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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(33)
 新帝国歴1年9月18日帝国標準時0030時、帝国軍本隊の大艦隊は、随行する民間船3000隻を含めた大船団となり、18時間近くを費やして全艦が首都星オーディンの大気圏を離脱した。
 今回、出征ではなく移動であることと、多くの輸送船や民間船を帯同していることを考慮し、オーディンからフェザーンまで最短で13日間の航路を19日間かけての移動となる。
 跳躍の人体への負担を減らす為、3日毎に半日間の巡航速度での航行とその前後に2時間づつの停泊を入れた航程を組み、停泊中に各軍用艦からシャトルで民間船や別の艦への移動を可能にした。
 エルフリーデ達を乗せた恒星間航行型豪華客船ヴェルサイユ号等の民間船団は、総旗艦ブリュンヒルト後方7時の方向の指定された定位置に集結し、隊列に加わった。
 船内アナウンスが、最初の跳躍まで6時間前であることを告げている。
 エルフリーデとゴットルプ子爵家の子供達は、スイートルームのリビングの窓から食い入るように無限に広がる大海を眺めていた。
 本来なら窓の外は、漆黒の宇宙空間のはずだが、周囲を取り囲む数十万隻の戦艦が放つ点滅灯が、見たこともない圧巻の夜景を創り出していた。
「あ、あれがブリュンヒルトだ。あの白いきれいな船だよ。カッコイイなぁ…」
 目の眩むような煌きの中、8歳の従弟マルティンが、窓の外を指さし、エルフリーデと幼い妹に向かって興奮気味に言った。
「隣のグレーっぽい戦艦は、パーツィバルさ。ミュラー提督の艦だよ」
 男の子らしく戦艦に興味があって仕方ないようだが、5歳の妹の方は、まだよくわかっていない様子で、ただひたすら目の前のイルミネーションに見入っている。
「こっち側の青いエンブレムの戦艦が、トリスタン。ロイエンタール元帥の旗艦なんだよ」
 得意そうに目を輝かせる少年の言葉に、エルフリーデは思わず身を乗り出した。
『あれが、あの男の艦…』
 あの男は、あの艦で、あの黄金の覇者と共に幾多の戦いに勝利し、星々の大海を征服していったのか。
 そこには、自分の知らないあの男の姿があるのだろう。
 エルフリーデは、そんな事を思いながら、暫くの間、じっとトリスタンの停泊する方向を見詰めていた。
「よろしかったら、みんなで展望室へ行ってみませんか? ここよりもよく見えるそうですよ」
 ゴットルプ子爵夫人が、エルフリーデの様子を察して誘った。
 子供達は揃って「わぁ!」と歓声あげ、エルフリーデも同行することにした。
 通常、恒星間航行船は、高級民間船と旗艦クラスの軍艦には、跳躍時の人体への影響を緩和させるための特殊シールドで覆われた区画が存在する。このシールド内に籠っていれば、生殖機能や免疫力低下などの悪影響が殆ど及ばない。
 ただし、非常にコストのかかる設備故、戦艦には高級士官用居住区や医務室、民間船では等級の高い一部客室に設置されているのみで、廊下などの共有部や、操舵室、艦橋などはその対象外だった。
 妊娠の可能性が高いエルフリーデが、航行中は船室から出ないよう医者から注意を受けたのもこの為だった。
 しかし、この最新鋭豪華客船は、全客室だけでなく、レストランから展望室、遊戯室や映画館、廊下に至るまでの居住区全体をシールドで包囲しているという前代未聞の仕様だった。
 その為、跳躍に弱い老人や病人、妊婦や乳幼児にも乗船可能として話題を集めていた。
 ただし、そのチケット代は、一番安価な二等船室でさえ、通常の同じ等級の客船の3倍の金額であり、スイートルームに至っては、下級官吏の年収に相当すると言われている。
 それでも船内は、かろうじて生き延びた貴族達や、新興富裕層の人々で満室だという。
 エルフリーデは、義理の叔母と従弟妹達と一緒にエレベーターで最上階の展望室へ行くと、ここでもまた、ちらちらと彼女を見ては、ひそひそと囁き合う人々に遭遇することになった。
