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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(30)
 検査を終えたエルフリーデは、一般病棟の特別室に入院中のシャフハウゼン前子爵夫人を見舞うため、関係者専用の通路を通って病室に向った。
『妊娠の可能性・・・』
 検査結果を伝える女医の言葉が頭から離れず、案内役の係員に先導されて歩みを進めていく途中も、どこをどう通ったのか、病室の前に着いた時には記憶がないくらい狼狽していた。
 結婚し、夫婦生活を営みながらも、エルフリーデの人生設計には、妊娠や出産といったイベントが、全く描かれていなかった。
 考えてみれば、確かに何時妊娠してもおかしくない状況だったのだが、交際期間も経ぬまま唐突に結婚してしまい、人妻になった自覚も育たないうちに突然妊娠を告げられても実感が湧かないのは無理もなかった。
『まだはっきりしたわけじゃないわ』
 エルフリーデは、「このまま知らずに流れてしまう場合も」という女医の言葉に、僅かに救いを見出した。
 門閥貴族の結婚の目的は、相手に恋情があろうがなかろうが、皆、子孫繁栄に帰結する。とは言え、まだ16歳のエルフリーデには、いずれ自分も子供を持つことになるだろうとは、漠然と思っていても、それはまだずっと未来に訪れるはずのものだった。
『ダメよ。そんなこと考えちゃ。しっかりしなくちゃ』
 エルフリーデは、弱気になって現実から目を背けそうになる自分を叱咤した。
『私は伯爵夫人なのよ。結婚して、帝国元帥の夫の子供を産むのよ。少し前なら大手柄だわ。ちゃんとしなくちゃ・・・』
 旧王朝下では、後宮の寵姫や、若くして嫁いだ貴婦人が、15、6歳で妊娠するのは決して珍しいことではなかった。いずれも、生まれた子は一門に繁栄を齎すとして祝福されるのだ。新王朝に変わり、後宮制度が廃止されても、青少年福祉の概念が浸透していない帝国社会では、早い懐妊は無条件で目出度いこととされていた。
 ならば、自分の懐妊も慶ばしいことのはずだ。しっかり体調を整えて、立派な子を産まなければならない。そう思い直してみて、ふとまた不安が過ぎる。
 あの男は、どう思うかしら?
 エルフリーデは、漸く心が通い始めた夫の端然とした姿を思い浮かべた。
 ロイエンタールとは、子供について話題にしたことは一度もないが、なぜか彼が自分以上に、親になることが想定外でいるような気がしていた。
「伯爵夫人?」
 病室のドアの前に立ったまま動かないエルフリーデに、係の女性が怪訝な顔を向ける。
 エルフリーデは、その声に我に返るとドアを開けて入室した。
「まあまあ、伯爵夫人。よく来て下さいました。さあ、どうぞこちらへ。もっと近くにいらして」
 73歳になるシャフハウゼン子爵の母は、満面の笑みでエルフリーデを迎えた。
「お加減はいかがですか? おばあさま」
 エルフリーデは、それでも毎日サビーネを見舞っている今の自分の立場を考慮し、ドアより数歩進んで足を止めると、持ってきた花束を付き添いの看護師に手渡した。
「お陰様で最近は大分気分がよくなりました。ああ、そんなところにお立ちにならずに、どうぞ、ここへお掛け下さい」
 前子爵夫人が、穏やかに微笑しながらベッド脇の椅子を勧めると、エルフリーデは「よろしいのですか?」と再度確認した。
 サビーネの罹っている病気は、この数日の経験からも、まず空気感染はしないと自身では確信していたが、実情を知らない他人は簡単に信じることはできないだろうと思われた。何より、彼女には全面的に好意を示してくれるこの老婦人が、本来は頑固で保守的な典型的な帝国貴族であることを知っているからである。
