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食うために軍人になった女達 −ハーレクインもどきスピンオフ小説(2)−
『ちょっと、何で私のところに来るのよ。迷惑だわ』
 サビーネの乳母、カルツ夫人が、人目を避けるように、大学の寮で暮らすヘレーネを訪ねて来たのは、昨年の8月、丁度、誘拐されたエルィン・ヨーゼフ2世が自由惑星同盟に亡命し、銀河帝国正統政府が樹立された頃だ。
 折りしも夏休み中で、寮生の殆どが帰省していた為、幸いにも誰とも顔を合わせずに入れたらしい。
 下級貴族の未亡人で、元は宮廷に使える女官だったらしいが、クリスティーナ皇女の降嫁に伴ってリッテンハイム家に入り、以来サビーネの養育を任され、女中頭としてリッテンハイム家の奥向きを取り仕切っていた数少ない忠義者の一人だった。
 その所為か、身なりは落ちぶれても、物腰にどこか品のある50代の中年婦人だった。
 この夫人とは、リッテンハイム家で一度、養女になっていた男爵家でも何度か顔を合わせたことがあったが、親しく会話を交わしたことはなかった。
 サビーネの保護を自分のような平民の一大学生に頼むのは、筋違いというものである。
「男爵夫人・・・!」
 と、ヘレーネに呼びかけるカルツ夫人に対し、ヘレーネはそれを言下に否定した。
「私はもう、元のヘレーネ・シェリングに戻ったの。そんな言われ方は、迷惑だわ。第一、あのまま男爵夫人でいたら、今頃私も収容所送りか、下手したら流刑にでもなっていたかもしれないのよ」
「それは・・・よく存じております」
 彼女がヘレーネを探し当てたのも、その男爵家の線からだったらしく、そちらの事情は承知しているらしい。
「それに、私は今までだって、リッテンハイム候から何の恩恵も受けてないし、娘として正式に認められたわけでもないわ。それどころか、候一家がオーディンを出る際には、ものの見事に見捨てられたのよ。その私に今更助けてくれなんて、虫がいいにも程があるわ。頼むなら、リッテンハイム家がいままで良くしてやった貴族なり官吏なりで、まだ残ってるのがいるでしょう? そういう連中のところにこそ、行くべきじゃない?」
 ヘレーネは、だんだん腹が立ってきた。
 自分は、ずっと平民の、しかもかなり底辺の部類の平民として暮らしてきた。それなのに、今更貴族の揉め事に巻き込まないで欲しい。
 だいたい自分には、人を匿うだけの経済的余裕もない。だから、悪いけど他を当ってくれと再度断った。
 しかし、カルツ夫人によると、利害関係で繋がっていた者達は、信用できないという。連絡をとった途端に憲兵隊にでも密告されてしまっては、全てが水の泡だ。今は、誰が敵で誰が味方かも判らない状況なのだという。
 それなら自分だって同じだとヘレーネが言うと、カルツ夫人はゆっくりと首を振り、強く否定した。
「いいえ、貴女様は、サビーネ様のお姉様でいらっしゃいます」
 これには、ヘレーネも苦笑を禁じえなかった。
 サビーネとは、たった一度顔を合わせただけで、たとえ父親が同じでも、片や皇女を母に持つ皇位継承権保有者、片や平民の元メイドの娘として、姉妹であるよりも主君と臣下として、形だけ忠誠を誓った。
 サビーネも、自分を姉としては見ておらず、大貴族の娘らしい驕慢な態度で上から見下ろし、一言挨拶を交わしたのみである。
 しかし、肝心のゴールデンバウム王朝自体が滅びたとあっては、もう、その忠誠を捧げる必要もない。
「私だって、憲兵隊に通報するかもしれないわよ」
「いいえ、あなた様は、妹君を売るような方ではございますまい」
 ヘレーネは、心にもないことを言って夫人を追い払おうとしたが、カルツ夫人の人間観察力はそれを一笑に伏して否定した。