 結婚して2ヶ月。もうかなり慣れたつもりだったが、やはりいい気分ではない。
 それでも、この船に乗るような人々はさすがに客質がいいというのか、先日の街中でのように、隠し撮りしたり、露骨に指を指すような輩はいなかった。
 トリスタンは、ブリュンヒルトと並列して、展望室の斜め前方に優美な船体を停留させていた。
 ふとエルフリーデは、あの艦の乗って、あの男が艦隊を指揮する姿を見たいと思った。当然、それは無理な話であるから、あくまでも心の奥底で少し思っただけのことである。
 展望室では、従弟のマルティンが、仲良くなった同じ年頃の少年としきりに戦艦の知識を披露し合っている。
 エルフリーデは、恐る恐る近づいてきた数名の人々の要請に快く応じ、一緒にカメラに収まった。
 一般人にサインや写真撮影を求められたら、可能な限り愛想よく応じること。
 これもスポンサー企業との契約の一つだった。
 少し疲れた様子のエルフリーデに気付いたゴットルプ子爵夫人は、下のラウンジに行ってみましょうかと誘った。
 エルフリーデが同意すると、叔母は、子供達を使用人の女性に頼んで、義理の姪を促し、すぐ下のスイート客室の乗客のみ使用可能なラウンジに入っていった。
 ラウンジは、新無憂宮の一室を模した重厚な内装で、帝国貴族のクラブハウスさながらの雰囲気だった。
 中央のグランドピアノが、自動演奏で静かな曲を奏でている。
 客はまばらだったが、今度は誰一人エルフリーデに気に留める者はいない。それが一番有難かった。
 エルフリーデと子爵夫人は、少し奥の目立たない席に落ち着くと、ウエイターにフルーツジュースと適当な軽食を注文した。
「ええっ? ここの料金もチケット代に含まれているのー? すっごーい! じゃ、私、レモンパイとチョコレートアイスクリームも頼んじゃおうかな」
 突然、甲高い若い女の声が聴こえ、エルフリーデ達は、思わず声のする方向を振り返った。
 見れば、一番広いボックス席に、なんと先日のツェルプスト子爵の側室の女と、その両親らしい中年の男女が陣取っている。
「よし! じゃあ、ワシには410年物の白を持ってきてもらおうか」
 赤ら顔の父親が、横柄な態度でウエイターに言いつけた。
「さすがスイートともなるとサービスが違うわねぇ」
 厚化粧の母親が、やたらに「スイート」の部分を強調して誇らしげに笑った。
 どうやら彼らは、エルフリーデ達の滞在するロイヤルスイートよりワンランク下のヴェルサイユスイートか、その下のジュニアスイートのどこかに泊っているらしい。公職にある子爵本人は、どこかの軍用艦に乗っているはずだが、赤ん坊は、部屋で乳母にでも預けているのだろう。
 エルフリーデは、正妻のフレデリーケのことが気になりつつ、思わず顔を歪めた。
 他の客達も、場違いな親子の態度に、苦々しげだった。
「出ましょうか?」
 先日の顛末を知るゴットルプ子爵夫人が、気を遣って訊いた。
「いえ、大丈夫ですわ。叔母様。せっかく注文したんですもの、食べてからにしましょう」
 エルフリーデは、そう答えると、品のない一家の発する雑音を無視して威儀を正した。こんな人間達の為に自分が予定を変更することが癪に障ってもいた。
「本当に申し訳ございません、伯爵夫人。先日の件といい、一門としてお恥ずかしい限りですわ」
 叔母が声を落として詫びた。
 今は共に「マリーンドルフ家の縁戚」ということになっているツェルプスト子爵家も、ゴットルプ子爵家も、元は同じカストロプ公爵家の一門である。
「そんな…叔母様に謝って頂くつもりなんて…」
 今度はエルフリーデの方が恐縮してしまった。
 あれから、酔いが覚めた子爵が、エルフリーデはともかくとして、ロイエンタールの不興を買ってしまったことを気にして、上司である宮内尚書のベルンハイム男爵や、親族の国務尚書マリーンドルフ伯にまで泣きついたらしい。
 しかし、両尚書とも取り合わず、結局、翌日に子爵家の使者が詫び状と金塊の手土産を持参してロイエンタール邸を訪れた。
 ロイエンタールは、露骨に軽蔑の眼を向けたが、事を大げさにするつもりはなく、自分も酔っていてよく覚えていないと言って詫び状と金塊を突き返し、この件を終わらせた。