 だが、夫人は、エルフリーデの気遣いに感謝しつつ、一笑に伏した。
「ほほほ・・・もう、この歳になれば、怖いものなんてありません。仮に何があっても、それが私の寿命ですよ」
 夫人がそう言って再度促すと、エルフリーデも勧めに従って、優雅な所作で椅子に腰を降ろした。
 老婦人は、傍に控えているもう1人の付き添いの女性に、紅茶と昨日の見舞いに貰った高級菓子店のケーキを出すよう命じると、皺の多い両手で、エルフリーデの白く瑞々しい右手を強く握りしめ、青い瞳をじっと見詰めた。
「この度のこと、ご心痛、お察し申し上げます」
 サビーネのニュースを知っての言葉だった。
 エルフリーデは、黙ってもう一方の手を老婦人の手に重ね、感謝の意を表した。
「もうすぐ、フェザーンへ行かれてしまうのですね・・・」
 老婦人が、寂しそうにぽつりと言う。
「ええ。でも、これからは、民間船の往来も以前より活発になって、便も3倍くらいに増えるそうですわ。だから、おばあさまも、早くお元気になられて、遊びにいらして。あちらにはハッセルバック男爵ご一家もいらっしゃるのですし」
 エルフリーデが励ますと、老婦人は薄っすらと涙を浮かべて感激した。
「ええ、ええ。そうですとも。私も、伯爵夫人のお子様をこの手に抱かせていただくまでは、まだまだ死ねませんよ」
 そう言って、笑顔を作ろうとする老婦人の言葉に、妊娠の可能性を告げられたばかりのエルフリーデは、一瞬ドキリとした。
 老婦人は、そんな彼女の動揺には気づかず、しきりに間近に迫った別れを惜しんだ。
 きれいに結い上げられたクリーム色の髪を愛しそうに撫でられ、すべらかな白い頬の感触を確かめるように触れられると、エルフリーデも久しく忘れていた肉親の温もりを思い出した。
 この夫人は、権門出の高貴な血筋であるエルフリーデに、「おばあさま」と呼ばれることを事の外悦んだ。
 母親代わりに面倒を見てくれた子爵夫人のドロテアとは、実の母娘のように仲がよく、子爵家で世話になっていた時、エルフリーデも、この義理の親子を羨ましく思った程だった。そして、孤児となった自分も、いつか結婚したら再び母と呼べる存在に出会えることを密かに夢見ていたものだった。
 それが、ごく最近、シュヴァイツァー夫人から、今のようになるまでには、長い年月を要し、ドロテアの並々ならぬ努力があったことが明かされた。
 今から15年前、家督を継いだばかりの現シャフハウゼン子爵が、裕福な実業家の娘とはいえ、平民のドロテアと結婚したいと言い出した時、母親である目の前の老婦人は、卒倒せんばかりにショックを受け、大反対したという。
 ドロテアが、善良で気立ての良い娘であることは認めつつも、旧社会の価値観の中で育った貴夫人には、爵位を持つ者が、平民を正妻に迎えるなどとは、到底受け入れられないことだった。それでも、当時の夫人は、息子の熱意にほだされ、「そこまで言うなら側室に」と譲歩した。
 しかし、普段大人しく、滅多に親に逆らわない息子が、この時ばかりは頑なにそれを拒否し、あくまでも正式な妻として迎えることに拘った。
 そこで夫人は再び譲歩し、ならば家柄のつり合う然るべき貴族の家の養女としてと提案したが、息子はそれも拒否し、母親を激怒させた。
 結婚は、同じ身分の者同士で行なうのが慣例の旧社会だったが、実際には、身分違いの結婚は皆無ではなかった。
 シャフハウゼン子爵のように、女性側の身分が低い場合、知人や親族の爵位持ちの貴族に頼んで、その家の娘として典礼省に届けるというのが昔からの慣わしでもあった。その際、養女となった娘は、平民である生家とは、その後一切縁を切り、結婚後の交流を持たないことが不文律となっていた。冠婚葬祭の付き合いは言うに及ばず、産みの親の死に目にも会えないことを意味していた。実の両親や親族達に愛着の深いドロテアは、そのことがネックになり、一時は子爵との結婚を諦めようとした。