 さすがに、伊達に20年以上も皇族や大貴族の間を渡り歩いてきたわけではなさそうだ。
「でも、通報というより、そんなに困っているなら、いっそ新政府に保護を求めるのも手じゃない? 聞くところによると、新皇帝は、門閥貴族派に対して、概ね寛大だそうよ。そりゃ、今までのようにはいかないけど、ブラウンシュバイク一門でもリッテンハイム一門でも、暮らしていくのに充分な資産を残して放免された貴族が殆どだと聞いているわ。まして、あの子はまだ15、6歳でしょう? しかも女の子よ。処刑したりして評判を落とすよりは、赦して寛大なところを見せた方が、国民の評判も更に上がるってもんでしょう?」
 ヘレーネが正論を吐くと、カルツ夫人は無念そうに再び首を横に振った。
「それは、私も考えました。ですが、サビーネ様は、他の単なるご一門の方々とは、立場が違います。フリードリッヒ4世陛下のお孫様であり、ゴールデンバウム皇室の皇位継承権を持つお立場です。いまだ発足したばかりで、しかも世継ぎも定まっていない皇帝にとって、存在そのものが脅威と考えるかもしれません。また、こう申しては何ですが、リッテンハイム候の実の娘です。候がガルミッシュ要塞に逃げ込む際の行為に関しては、国民感情もありましょう」
 最後の理由は、ヘレーネにも納得ができた。というより、彼女が周囲に出自を隠している最大の理由もそれだった。
 リッテンハイム候のしたことは、単なる貴族同士の覇権争いの過程で起こった戦闘の結果で済まされる問題ではない。
 よりにもよって、自分の逃走経路を確保する為に、味方を砲撃させるという卑劣極まりない行為は、敵味方両陣営から最大限の侮蔑の言葉を屈指して、非難の的となった。
「でも、新皇帝は、国民からも軍部からも圧倒的な支持を受けているわ。今更サビーネ一人をどうにかするほど狭量ではないでしょう」
「いいえ、新皇帝は、恐ろしい方です。ご自分の意に添わなければ、子供でも平気で処刑するのです」
 カルツ夫人はそう言うと、
「これは、多分報道規制が敷かれているのか、あまり一般には知られていないようなのですが・・・」
 と前置きしてから、驚くべき事実を語った。
 実は、夫人がサビーネと共に、正体を隠し、民間船を何度も乗り継いでオーディンを目指していた時、当初頼るつもりだったのは、ヘレーネではなく、リッテンハイム候夫妻とも仲が良く、リヒテンラーデ公の一門に婿入りしていた候の従弟の子爵だった。
 ところが、オーディンに戻ってみると、子爵家はなく、しかも、子爵本人と一緒に、サビーネより3歳年下の当時まだ11歳だった令息までが、ローエングラム候暗殺未遂事件の共犯として処刑されたことを知った。
 子爵夫人の方は、死一等を減ぜられ、まだ幼児の下の息子と一緒に、辺境惑星へ流刑に処されているとのことだった。
 15歳のサビーネも、女とはいえ、リッテンハイム候の娘として、フリードリッヒ4世の孫として、新皇帝の私刑的処断で、秘密裏に処刑されないとも限らない。カルツ夫人はそう主張した。
 これにはさすがに、ヘレーネも押し黙ってしまった。
 実際には、この時点でのラインハルトには、もう連座制など適用する意思はなく、むしろ絶対権力を持つ独裁者として、感情的処断を下すことには、充分自制が働いていたのだったが、彼女等にはその事を知りようもなかった。
 結局ヘレーネは、自分のお人よし加減に自分で呆れつつも、カルツ夫人に同行して、サビーネが身を隠しているという郊外の隠れ家へと向った。
 無人路線バスを乗り継ぐこと三時間、田園風景の広がる小さな町の片隅に建つその家は、カルツ夫人の生家が所有していたもので、もう何十年も空き家になっていたものを大急ぎで清掃し、何とか一時凌ぎで住めるようにしているとのことだった。