 しかし、ツェルプスト子爵に対する元帥夫妻の心証は、これで益々悪くなったのだった。
「私もいけなかったんです。つい感情的になってしまって。父や母が生きていたら、きっと叱られたと思います」
 どんな事情であれ、公式の場で他者と揉め事を起こすという貴婦人にあるまじき行動をとってしまった自分を、エルフリーデは激しく後悔していた。
 同時に、自分をそんな状況に追い込んだツェルプスト子爵と側室の女に、あらためて怒りを覚えていた。
 エルフリーデとゴットルプ子爵夫人は、運ばれてきた飲み物と軽食を静かに食べ終えると、そっと席を立った。
 女と両親は、まだ騒がしく何かをウエイトレスに言いつけている。
 ラウンジを出たエルフリーデ達は、部屋の専属コンシェルジュの案内で、船内の施設をざっと見学することになった。
 レストラン街とショッピングモール、カジノや映画館を備える遊技場等に足を運んでから、子供達のいる展望室へ戻る為、エレベーターに向かった。
 到着ランプが点灯し、開かれたエレベーターのドアから出てきた人物に、エルフリーデは、はっとなって足を止めた。
「フレデリーケ様!」
 ツェルプスト子爵夫人の楚々とした姿が現れた。
「まあ、エルフィー」
 フレデリーケは、エルフリーデに気付くと、憂いを帯びた蒼い瞳を見開いた。
「私は先に展望室に戻ってますわね」
 ゴットルプ子爵夫人が気を利かせてコンシェルジュと2人でエレベーターに乗り込むと、エルフリーデは、フレデリーケを自室に誘った。
 二人は、そのまま廊下を少し歩き、スイート船室直通のエレベータに乗った。
 フレデリーケは、特等船室の一人用の部屋に滞在しているという。
 それを聞いたエルフリーデは、耳を疑った。
 側室がスイートで、何故正妻の彼女がランク下の船室なのか?
「仕方ないのよ。あちらには、生まれたばかりの子供と、両親もいるのだし。その点、私は一人なので、今の部屋で十分よ。そうした方が合理的でしょ? 部屋のランクなんか気にしていないわ」
 言われてみると、確かにその通りなのだが、エルフリーデは釈然としない。側室の女の慎みのない態度を目の当たりにしたせいかもしれない。
「それよりも、新無憂宮では、家の者が大変失礼したとか。私からもお詫び致します」
 ロイヤルスイートの応接室で向かい合ったフレデリーケが、あらためて深く頭を垂れた。その姿が、まるで日陰にひっそりと咲く花のようで、一層哀れだった。
「やめて下さい。フレデリーケ様が謝る必要などありませんわ」
 エルフリーデは、慌ててそれを押しとどめる。
 あんな無礼な女と恥知らずな男の為に、彼女のような女性が膝を折るなど、許せなかった。
 少し前は、フェザーンの先進医療で不妊治療を施せばなどと考えたが、今はむしろあんな夫にさっさと見切りをつけた方が彼女の為とさえ思っている。
 しかし、いざ離婚ということになれば、フレデリーケには帰る家はもうない。
 彼女の実家であるヒルデスハイム伯爵家は、リップシュタット戦役で滅びている。
「私は一人なので」という先程のフレデリーケの言葉が、エルフリーデには痛々しく聴こえる。
 体面を重んじる貴族社会ではあるが、離婚する夫婦が全くいないわけではなかった。
 まして、今や王朝も代わり、フェザーンを併合して帝国全体が新たな価値観を受容しようとしている時である。
 だが、離婚後の生活の目処が立たないことには、安易にそれを口にすることなどできない。
 フレデリーケ自身は、聡明で十分な知性の持ち主だったが、多くの貴族令嬢がそうであるように、実社会で働くのに役立つような教育を受けていない。
 エルフリーデは、今更ながら帝国内に於ける女性の立場の弱さというものに憤りを感じていた。
 しかし、それ以上にエルフリーデは、自分の記憶の中にあった人物像と別人のようになってしまったフレデリーケと子爵に驚いていた。
 フレデリーケが変わってしまったのは、リップシュタットで肉親を全て喪くしてしまったことや側室の出産といった環境の変化にその原因を求めることができたが、子爵の変貌ぶりは尋常ではない。