 しかし、心優しい子爵は、そんなドロテアの心を思い遣り、「ならば平民のままで構わないから結婚しよう」と言ってくれた。
 その言葉通り、彼はこの結婚を認めさせる為に、典礼省の役人に財産を半減させる程の多額の賄賂をばら撒き、無事思い人を正妻にしたのだった。
 しかし、これで大団円というわけにはいかなかった。
「これでシャフハウゼン子爵家の純血は絶えました。私の息子の代で平民の血が入るとは、亡き主人にもご先祖にも顔向けができません」
 と言って、暫く別邸に閉じ篭もってしまった子爵の母の嘆きは相当なもので、平民の身分のまま子爵夫人となったドロテアに対し怒りは収まらず、ことある毎に辛く当たったという。
 ドロテアが、夫の母へ敬意を込めて「お義母様」と呼ぶと、柳眉を吊り上げて、「平民の娘にお母様などと呼ばれる謂れはありません」と言って強く拒絶した。
 以来、仕方なくドロテアは、姑を「大奥様」と呼び、一緒に食卓を囲むことさえ許されぬまま、数年が過ぎていった。
 しかし、ドロテアの裏表のない誠実な人柄は、次第に義理の母の心を溶かしていった。
 常に自分を庇ってくれる夫の愛情に応える為にも、義母に気に入られる為の努力を惜しまなかった。
 義母が病気になれば献身的に看病し、子爵夫人として社交界の付き合いも平民出身とは思えないくらい卒なくこなして夫を助けた。
 その甲斐あってか、姑の態度も徐々に軟化し、年子で産んだ2人の男児が揃って健康で利発であったことも幸いして、何時しか自然とドロテアの姑に対する呼称が、「大奥様」から「お義母様」に変わっていた。
 そして時が流れ、彼女が当時の皇帝の第一の寵姫、グリューネワルト伯爵夫人と親友になったことから、内戦で多くの貴族が特権や財産を失う中、シャフハウゼン子爵家が、ほぼ無傷で残るに至って、一門の誰もが頭の上がらない存在になっていた。
 更に新王朝に代わり、ハッセルバック男爵家に養子に出した姑にとって次男に当たる息子までが、ドロテアの縁で新皇帝の侍従長に抜擢される栄誉に預かると、ドロテアの子爵家に於いての立場は磐石となった。
 ドロテア自身は、決して計算からアンネローゼと友達になったわけではなかったが、結果的に彼女の身分よりも当人の人柄で友人を選んだことが、幸運を齎したと言えた。
 だが、それでも半世紀以上旧体制の中で生きてきた老婦人にとって、宰相一族であり、ゴールデンバウム皇室とも縁の深いエルフリーデの存在は特別だった。
 500年に渡る貴族制度の中で、明文化こそされていないものの、父系母系どちらを辿ってもオーディンの門閥貴族の全てと近縁遠縁に関わらず血縁関係にあることが純血種の貴族の証とされ、狭義の意味での“門閥貴族”として定義されていた。それが、辺境領主や近代になって爵位を金で買った広義の意味での“貴族”との明確な差別化だった。
 政争を繰り広げながらも一方で、彼らの血の結束は固く、それ故、貴族平民を問わず非門閥の人間に対して排他的だった。
 エルフリーデとサビーネも、5代前に共通の祖先がいる。
 故に、権力闘争と無縁な子供達は、同じ門閥貴族の友人に対して、時に姉妹のような感覚を持つことがあった。
 彼女達は、たとえ血縁が遠くても、学校の先輩を「お姉様」と呼び、結婚すると同じ門閥貴族出の姑に対して抵抗なく「お母様」と呼べるのだ。
 ロイエンタールの母親が生きていれば、エルフリーデは躊躇なく彼女を母と呼んだことだろう。名門マールバッハ伯爵家の娘であるレオノラの家系を辿れば、きっとどこかで血が繋がるはずだった。
 しかし、金銀妖瞳の乳児の目を抉ろうとしたレオノラは、果たして同じ伯爵家から嫁いできた息子の嫁に、どう接しただろうか?