 自分の留守中のサビーネの世話は、看護師の経験があるという近所の人のいい夫人に頼んでいるらしい。
 ヘレーネが、他人にサビーネを見せて大丈夫なのか?と問うと、カルツ夫人は、苦しげな表情で目を伏せ、「その心配はございません」とだけ言って、首を振った。
 ヘレーネは、尚も疑問が残ったが、このいい意味で抜け目のなさそうな夫人の言うことだから間違いないだろうと思い、それ以上は問わなかった。


「これ、本当にサビーネなの?」
 ヘレーネは、世話をしていた近所の夫人が家を出た瞬間、カルツ夫人に問い質した。
 粗末な寝椅子に横たわるサビーネは、3年前に一度会った時の面影がまるでなかった。 髪が短くなっているのはともかくとして、青く快活に輝いていた瞳は、白濁して焦点が定まらず、白くすべらかだった肌も、青黒くくすんでいる。
 身体中の皮膚が爛れ、全身をかきむしると色素沈着ができ、顔色が悪いのはその為だという。
 何より、精神に異常をきたしているらしいことは明らかで、ヘレーネを見ても全く無反応で、言葉も明瞭でない。
 確かにこれでは、誰もサビーネとは判らないだろう。
 しかし、かと言って、設備の整った大病院に連れて行けば、偽の身分証明書を用意しなければならず、リスクも大きい。上手く誤魔化せたとしても、人目につけばどこで誰が見ているか判らず、憲兵隊に密告されるかもしれない。
 その時、サビーネがほんの僅か、こちらを見て笑った。
 カルツ夫人によると、今のサビーネは、心が赤子に戻ってしまっているので、身分のことも全くわからないのだそうだ。いつも世話をしてくれるカルツ夫人のことを親と思っているのかもしれないし、ヘレーネのことも友人だと思っているのかもしれないという。
「いったい、なぜ、こんなことに?」
 ヘレーネは、着いた時からの疑問を遂に声に出した。
 カルツ夫人は、リップシュタット戦役敗戦後のサビーネとその母クリスティーナ侯妃の身に起こったことを、淡々と話し始めた。
 夫人によると、オーディンを脱出したリップシュタット軍の主だった貴族達は、非戦闘員の女子供を枢軸派の手の届き難い辺境領地へ非難させた。
 サビーネ母子も、リッテンハイム家の領地惑星の一つに逃げ込み、惑星内の首都郊外の邸に、警備の私兵数百名と、カルツ夫人が束ねる侍女達や料理人等とと共に引篭もっていた。
 当初、彼等は主人の家族に対して忠実で、金髪の孺子率いる簒奪者どもから、お妃様とお姫様をお守りすると言って士気は高かった。
 その雰囲気が一変したのは、リッテンハイム候のガルミッシュ要塞での爆死の報と、次いで入ってきた情報で、要塞に逃げ込む為に味方の補給部隊を砲撃させたというニュースが伝わってきた頃からだった。
 まず、城外の領民が叛乱を起こし、武器をとって城へ攻め入った。
 彼らの家族の中には、徴兵され、砲撃された補給部隊に所属していた者もいたので、リッテンハイム候への憎しみは瞬く間に伝播し、その憎悪の対象は、候の家族にまで及んだ。
「俺たちは、何の為にリッテンハイム候に忠誠を尽くす?」
「ローエングラム候が勝利すれば、もうこのゴールデンバウム王朝の貴族制度そのものがなくなる。こんな奴等を守る為に無駄に命を棄てるのはバカバカしい」
「そうだ!そうだ!俺たちから吸上げた税金で、贅沢してのうのうと暮らしてやがるあの母子を殺せ!」
「俺の息子は徴兵で遂に帰らなかった。なのにあいつ等は・・・」
「殺せ!殺せ! 貴族を皆殺しにしろ!」
 一度たがが外れてしまった民衆は、完全に理性を失い暴徒化し、数の優位であっと言う間に首都を占領すると、候の館に迫った。
 それでも当初、兵士たちは懸命に暴徒と化した民衆を何とか追い払おうと奮戦していた。