 きっとあの下品な妾のせいだ。
 そうに違いないとエルフリーデが言うと、フレデリーケは、またあの憂いを湛えた微笑を返しながら、「それは違うわ」と小さく首を振った。
「夫はね、今までずっと我慢して、自分を抑えてきたの。私に気を遣い、私の父に気を遣い、本家筋であるカストロプ家に気を遣い、皇帝陛下の女婿であるブラウンシュバイク公や、リッテンハイム候、政治の実権を握るリヒテンラーデ公に気を遣ってね。それが、突然全てが翻ってしまって、気がつけば、今度は自分が新政権の中枢に近い場所に座ることになって…きっと、何か箍が外れてしまったのでしょう」
 寂しそうに俯くフレデリーケに、エルフリーデはかける言葉が見つからなかった。
 人民から搾取し、巨富を貪っていたと言われる旧王朝の門閥貴族達であるが、一方で飽くなき政争を繰り返しながら、陰謀渦巻く宮廷での保身いう問題と、常に向き合わなければならない立場でもあった。
 特にツェルプスト家のような政権中枢から遠い傍流の貴族は、周囲の権門の機嫌を損ねぬよう四方に気を配らねばならない。
 ツェルプスト子爵も、非主流派貴族の跡取り息子として、十分にそのことを心得ており、決して規を越えないで生き方をしてきたはずだった。
 フレデリーケによると、リップシュタット戦役勃発前、オーディン中の貴族が門閥貴族派につくか、枢軸派につくかの運命の選択を迫られた時、夫に枢軸派につくべきと進言したのは、他ならぬ彼女自身であったという。
 当時はまだ当主であった夫の父は、当初から親族であるマリーンドルフ伯の人柄を信頼し、ヒルダの理路整然とした説得に応じる構えを見せていたが、夫自身は妻の実家であるヒルデスハイム家との間で迷っていた。
 それを、舅の判断を支持し、ヒルデスハイム家を切り捨てるよう夫の背を押したのだと言う。娘には優しい父親だったが、頑迷なヒルデスハイム伯が、枢軸派につくことはないとわかっていたからだ。
「ご自分のお父様やご兄弟を見捨てるご決断をなさったのですか?」
 エルフリーデは、目を見張った。
 フレデリーケは、その問いに、一見平然として「ええ」と頷いた。
 後になって考えてみれば、数ばかり多くても、メルカッツやファーレンハイト等の一部将帥を除いて殆ど素人集団であったリップシュタット連合軍側に、最初から勝機などなかったのだ。しかし、当時渦中にあった人々にとって、その判断を下すのは困難だった。
「私の父に義理立てして、連合側についても、ツェルプスト子爵家が無くなってしまっては、元も子もないでしょう? 私は軍事のことはよくわかりませんが、艦隊戦の指揮が簡単ではないことぐらいわかります。父には、実戦の経験がありませんでした。そんな父が専門家と戦っても勝てるわけがないと思ったの。それに、大義名分という点でも、当時エルウィン・ヨーゼフ陛下を擁していた枢軸派に味方するのが、ゴールデンバウム皇室の藩屏としての道理だと思ったわ。私にとっても、辛い判断でしたけど、結果的には、正解でしたわ」
 しかし、そこまで割り切って下した決断であるにも関わらず、やはり今でも父や兄弟達を直接砲撃したミッターマイヤーと顔を合わせることができないのは、自分の弱さなのだろうと、彼女はまた、翳りのある微笑を浮かべる。
 フレデリーケとは、スケートクラブの先輩後輩として知り合った。
 自身もスポーツをやっていただけに、精神論だけでは勝てないということを彼女は経験としてわかっているのだろう。だからこそ英断を下すことができたのだ。
 ノービスクラス(12歳以下)のジャッジ資格も有するフレデリーケは、公正且つ客観的な審判として関係者の間では知られていた。
 微妙な判定になった場合、暗黙の了解として家柄の良い方の選手が上位に来るよう調整がなされるのが常の世界で、彼女の採点は、選手の出自にとらわれなかった。エルフリーデも一度小さな競技会で、彼女に辛い点をつけられたことがあった。
 だが、不思議と嫌な気持ちにはならず、それどころか、以来、フレデリーケに対して強い信頼を寄せるようになったのだ。その気持ちは今でも変わっていない。