 エルフリーデは、そんな感慨に耽りながら前子爵夫人の病室を後にすると、真っ直ぐに日課となっているサビーネのいる特別病棟へ向った。
 部屋に入ると、いつものようにカルツ夫人と、異母姉のヘレーネが迎えてくれた。
 エルフリーデは、2人の様子から、サビーネの症状に特に変化がなさそうなことを感じて安堵すると、着替えと消毒を済ませて病室に入る。
 この日のサビーネは、かなり体調が良いらしく、瞳に幾らか精気が感じられ、ベッドで上体を起こしていた。
「ごきげんよう、サビーネ。今日は顔色がいいわね」
 カルツ夫人が気を利かせて出ていくと、サビーネと2人きりになった病室で、エルフリーデは昔と同じ口調で友に話しかけた。
 脳まで菌に侵食されているというサビーネは、カルツ夫人以外の人間を識別できているか定かでないという。エルフリーデは、それでも根気よくサビーネの手を握り締めながら会話を続けた。殆ど気休めにしかならないが、そうすることで、少しでも脳に刺激を与え、奇跡的に回復に向うこともあるかもしれないと、医師から説明を受けたからだった。
 だが、必死に2年前の自分を演じて目を合わせようとするエルフリーデの視線を通り越し、サビーネの濁った瞳は、別の部分に注がれていた。
 気づくと、サビーネの右手の指が、エルフリーデの左薬指に輝くプラチナの輪をなぞっている。
 エルフリーデは、はっとなって自分の指とサビーネとを交互に視線を動かした。
 サビーネは、何か言いたいことがあるのか、しきりに口を動かしているが、声にならない。
『サビーネは、わかっている・・・! 私のこともわかっているんだわ』
 エルフリーデは、その仕草で全てを理解した。
 自分も周囲も、どこかでサビーネが、この2年の忌まわしい記憶の一切を失っていると思い込みたかったのかもしれない。
 だが、脳を細菌に侵され、酷い言語障害を併発しつつも、サビーネが断片的にでも自分の身に起こったことを記憶しているらしいことが、エルフリーデには何故か確信できた。
「サビーネ・・・」
 エルフリーデは、堪らずに友の肩を抱きしめた。
 その時、耳元で微かにサビーネの声が聴こえた。
「・・・エ・・ル・・・」
 エルフリーデは、必死に耳を凝らし、続きの言葉を聴き取ろうとした。
「し・・・ぁ・・わ・・・の?」
 不明瞭な言葉ながら、サビーネが自分のことを案じ、今幸せかと問うていることが理解できた。
 エルフリーデの脳裏を、金銀妖瞳の美丈夫の姿が霞めた。
「ええ・・・ええ、サビーネ。私、幸せよ。だから・・・だから・・・あなたも・・・」
 エルフリーデは、一瞬の躊躇いの後、はっきりとそう言って、もう一度強くサビーネを抱きしめた。
 そうだ・・・私は幸せなんだ・・・サビーネが、こんな酷い目に遭ったのに・・・エーリッヒ様が、処刑されたのに・・・お父様やお母様が、あんな無残な死に方をしたのに・・・それなのに、私は幸せなんだ・・・
 名伏し難い複雑な思いが入り混じっていたが、エルフリーデは、涙で頬を濡らしながらはっきりとした口調で言った。
 そっと身を離すと、サビーネが、穏やかな表情で見詰めている。
 エルフリーデには、それが少し微笑んでいるように見えた。
 そしてこれが、エルフリーデが見た生きているサビーネの最後の姿だった。


 同時刻、統帥本部のオフィスで、ロイエンタールは自身の端末に送信されてきた病院からの報告に、言葉を失っていた。

―――初期妊娠(2週目〜3週目)の可能性有。

 届いたのは、エルフリーデの渡航前検診の結果だった。
 本来、家族間であっても、プライバシーの観点から他者へ結果が伝えられることはないが、対象者が未成年で、何らかのチェック項目に引っかかった場合、保護者にのみ報告されることとなっていた。
 エルフリーデの場合、新法で準成人に達する18歳の誕生日まで、夫であるロイエンタールが保護者の役割を担っている。
 山積みされた決済書類の横に、ロイエンタールは何度も検査結果に目を落としながら、暫し物思いに耽っていた。
 1週目〜2週目ということは、確実に先日の新婚旅行の時にできた子供だろう。