 しかし、私兵とはいえ、元々は暴徒達と変わらない平民が殆どである。
「卿等は、このまま卑劣なリッテンハイムに忠義を尽くして、何を得られるというのか?間もなくローエングラム軍がここにもやってくるぞ。そうすれば、卿等もリッテンハイムの共犯として裁かれることはまぬがれまい。速やかに候の家族を差し出して、降伏せよ。そしてローエングラム候に忠誠を誓うのだ。それが殺された家族の恨みを晴らし、我々が新しい時代の中でより良く生きる為の最良の選択である!」
 退役軍人らしき暴徒の先導者のこの呼びかけは、城を守る兵士達に対して説得力を発揮した。
 警備責任者は、暴徒の首領に、3時間の猶予を申し出て了承されると、部下を集めて方針転換を伝えた。
 そして、その途端、母子を警護するはずだった兵士達は、野獣の群れと化したのである。
 その後のことは、口に出して話すこと自体が、カルツ夫人にとって苦痛であるようだった。
 飢えた野獣と化した兵士達は、たちまち女達に襲い掛かり、場内を荒らして金目のものを根こそぎ略奪していった。
 若い侍女達は、兵士たちに代わる代わる陵辱され、最後にはそのまま頓死したり、首を絞められたり、ブラスターで打ち抜かれるなどして命を奪われていく。
 50代のカルツ夫人は、そちらの対象にはならなかったのか、クリスティーナ母子を守ろうとして兵士に突き飛ばされ、台尻で頭を何度も殴られてその場に気を失った。
 サビーネとクリスティーネを襲った男達は、5、6人だったのか、十数名だったのか、今となっては定かでないという。
 兵士たちは、3時間とした期限が切れる前に、秘密の地下壕を通って脱出し、カルツ夫人が辛うじて意識を取り戻した時には、入城した暴徒たちも呆気に取られるほどの惨状だった。
 カルツ夫人は、血の滴る頭を抑えながらまずクリスティーネを見つけると、前皇帝の第二皇女は、半裸の無残な姿で事切れていた。
 カルツ夫人は、痛む頭を抑えながら、クリスティーネのカッと見開かれた目を閉じてやると、衣服を整え、腕を胸の上で組ませて、皇女として最低限の身なりを整えてやった。 その後、はっと思いついて、サビーネの姿を探した。
 サビーネは、隣の部屋に全裸でボロ布のように放置されていた。
 首を絞められた跡があるが、不十分だったのか、辛うじて息を吹き返した。
 カルツ夫人は、サビーネを抱えてクローゼットの中に身を隠すと、雪崩れ込んできた暴徒達が、既に城には何も残っていないと知って引き上げていくのを、ひたすら息を潜めて待った。そして、場内を探し回り、生き残った老齢の従僕の力を借りて、何とかサビーネを連れて夜半に城を脱出することに成功した。
 サビーネをひとまず自分が下賜された市内のこじんまりした家に連れていくと、主治医に連絡して往診を頼み、傷の手当てを頼んだ。
 ひとまず落ち着けたと思った瞬間、意識を取り戻したサビーネが暴れだして、医師の診察を拒み続ける。
 その錯乱が、男の医師が怖いからだと判るのに、時間はかからなかった。
 仕方なく、女性の看護師が医師の指示で処置をすると、鎮静剤を打たれたサビーネは、漸く深い眠りについた。
 代々この領地内でリッテンハイム家の主治医を努めた忠義者は、ここに居ては危険ですと言って、サビーネの療養の為にも、住み慣れたオーディンへ帰ることをカルツ夫人に、提案した。オーディンにはまだ頼れる親族や家臣もいるはずである。
 夫人もその提案を受け入れ、傷が癒えると、預金を全額持って、なるべく身分証明書の提示を求められない目立たない航路を選んで、迂回しながら、通常の8倍もの距離を移動し、10倍もの時間をかけて、漸くオーディンへ戻ってきたのである。
 しかし、すっかりローエングラム体制下となったオーディンには、彼女等が頼るべき人々は既になかった。