 この女性は、優しく思いやりがあるだけでなく、いざとなれば情に流されない冷徹さも兼ね備えた賢い人物であることをエルフリーデは理解したのだ。
 もし、彼女が当主だったら、ヒルデスハイム伯爵家は滅びることはなかっただろう。
 それどころか、今のマリーンドルフ伯爵家同様の隆盛を誇っていたかもしれない。
 この人は、涙を呑んで、父や兄弟より夫を選んだのだ。
 エルフリーデは、そう思った。
 そして、結果的に彼女の判断は正しかった。ツェルプスト子爵家は、家門を安堵されただけでなく、夫は一気に新政権の中枢に登った。
 だが、皮肉にもそれが彼女の妻としての平穏な生活を脅かすことになってしまったとは、聞いていて何ともやりきれない気持ちだった。
 フレデリーケに助けられたはずの夫は、彼女を裏切ったのだ。
 フレデリーケによると、リップシュタット戦役以前の自分達夫婦は、子宝に恵まれない以外は、特にこれといった問題もなく、上手くいっていたという。
 当時の夫は、弟が3人もいることもあり、後継ぎを欲しがってはおらず、逆にフレデリーケの方が懐妊の兆しのないことを気にして、一度2人で病院で診てもらおうと提案したことがあった。
 だが夫が、「子供などいなければいないで構わない。弟達もいるし、子爵家を継ぎたい親族など腐るほどいるので、継嗣には困らないよ」と言いきったので、話はそこまでとなってしまった。
 合理主義的な精神の持ち主であるフレデリーケは、原因が自分にあるなら、身を引いて実家に戻るなり、治療を受けるなりする覚悟はあったが、気の小さい夫は、診断結果が自分に原因有とされることを恐れたようだった。
 根拠のない貴族の優位性が信じられていた旧社会の非科学的な復古主義に基づけば、生殖能力の高い人間の方が遺伝子的に優れているというのが建前だった。
 ゴールデンバウム王朝の歴代皇帝の中には、子孫を残さなかった名君もいたにも関わらず、それらの事実は無視されて、帝国の世間一般に不妊を恥じる風潮が存在していた。
 それでもフレデリーケは、夫自身が嫌がることを無理に奨めるようなことはせず、時代はリップシュタット戦役を迎える。
 政変後の望外の幸運は、次第に夫の人格を変えていった。と、フレデリーケは振り返る。
 戦役終結後間もなく、親族の一人が、家督を継いだ夫に側室を奨めてきた。
 とはいえ、子爵は最初から側室の女にご執心だったわけではない。
 仲立ちをした親族も、「人助けだと思って」と言ってきたという。
 下級貴族の娘で、リップシュタット戦役で仕えていたリッテンハイム一門の主筋が滅びた為、一家で困窮しているのだという。
 子爵は、フレデリーケの了解の下、側室とした娘を別邸に囲う。
 娘は、エルフリーデも見て知っている通り、格別美しいわけでもなく、無教養丸出しで、子爵の好みのタイプでもなかったらしい。
 フレデリーケがそう言うのだから、嫉妬心からではなく、事実なのだろうとエルフリーデも思った。
 ところが、僅か半年後に、娘が懐妊したことにより事態は急変する。
 タナボタ式に新政権で高官の地位に就いた夫は、次第に自分は勝者側の人間なのだという意識が強くなり、慢心するようになっていった。
 子爵の中で、今まで無意識に働いていた自制心が、急激な立場の変化が引き金となり、一気に瓦解していったのもこの時期だったとフレデリーケは振り返る。
 同時に、側室の懐妊により、今まで子供ができなかった原因が自分ではないことを確信すると、身寄りのなくなったフレデリーケをあからさまに疎んじるようになった。
 更に、懐妊しているのが男児と判ると、側室の娘を郊外の別邸から下屋敷へ移し、その親達まで引き取って一緒に住まわせるようになった。
 子爵は、だんだんとフレデリーケや両親の住む上屋敷に帰ることが少なくなり、下屋敷から出仕するようになっていった。
 そして、女が継嗣の男児を出産すると狂喜乱舞の体で誕生を祝ったのだ。
 その喜び様は、長年子供を特に望んでいなかった男とは別人のようだったという。