 彼は、今の自分の気持ちをどう表現していいのかわからなかった。
 落胆ではなかったが、普通の夫が感じるような慶びとは程遠いものだった。
 こんな時、きっとミッターマイヤーなら手放しで喜ぶのだろう。いや、ミッターマイヤーでなくとも、一般的にこれは喜ぶべきことなのだ。それくらいのことは、彼にも解っていた。
 つい最近まで、彼は人の親になるつもりはなかった。いや、今でもその気持ちに変わりはないと思っている。
 しかし、かと言って、エルフリーデに堕胎を強要する気もなかった。
 第一、正式に結婚した夫婦が、最初にできた子供を堕す理由などない。
 だが、結婚しておきながら、彼はエルフリーデ以上に、自分達に子供ができることを想定していなかった。
 新婚旅行以来、ロイエンタールには、何となく漠然と、このままずっとエルフリーデと2人の蜜月がずっと続いて行くような思いがあった。それが、突如として現れたまだ見ぬ子供の存在によって、断ち切られた格好になり、彼にして見れば舌打ちしたい気持ちが本音だった。
『よりにもよって、この俺に子供だと? そんなに簡単に出来るものなのか・・・?』
 自分の子であることに疑いはないと思いつつも、彼にはどうしても、子供を望みながらも結婚後6年経っても恵まれないミッターマイヤー夫妻と比して、世の不条理を思わずにいられなかった。
 ロイエンタールが、エルフリーデの懐妊を全く想定していなかったのは、彼なりの理由があった。
 その第一は、何と言ってもこの10年間、殆ど彼と同一期間星旅にあるミッターマイヤーに子が出来ないことが大きかった。
 人類が、恒星間航行の技術を開発してから、跳躍が人体の生殖機能に影響を与えることは、長年の技術的課題の一つである。
 現在の技術では、女性の場合、排卵障害による月経周期の乱れと、男性の場合、精子数の減少が一般的に知られている。いずれも一時的なもので、個人差は大きいものの、だいたい地表に降り立ってから早い者で1ヶ月前後、遅くとも半年で男女共に元に戻ると言われている。
 ロイエンタールやミッターマイヤーのような前線での艦隊勤務が続く者は、回復する以前に次の出征に出ることが多い為、若くして不妊の夫婦も結構多い。
 中には、自分の回復周期を調べて計画的に子供を作る者もいたが、ミッターマイヤー夫妻には、この6年間、その時間さえ与えられなかった。
 自分の血を残さない方針だったロイエンタールは、それでも念を入れて、結婚前までは、避妊措置を怠らなかった。その甲斐あってか、関係した女の数が数百人にも上ると言われながらも、彼が捨てた女達が妊娠騒ぎを起こしたことはこれまで一度もなかった。数十分でDNA鑑定が可能なテクノロジーがあり、嘘を吐いても無駄な時代である。
 ロイエンタールは、自分の回復周期を調べたりすることはなかったが、ミッターマイヤー夫妻に出来ない子供が、自分にできるわけがないという根拠のない思い込みが強かったのと、まだ少女体型のエルフリーデの細い身体から、どうしても妊娠を連想できなかったこともある。
 検査報告書には、はっきりと妊娠が確定したとは記載されていない。それが救いでもある。
 フェザーンに到着する4週目以降、向こうの病院での要再検査が指定されている。
 結局、行き場のない感情を持て余したロイエンタールは、この件を直接エルフリーデの口から告げられるまで知らぬ振りをすることで、この問題から逃げた。


 その夜、ロイエンタールは、旅行から帰って初めて妻の寝室を訪ねた。
 検査結果が保護者である夫にも届いていることを知らないエルフリーデは、夫の求めに応じた。
 妊娠が事実なら産む事を決意したものの、エルフリーデは結局、検査結果をロイエンタールに告げることができなかった。
 漸く形創られたばかりの2人の関係が、告げることによって壊れてしまうような気がしていた。自分達にとって、子供はまだ不要だと、身勝手と知りつつ思い込もうとした。
 そして、ロイエンタールもまた、エルフリーデが懐妊の件を一言も告げないことで、内心で安堵しているのだった。