 サビーネは、すっかり変わってしまい、虚ろな目をして、殆ど言葉を話さなくなった。 あんな目に遭ったのだから無理もないと思っていたカルツ夫人は、サビーネの心の傷の癒えるのを気長に待つつもりで、無理に話しかけたりはしなかった。
 だが、逆にこれが、彼女の症状を見過ごすことになってしまった。
 サビーネは、オーディンについて1ヶ月後、あの忌まわしい事件から数えて7ヵ月後、突然腹を押さえ込んで悶絶し、ベッドの上で10cm程の血まみれの肉塊を産み落としたのである。
 胎児は奇形で、最初から産声を上げなかった。
 出産経験のないカルツ夫人は、己の無知を恥じると、胎児をタオルに包んで庭に埋め、近くの町医者を呼んだ。
 そこで告げられたのは、サビーネの症状は、精神的ショックによるものだけでなく、とある辺境惑星原産の細菌に感染している可能性が高いというのである。即ち性病の一種にかかっているというのである。
 言語障害も、既に細菌が脳にまで回っているからだという。
 カルツ夫人は、目の前が真っ暗になった。
 それでも必死で医師に治療法を問い質したが、自分の知る範囲では、まだ有効な治療法は発見されていないはずだという。
 ただ、空気感染はせず、殆ど性行為による粘膜での感染しかしない感染力の弱いものなので、通常の生活の上での接触では、うつる心配はないという。
 そして、このままでは、サビーネはあと1年もたないだろうと医師に告げられた時、カルツ夫人は、この先自分一人でサビーネの世話をすることに限界を感じた。
 医師も、全く絶望的なわけではなく、もしかしたら、フェザーンあたりの最新医療機関なら、何か画期的な治療法があるかもしれないという。
 少しでも望みがあるなら、精一杯の治療を受けさせたい。
 こうして、彼女は、熟慮の末、殆ど接触のなかったサビーネの異母姉を探し出し、助けを求めたのである。
 話を聞いたヘレーネは、目の前のサビーネの姿に、涙が止まらなかった。
 そして、来る時の迷惑な気持ちなどすっかり忘れて、どうやってこの子を救おうかしか考えられなくなっていた。
 ヘレーネは、思案の末、明日また来るからと返事をし、その日は、そのまま一人で帰ると、その足で、親友のベアトリスの邸を訪ねた。
 ベアトリスは、ヘレーネの話を聞いて、すぐに協力を了承してくれた。
「もしかしたら、あなたも匿った罪に問われるかもしれないのよ?」
 ヘレーネが念を押すと、ベアトリスは、笑って意に介さなかった。
「親友の妹が死ぬか生きるかって時に、それを見て見ぬふりは私にはできないわ。それで私を罪に問うような憲兵隊なら、新王朝も長くないわね。結局昔と同じってことじゃない。でも、私は、父を信じているの」
「お父様を?」
「そう。皇帝陛下とは一度もお会いしたことはないけど、父の話で聞いたラインハルト・フォン・ミューゼルという人の人間性をね」
「でも、それは陛下がまだ若い中尉時代の話でしょ? 権力を持って人が変わったってことだってありえるわ」
 ヘレーネは、リヒテンラーデ一族の子供が処刑された件が頭から離れなかった。
「その時はその時よ。それより、早速行動に移しましょ」
 ベアトリスは、翌朝自ら自家用車を運転して、ヘレーネを寮で拾っていくと、カルツ夫人とサビーネが住む家に向った。
 無人路線バスを乗り継いでいくと3時間かかった道が、今日は2時間足らずで来られた。
 ヘレーネは、信頼に足る友人で、欠かせない協力者としてベアトリスを紹介すると、サビーネを後部座席に運んで、2人の荷物を積み込み、一旦アデナウアー男爵邸に2人を連れて来た。
 リッテンハイム侯爵邸には及ぶべくもないが、久しぶりの貴族の館に、夫人もサビーネも気が落ち着いた様子だった。