 フレデリーケも、子を産めぬ貴族の正妻として、表向きは側室の出産を祝福した。
 夫の変わり様が、これまでどれほど彼が抑圧されて生きてきたかを如実に物語っているようで、かえって哀れに思ったこともあったのかもしれない。
 しかし、増長した側室と、いつの間にか彼女の言いなりになってしまった子爵は、益々フレデリーケに辛く当たるようになる。
 まず子爵は、フレデリーケを気に入っていて、常に彼女の味方である自分の両親を無理矢理別邸に隠居させてしまう。
 更に後継ぎが出来たことで用済みとなった弟達を全員他家と養子縁組させて追い出した。
 そして、遂に、上屋敷で孤立したフレデリーケに、一番狭い中屋敷に移るよう強要すると、側室と生まれた子を上屋敷に迎え入れたのだ。
 完全に夫婦関係が破綻し、名ばかりの正妻となっても、フレデリーケはひたすら耐え忍んだ。自分にはもう帰る場所はないのだと言いきかせて。
 ただし、結局その生活は、大本営のフェザーン移転に伴い、僅か1ヶ月足らずで終焉を迎える。
 フェザーンでは、とりあえず先発部隊に帯同した文官等が手配した官舎に、夫や側室と暫く一緒に暮らすことになるだろうという。
 黙って話を聞いていたいたエルフリーデは、身震いする程の怒りを覚えながら、頭のどこかが冷めた計算を始めた。
「あの…、こう言っては失礼ですが、子爵がそういう態度ならば、いっそ暮らしに不自由しないだけのお金をもらって、別れるという選択肢もあるのではないですか?」
 遠慮がちに訊いたエルフリーデだったが、すでに心の中では、絶対にそうすべきだと思っていた。
 そうだ。そんな男は、あのいかにも頭の軽そうな女にくれてやればいいのだ。
 そうすれば、自由になったフレデリーケにはまだまだ色々な可能性があるはずだ。
 彼女は、あんな男には勿体ないくらい聡明で優れた人格の女性だ。何よりもまだ20代の若さである。これから本当に彼女を理解して愛してくれる素晴らしい男性とめぐり会って人生をやり直すことだって十分可能だ。
 しかし、意気込んで勧めるエルフリーデに、フレデリーケはまたもや静かに首を振った。
「それは、あの人が承知しないでしょう。特に今度のことで、あの子に子爵夫人の役が務まらないことがよくわかったようよ。貴族としてはともかく、新政権の高級官僚として体裁を整える為に、私の存在を必要としているらしいわ」
「そんな勝手な…!」
 エルフリーデは怒りを通り越して絶句した。
 帝国の旧民法では、例外的なケースを除いて、妻側からの離婚請求は認められず、夫が妻以外の女性と関係しても不貞とは見做されないとされていた。
 ローエングラム王朝に代わり、人権の尊重と男女同権を柱にした民法の改正が進められているが、まだ一部しか施行されていない。
 そもそも封建社会で生まれ育った帝国人には、ツェルプスト子爵のケースが、婚姻関係を継続し難い理由に当たるという認識すら生まれない。
 この時点ではエルフリーデもフレデリーケも、そういった旧社会の常識から解放されていなかった。
 それにしても、この2年間で、なんと多くの人々の運命が変わってしまったのだろうと、今更ながらエルフリーデは思う。
 自分もその激流に翻弄された人間の一人だと思っているが、もっと過酷な運命に晒された者達に接する度に、これからの自分の人生をしっかり生きなければという思いを強くするのだった。
 もし、あの政変がなければ、フレデリーケも、夫の醜い部分を知ることなく済んだかもしれない。
 ツェルプスト子爵も、これまで通り身を慎んで、分別のある良識派貴族として、一生を終えたのかもしれない。
 もしかしたら、人間は、土壇場に追い込まれた時にその本質が現れるのかもしれない。
 そう考えると、恐らく、どんな状況下でも決して変わることがないように思える「あの男」は、やはり凡人ではないのだろう。
「エルフィーは、旦那様と仲がよろしくて、よかったわ。先日の園遊会でお会いした時、羨ましく思ったのよ。2年前にコールラウシュ伯爵家のことを知った時から、ずっとあなたのことを心配していたの。何度も連絡をとろうと思っていたのだけど、ヒルデスハイムの娘の私の立場で、そうしていいものか迷っているうちに、時間が経ってしまって…」
