度抱かれると、きっと、女は別の生き物になってしまうのだろう。
 自分は生涯をあの男と共にするのでそれでも構わないが、あの男の虜になったまま捨てられた女達は、その後どう生きていくのだろう。
 ついこの前までは、あんな男と知って近づく女の方がバカなのだと思っていたが、今は少し考えが変わっている。
 あの男が目の前に現れて、無関心でいられる女は、きっと少ないだろう。
 現に自分も、最初にあの男と対峙した時の、何とも言えない感覚が忘れられない。
 だから、枕元に立ち、丁寧に膝を折るダンネマン夫人を単純に憎むことができなかった。
 そして、これからもこういうことがまた起こるのかと思った。
 だが、自分はあの男と約束してしまった。過去のことは問わないと。その代わり、二度と自分以外の女に触れないと約束させた。
 だから、エルフリーデは、今回の事件をこれで終わらせようと思ったのだ。


 ダンネマン夫人が病室を去って間もなく、船は突然ワープ航行解除のアナウンスが流れた。予定時間よりも丸1日早いが、特に理由は説明されなかった。
 更に1時間ほどしてロイエンタールが客船にシャトルで乗り付け、病室にやってきた。
「すまなかったな…」
 ベッド脇に立った夫は、珍しく殊勝だった。
 真相は、2人の間で暗黙の了解となって語られることはない。
 口にすること自体、エルフリーデには不愉快だった。
 エルフリーデは、首だけを捻って、夫の方へ顔を向けると、精一杯の虚勢を込めて、大気圏最上層の青の瞳で、できるだけ厳しく見えるよう睨み付けた。
 ロイエンタールは、表面上はそれを無視し、脇の椅子に腰掛けると、幼妻の白い手をそっととって口元にもっていった。
「お前が無事でよかった」
「お前の子も無事よ」
「ああ、そのようだな」
 熱のない返事だった。やっぱり、子供のことはどうでもいいのだ。
 本来、一族郎党から祝福されて生まれてくるはずの帝国貴族の子が、実の父親に、こんな粗略に思われているなんて、なんと哀れなことだろう。
 涙が出そうなのを辛うじて堪えながら、エルフリーデは、自分の手や指にいつまでも口付ける夫にふと視線を向けた。
 穏やかな安心感に満ちた顔だった。本当に彼女の無事に安堵しているようだった。
 ならばなぜ、その女が産もうとしている我が子を愛せないのか?
 あのツェルプスト子爵でさえ、妾の懐妊に狂喜したらしいというのに。
「すまないと思っているのなら、私の言うことをききなさい」
 きつい口調で言ってみた。
「何なりと、仰せに従いましょう。伯爵夫人」
 金銀妖瞳の元帥は、そう言うと、もう一度強くエルフリーデの白い手を握り締めた。
「では、命令です。ここにいなさい。私が眠るまで、この場を動いてはいけません」
「御意」
 ロイエンタールは、実に5年ぶりに、ラインハルト・フォン・ローエングラム以外の人間が発する命令に従ったのだった。


それからフェザーン到着までの約半数の日程を、エルフリーデは殆ど自室で過ごすことになった。
 今回の件を心配したゴットルプ子爵夫人が、用心して決して彼女を一人にしようとせず、どこへ行くにも付いてきて、いささか鬱陶しい。
 それでも全く外に出ないということはなく、フレデリーケを誘って映画館や最新の体験型ゲームが楽しめる施設を楽しんだ。
 ダンネマン夫人のアリーセとは、その後もゴットルプ家が家族ぐるみで交流を続けていたので、エルフリーデは、不自然にならない程度に、受験勉強やフレデリーケとの約束を口実に、なるべく顔を合わせないように気を配った。
 ツェルプスト子爵の妾は、あの後、気まづくなったのか、公共の場で見かけることが少なくなったし、以前より大人しくなっていた。
 こうして、約19日間に及ぶ大船団の移動は、恙無く進行した。
 新帝国歴1年10月6日、エルフリーデは、生まれて初めてフェザーンの地を踏んだ。
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