 ロイエンタールは、無意識にエルフリーデの身体の変化を探るように全身を愛撫したが、まだ少女の瑞々しい肢体は、どこまでも細く儚げで、妊っていることなど微塵も感じられない。
 ふと上体を起こすと、エルフリーデが、ロイエンタールの右上腕に薄っすらと残る古傷を左手でなぞっている。以前から気になっていたのだが、ずっと訊きはぐれていたものだった。
 彼女は最近、こうして少しづつ夫の身体に自分から触れるようになった。
 まだぎこちない仕草ではあるが、つい2ヶ月前まで震えながら必死に堪えていた様を思えば、大した進歩だとロイエンタールは密かにほくそえんだ。
「これは、戦傷なの?」
 幾多の白兵戦を経験しながら、ロイエンタールの身体には、傷らしい傷があまり見当たらない。その中で、これは唯一目に留まる痕だった。
「いや、昔、くだらんことで決闘した時のものだ」
 そう言って、自嘲気味に目を伏せる。
 彼の言う決闘とは、ほぼ全て女絡みの私闘だった。その殆どで、彼は無傷で相手は重傷を負って終わる。そんな中で、この傷の相手は、珍しく手応えのある男だった。ただし、この相手も善戦はしたものの、最後にはやはり病院送りとなっていた。
 たった6、7年前のことであるにも関わらず、ロイエンタールには、随分と昔のことに感じられる。今では相手の男の顔も、そもそもの原因となった女のことさえ覚えていない。
「私は、お前の結婚前のことについて何も言うつもりはありません」
 幼さの残る声で、朧気に事情を察したらしいエルフリーデが、彼を見上げて言う。
「でも、今後二度と私以外の女に、このようなことをすることは許しません」
 帝国軍一の漁色家に向って、昂然と言い放つ幼妻の成層圏の青の瞳を、ロイエンタールは不思議な気持ちで見詰めていた。
 一人の女に縛られるなど気が知れないと、かつて彼は蜂蜜色の髪の親友に対して本気で思っていた。
 だが、今はその縛りがひどく心地がいい。
「承知した。伯爵夫人。他にご要望は?」
 ロイエンタールは、上機嫌で幼妻の髪に指を絡めながら問う。
「命を粗末にすることも許しません。これからは、出征しても生きて戻ることを第一に考えなさい」
 お前は父親になるかもしれないのだから。という言葉をエルフリーデは呑み込んで、ロイエンタールの古傷を再びなぞった。
「わかった。仰せに従おう」
 ロイエンタールは、そう応じると同時に、幼妻に身体を重ねる。
 エルフリーデは、夫の重みを感じながら、今、自分が幸福であることを実感していた。それは、同時に心の何処かで鈍い痛みを伴うものだった。
 2年前までのエルフリーデは、自分が幸せであることが当然だった。
 だが、今の彼女は、幸福感を感じる度に、それと同じ分だけの罪悪感が伴う。
 父と母、弟妹のこと、サビーネのこと、エーリッヒのこと、彼らの無残な運命を思うと、なぜ自分だけが幸せでいられるのかがわからない。
 それでもエルフリーデは、次第に内部から侵食される感覚に、胸底の煩擾を忘れさせていった。
 ゆっくりと時間をかけて、静かに燃えながら昇り詰める。
 覚え始めたばかりの恍惚感の中、必死に夫の情熱についていく。
「・・・オ・・スカー・・・」
 無意識に、普段口にしない夫の名を呼びながら、エルフリーデはロイエンタールが果てるのとほぼ同時に絶頂を迎えた。


 翌9月14日、この日の夜、エルフリーデはオーディンでの最後の公務の予定が入っていた。
 新皇帝の命令で、新無憂宮を学芸省の管轄とし、歴史博物館に改装して観光資源として活用する工事が着々と進められていたが、その正式な布告式を兼ねた宮中晩餐会と大舞踏会が今夜開かれる。
 490年の永きに渡り、旧王朝の皇帝の居城だった広大な新無憂宮が、皇宮としての最後の役割を終える儀式である。同時に、旧皇族と門閥貴族が独占していた富の象徴であるこの巨大な建造物群が、臣民に解放される記念すべき日でもあった。
 当初、贅を尽くした晩餐会や貴族的な舞踏会などを嫌ったラインハルトだったが、経済効果を期待する民間の経済団体からの強い要望で実現した。