 フレデリーケは、申し訳なさそうに言った。
「そんな…私の方こそ、フレデリーケ様がそんなお辛い思いをされているなんて全然知らなくて…」
 エルフリーデは、泣きたいような気持だった。
 幼い少女の頃、介添え役の一人としてフレデリーケの結婚式に出た時から、ずっとエルフリーデの中では彼女は幸せな花嫁だった。
「私のことはもういいの。それより、あなたが幸せで何よりだわ。私は子供にも恵まれなかったけど、あなたには、かわいい赤ちゃんを産んで欲しいと思っているのよ。…あ、ごめんなさい。あなたのお歳では、まだ先の話ですわね」
 フレデリーケが初めて少し明るい声で笑った。
 エルフリーデは、正直に、今妊娠初期の可能性が高いことを告げた。
「まあ!」
 フレデリーケの顔が一瞬、昔の輝きを取り戻したように見えた。
「でも、あまり素直に喜べないんです。喜ばなければいけないとはわかっているんですが…まだ、全然心の準備もできてなくて…あの男、いえ、主人もあまり嬉しくはないみたいで…私達は、愛し合って結婚したわけじゃないので、仕方がないのかもしれませんが…」
「そんなことないわ」
 エルフリーデが声を落として言うと、フレデリーケは、今までにない強い口調で否定した。
「エルフィー、形に捉われて、大切なものを見失ってはダメよ。大事なのは、出会いの形ではなくてよ。…多分、人と人が惹かれ合うのに必要な時間は、あなたが思っているよりもずっと短くてもいいのよ」
 最後の言葉を、フレデリーケはどこか遠い目をして言った。
 エルフリーデは、複雑な思いで憂いを帯びた蒼い瞳を見詰めた。
 そう言えば、フレデリーケとツェルプスト子爵との結婚は、貴族同士の縁組にしては、あまり両家の利害の絡まない当人達の気持を尊重した形の結婚だったはずである。
 仲人に紹介を受けてから婚約し、結婚に至るまでの時間も十分にあったように聞いている。
 少なくとも、一度会ったのみで2週間後に結婚式を挙げてしまった自分とロイエンタールよりもずっと互いを理解し、愛情を確かめ合う時間もあるはずだった。
 にも関わらず、子供に恵まれず、夫婦関係は破綻した。
 一方、自分達は結婚してから全てが始まった。
 まだ、愛と呼べるものかどうかは不確かだったが、少なくとも生涯を共にすると互いに誓った気持ちは本物だと思っている。
 そして、予想外に早く懐妊しようとしている。
「きっと、お2人を大神オーディンが祝福されたのですわ。だから早くお子様が授かったのでしょう」
 フレデリーケは、慈愛のこもった眼差しで、年の離れた後輩を励ました。
「ありがとうございます。そう考えるように致します」
 エルフリーデは、素直に頷いた。
 この人は、自分がこんな目に遭っても他人の幸せを願ってくれるのだ。ならば、私もその気持ちに応えよう。エルフリーデはそう思った。
 2時間ほどでフレデリーケと応接室を出ると、ゴットルプ子爵夫人が子供達と一緒に帰っていた。
 従弟のマルティンは、まだ夢中で戦艦の話をしていて、展望室で仲良くなった同い年の少年とまた会う約束をしたそうだ。
 叔母の子爵夫人によると、一緒にいた少年の母親も感じのいい女性で、歳も同じで、話してみると家族構成もよく似ていた為、こちらも友達になったのだそうだ。
 夫は帝国騎士の司法省の判事で、今回、家族でファミリータイプの一等船室に滞在しているのだと言う。
 そこで早速、次回の巡航航行中に叔父を呼び寄せ、両家の家族で食事をすることになったそうだ。勿論、エルフリーデも一緒にと言われたので、付き合うことになった。
 叔父のエドアルドもそうだが、この叔母も相手の身分に関係なく誰とでもすぐに仲良くなってしまう。少し人見知りする性質のエルフリーデには、それが少し羨ましかった。


 9月27日、エルフリーデは、船内の診療室で診察を受け、妊娠5週3日であることを告げられる。
 妊娠が確定したことで、同じ部屋に宿泊するゴットルプ一家は歓びに沸いた。