 ベアトリスとその母親は、2人の為に一番日当たりのいい客間を用意してくれた。
 ヘレーネが丁寧に礼を述べると、善良な男爵夫人は「困った時はお互い様よ」と言って微笑した。
 ベアトリスは、サビーネを睡眠導入剤で眠らせると、懇意にしている開業医だというヨーンゾンという老年に差し掛かる医者を呼んだ。
 専門は小児科だというが、彼が軍に徴用された時、ベアトリスの父が艦長をしていたハーメルンUで軍医を務め、中尉時代のラインハルトや、亡きキルヒアイスとも面識があるという人物だった。
 皇帝に繋がる人物ということで、ヘレーネもカルツ夫人も当初彼を呼ぶのに難色を示したが、結局他に信頼できる医師を知らないのと、一刻も早くサビーネを診せたいとの思いが先に立った。
 サビーネは、このところ、体力の低下が著しく、免疫機能にも異常をきたしているようだった。
 ヨーンゾン医師は、眠っているサビーネから採血して分析器にかけ、更に、最近フェザーンから取り寄せたというスキャン装置で念入りに診察してくれたが、その結果に力なく嘆息した。
「ダメじゃな。わしの力では、もうどうにもならんよ。面目ない」
 ヨーンゾン医師は、そう言って詫びたが、それでも、少しでも進行を遅らせる為に、抗生物質とビタミンEの錠剤をありったけ処方してくれた。
「気休め程度にしかならんじゃろうが、ないよりはマシじゃろ」
 そう言うと、無くなる頃に合わせて薬を送付してくれることも約束してくれた。
 更に別室で今後のことを話し合うと、ベアトリスもヨーンゾン医師も、やはり名乗り出て皇帝の庇護を受けてはどうかと言う。
 それに対して、ヘレーネは、カルツ夫人から聞いたリヒテンラーデ一族の件を理由に反対したのだ。
「確かなのかね? その話は?」
 ヨーンゾン医師が、信じられないといった様子で、眼鏡の奥の人の良さそうな瞳を見開いた。
「わしの知っているミューゼル中尉は、名も無い平民の下級兵士の命ですら命がけで救うような少年だったのだが・・・」
 一同に重い沈黙が流れた。
 結局、サビーネは、このまま暫く薬で様子を見て、ヘレーネが何とかフェザーンへの渡航方法を開拓して治療しようということになった。
 ヘレーネは、大学卒業後の進路として、元々安定した公務員志向だったが、サビーネの為に、その中でもできるだけ高給で、昇進のチャンスも多そうな軍を選んだ。
 そして、ベアトリスもアデナウアー男爵夫人も、このまま2人がここに居て構わないと言ってくれたが、ヘレーネは、そこまで寄りかかるわけにはいかないと丁重に断り、サビーネとカルツ夫人の為に新たな家を探すことにした。
 この時まですっかり忘れていたのだが、養女になって一時的に継いだ男爵家を出る時に持ち出した宝飾類が、手持ちの金庫の中にある。どれくらいの価値があるものか判らなかったが、数件の質屋を回って査定してもらったところ、これがどこも予想以上の高値をつけてくれ、この時ばかりは、門閥貴族の贅沢ぶりに感謝した。
 ヘレーネは、その中で一番高く買ってくれる店に一括して品物を渡して換金すると、都心から2時間ほどの閑静な中流の平民用住宅街に、小奇麗な家を一軒購入した。
 贅沢ではないが、空気もよく、設備も最新式で、快適な暮らしができる。
 サビーネもこの家が気に入ったらしく、引っ越してからは、幾分容態が良くなったように見えた。
 ヘレーネは、軍に入ってコネを作り、サビーネの正体がわからないようにフェザーンへ連れて行く計画を考えた。
 こうして、ヘレーネが無事採用試験に合格し、軍務省に任官した矢先の8月8日、皇帝より大本営移転が告知されたのである。
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