 前王朝の時のものと明らかに違うのは、帝国歌劇場の改装と同じように、晩餐の手配から式に関わる準備全般を、公正な入札形式で参入した民間企業数社が分担して行なうことと、招待者の身分が平民や下級貴族の関係者にも及んでいること、定位置にテレビカメラが設置されていて、帝国全土に生中継されること、そして、取材用のプレスルームが設けられていることだった。
 しかし、皇帝に妃がいない今、庶民の関心は専ら軍高官や閣僚の夫人達のファッションに集中しており、中でも生粋の貴族令嬢で、一番若いエルフリーデに対する注目度が最も高かった。
 エルフリーデは、朝、夫を見送ると、邸にやって来た先日契約したブランドの担当者達と打ち合わせを行なった。
 スタイリストが、色も雰囲気も異なる5着のドレスを提示すると、お仕着せを覚悟していたエルフリーデの表情が緩んだ。
「当社と致しましては、今秋の流行色の新作をご着用頂きたく集めてみましたが、最終的には奥様ご自身に、気に入ったものを選んで頂きたいと持参致しました」
 担当者が、トルソーに着せた最新のドレスを並べると、エルフリーデも迷う視線を向けた。
 最終的に、侍女達の意見も採り入れ、エルフリーデは、彼女の年齢に合った背伸びをしないものを選んだ。
 ベビーピンク色のシルク地のロングドレスで、肩口にリボンをあしらった可愛らしいデザインの今の彼女にしか着こなせないものだった。
 ドレスに合わせて、ハイヒールとアクセサリーも選ばれた。
 今夜、彼女の身につけるもの全てが、メーカーにとって莫大な宣伝効果を産むはずである。それは、帝国内の経済の活性化にも一役買うこととなるが、この時のエルフリーデには、まだそのことを充分理解できていなかった。
 スタッフ達が、午後3時の再訪を約束して一旦引き上げると、エルフリーデは、早目の昼食を摂り、サビーネの病院へ向った。
 いつものように、専用口から中に入ると、直ぐには通されず、珍しく受付脇の待合室で5分程待たされた。
 常とは異なる様子に、背筋に緊張が走る。悪い予感が過ぎった。ぎゅっと握り締めた拳に汗が滲むのが自分でもわかった。
 間もなくして、面会の許可が下り、エレベータで昇って部屋に入ると、目を真っ赤に腫らしたカルツ夫人とヘレーネがいた。
 その様子に、エルフリーデは、とうとう来るべき時が来たことを察した。
「・・・・先ほど、サビーネは、ヴァルハラへ旅立ちました・・・」
 沈痛な面持ちのヘレーネの口から決定的な事実が告げられると、エルフリーデの青い瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
 カルツ夫人が、堪えきれずに泣き崩れた。
 サビーネの遺体とは、すぐには対面できないことが告げられると、エルフリーデは、思い立って一旦邸に戻ることにした。
 ハンカチで目を押さえながら予定より早く帰宅した女主人に、使用人達も何が起こったのかを薄々察した。
 エルフリーデは、迷わず自室に入ると、先日の荷造りの際に残すことになったウエディングドレスを丁寧に箱に入れて持ち出した。
 再び訪れた病院の応接室で、ヘレーネにそれを渡すと、サビーネの遺体と体面できる時をひたすら待った。
 エルフリーデは、貴族令嬢にしては現実的なものの考え方をするタイプで、あまり信心深い性質ではない。生まれ変わりだとか、前世だとかいったオカルト的なものには昔から懐疑的で、人生は一度きりだと思っていた。ロイエンタールと共に来世を誓った時でさえ、その場の雰囲気に身を任せた感があった。
 しかし、この時ばかりは、心の底からサビーネに幸せな来世があることを願った。
 サビーネも幸福になることができるはずだ。
 でなければ、自分だけでなく、漸く新しい生活に希望を見出して前向きに生きているカタリナやクラリスを始めとする友人達にも、永久に心の平安は訪れない気がしていた。
 30分程待っていると、ヒルダが同年代の女性士官3名と共に現れた。
 対策室の臨時室長に任じられた彼女は、連日の激務の所為か、疲労が色濃く現れていたが、それでも親しい友人を亡くしたエルフリーデを真っ先に気遣ってくれた。
 程なくして、ヘレーネとカルツ夫人が戻って来て、遺体安置室での体面の準備が整ったことを知らせに来た。