 外部への正式発表は、安定する7、8週目あたりに行うことになるが、真っ先にロイエンタールに知らせるよう叔母がせっついた。
 叔母自身も、最近持ち始めた自分用の端末で、叔父にメールを打ってる。
 エルフリーデは、何と言って伝えるべきか迷い、何度も打ち直しては消してを繰り返していたが、結局最後は要件のみ伝えるだけの味もそっけもない文面を送信することになった。

 妊娠していることが確定しました。
 今5週目です。出産予定は来年5月下旬です。


 我ながら芸がないと思いながらも、エルフリーデは、あのロイエンタールに対して他に言葉が思いつかなかった。
 二等船室で同行しているロイエンタール邸の使用人達と、フレデリーケにも知らせると、すぐに部屋にやって来て祝福してくれた。
 叔母が、FTLを予約し、オーディンの邸とフェザーンへ先行するシュヴァイツァー夫人等にも知らせる手配をテキパキと済ませている。
 ロイエンタールからは、送信して20分後に返信があった。

 次の停泊時間にそちらへ行く。

 他に何かないのかと言いたくなるような文面に、エルフリーデは少しムッとしたが、それでも即座に会いに来る気持ちになったということで我慢することにした。
 叔母は、この船内で知り合って、すっかり家族ぐるみの付き合いをはじめている一家にも知らせると、すぐに花束を抱えて家族でやって来た。
 息子達が友達になったのが切っ掛けで親しくなったこの帝国騎士の家族とは、まだ乳児の下の子を除けば、母親同士も父親同士も気が合うらしく、航行中はずっと親交を深めていった。
 親達と長男の年齢も偶然同じなら、夫の方が入り婿だという内情まで共通していた。
「私も帝国騎士の家の三男坊で、いわば部屋住みの居候の身でした。軍人だった妻の父と兄が相次いで戦死したので、妻の家を継ぐことになったんです。昔なら、子爵様と友人になれるような身分じゃなかったんですが、いい時代になりました」
 そう言って屈託なく笑う誠実そうな若い法曹家に、叔父も如才なく応じていた。
「いやいや、それを言うなら、私の方こそ庶子なんで似たり寄ったりですよ。兄が情け深い人だったので、伯爵家の籍に入れてもらって、婿養子の口の世話までしてくれたんです。だから、どうか気楽にお付き合い下さい」
 2人の男は、そんな会話を交わしながら黒ビールで乾杯した。
 一家は当初、エルフリーデを見て驚き、主人が「まさかあの伯爵夫人のご親族とは存じませんでした」と言って恐縮した。
 しかし、付き合ううちに緊張も解け、互いに気にしなくなっていった。
 夫人の方は、物静かな美女で、養子である夫を立てる良妻賢母といった感じの女性だったが、なぜかエルフリーデとは一度もまともに目を合わせようとしない。
 当初は偶然かと思ったが、食事をしていても、ティールームで会話している時も、明らかにエルフリーデを避けている。かと言って、嫌っているとかではないらしく、話しかければ丁寧に応じてくれるので、エルフリーデもその件を深く考えないことにした。
 翌28日、エルフリーデは、船内の広間で定期的に開かれるパーティーに顔を出し、予てから依頼されていた企業の写真撮影とインタビュー収録を行う予定だった。
 膝下丈のシンプルなデザインのドレスを着たエルフリーデは、いつもよりヒールの低い靴を履いて、一人で会場へ向かった。
 彼女一人が支度に時間がかかってしまったので、叔母達は先に行っている。
 船の構造上、スイート客室のフロアから、パーティールームのある階までは直通エレベータが止まらず、一階上で降りてエレベーターを乗り換える必要があった。
 エルフリーデは、なかなか来ない乗り換え用のエレベーターを待っていると、ふと横の階段が目に入った。
 一階くらいならこちらの方が早い。
 エルフリーデがそう思って、階段を一段降りよとした瞬間、いきなり後から身体を押す力が加わった。
 悲鳴を上げる間もなく、エルフリーデは階段を滑り落ち、踊り場でうつ伏せに気を失っていた。
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