 大佐待遇のヒルダに敬礼するヘレーネに、ヒルダは悔やみの言葉を述べると、ヘレーネは、親しい友人でもあったのだろう、一緒にやって来た3名の女性士官と順に無言で抱き合って悲しみを分かち合っていた。
 死に化粧を施され、エルフリーデの花嫁衣裳を着て棺に眠るサビーネは、昔の面影を取り戻していて美しかった。
「よく似合っていてよ。サビーネ」
 今、一つの尊い命が終わりを迎えた。
 友人との最後の別れを惜しんだエルフリーデは、唐突に自分の中に宿っているかもしれない命の声を聴いたような気がした。
『あの男に伝えなければならない。それが私の責任だ』


 翌日の葬儀の時間と場所を確認して邸に戻ったエルフリーデを、契約ブランドから派遣されてきた美容師とスタイリストが待ち構えていた。
 サビーネの死のショックで、今夜の公務のことをすっかり忘れていたエルフリーデは、とてものこと華やかな公式の場で、優雅に微笑むことなどできる心境ではなかった。
 政府の方針で、サビーネの死は火葬が済むまで公表されないことが決まっていた。
 だからこそ、今夜は一人静かに、逝ってしまった友人の死を悼んで過したい。
 エルフリーデは、そう思って、ブランドの担当者に、今宵の式典を欠席したいと伝えた。彼女にしてみれば、それ程深くに考えてのことではなかったが、仰天したスタッフが即座に本社に連絡をとると、20分と待たずに、重役クラスの男と、間に入っているマネージメント会社の社長がやって来た。
 2人のビジネスマン達は、端末に表示された資料を見せながら、エルフリーデが今夜欠席した場合に生ずる損失額と、違約金について懇々と説明をし、何とか思い留まるよう懸命に説得を行なう。
 提示された額は、契約金を遥かに上回り、世間知らずで、一般人とはかけ離れた経済観念を持つエルフリーデでさえ目を見張る程の額だった。
 ここに至って、漸くエルフリーデにも、事の重大さが認識できた。
 そして、安易に契約を反故にしようとした自分の甘さと、責任感の希薄さを恥じていた。
「その違約金、支払っても構わんが?」
 エルフリーデが、欠席を撤回しようとした時、ふいに邸の主の声がした。
 名将の誉れ高い金銀妖瞳の元帥の尊容に、エルフリーデ以外のその場に居た者全員に緊張が走った。
 只ならぬ気配を察した家令が、気を利かせて連絡したのだろう。予定より2時間も早い帰宅だった。
 皮肉を含んだ声で申し出たロイエンタールだったが、エルフリーデが望むなら、彼は本気でこの天文学的な金額を支払うつもりでいた。手持ちの現金や有価証券等、資産の半分くらいを処分すれば、捻出できない金額ではない。
 口が裂けても声に出して言うことはできないが、彼はこの幼妻が可愛くて仕方がなかった。彼女の望みなら、何なりと叶えてやりたい。いったい自分のどこにこのような感情があったのかと、不思議に思う程だ。
 しかし、そんな夫の思惑に反して、エルフリーデは静かに立ち上がると、深々とお辞儀をして、自分の軽率さを素直に詫びた。
「私が浅はかでした。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした、予定通り出席いたしますので、支度をして参ります」
 一同から、ほっと安堵の溜息が漏れた。
 ロイエンタールは、薄く笑って、満足げに目を伏せる。
 エルフリーデは、自室に戻ると、化粧をする前に、侍女に持ってこさせた冷却シートを目に当てて、腫れが引くのを待った。
 今回のことは、エルフリーデが公人としての厳しさを初めて実感した出来事だった。
 私は最早、自分だけの感情のままに生きることが許されないのだ。
 自分の何気ない言動一つが、多くの人の生活に関わってくると思えば、迂闊なことは出来ない。
 そして、それこそが、この激動の時代の中で幸せを掴んだ自分に負わされた責務なのだと決意した。
『また、言いそびれてしまったわ・・・』
 下腹部に手を当てながら、エルフリーデは胸の裡で呟いた。
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