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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(22)
 人間の声帯が、しばしば楽器を凌駕することがあるという事実を、エルフリーデは、オペラを観る度に実感する。
 そして、この『トゥーランドット』は、そのことを最も強く感じさせる演目の一つとされていた。
 AD地球時代に数千年かけて人類が築き上げた文明は、13日間戦争で壊滅的打撃を受け、地球統一政府樹立までの90年に及ぶ暗黒時代の中で、一部を除きほぼ失われたと言って過言ではなかった。
 銀河連邦成立後も、恒星間航行や、惑星改造技術など、一部テクノロジーを除き、科学、工学、医学、経済、芸術、スポーツ等あらゆる分野は、主にその指標を発展よりも、13日間戦争以前の人類文明が爛熟期にあったというAD21世紀初頭の水準を回復し、再生することに重きを置いていた。
 しかし、そんな中でも人間の生存に直接関係のない芸術やスポーツの分野は置き去りにされ、ルドルフ大帝の銀河帝国開闢後、暫く後に、政権が安定するに連れて、漸く歴代皇帝の庇護の元、地球時代の芸術の復興と再現を国家的規模で行うようになった。これは、専制政治で民衆を弾圧し、強固な階級制度で歴史を逆行させたゴールデンバウム王朝の歴史的意義に於いて、数少ない功績の一つとされていた。
 しかし、古典芸術は、もっぱら貴族階級の娯楽とされ、平民との差別化を図る国家の意図が色濃く反映する分野でもあった。
 楽学(オペラ)も、旧銀河連邦時代から、戦災を免れ密かに保管されていた一部楽譜や音声、映像データの発見により、その原型が復元されると、帝国内の主要惑星に皇室の補助で音楽学校を設立するなどして、数百年かけて漸く現在のモダンオペラが成立した。
『トゥーランドット』は、残存していた地球時代のデータがほぼ揃っていたこともあり、数多の演目の中でも、指折りに、原型に近いものを再現できたと言われている。


 物語の舞台は、架空の時代の北京という地球時代の大都市。
 氷のような冷たい心を持つ美しい王女トゥーランドットの心を、亡国の王子カラフが愛の力で溶かすという恋愛物語だ。
 第一幕は、宮殿の城壁前の広場で、役人が群衆に宣言するところで始まる。
「美しいトゥーランドット姫に求婚する男は、彼女の出題する3つの謎を解かなければならない。解けない場合その男は斬首される」
 その日も、謎解きに失敗したペルシアの王子が、月の出とともに斬首されるべく、喝采する群衆の中を引き立てられてくる。
 王子カラフは、リューに手を引かれながらさ迷う盲目の父、廃王ティムールを発見し、3人は互いに再会を喜ぶ。
 ペルシア王子処刑の様子を見にトゥーランドット姫が広場に現れ、カラフは一目見てその美しさの虜となる。
 ティムール、リュー、そして宮廷の3大臣ピン、ポン、パンが思いとどまるよう説得するが、カラフはトゥーランドットの名を叫びながら銅鑼を3回打ち鳴らし、自らが新たな求婚者となることを宣言する。
 この第1幕では、トゥーランドット姫は一切声を発さない。
 リューの役は、エルフリーデも何度か見たことのあるソプラノの若手(と言っても30代前半)実力者だった。
 彼女の歌うアリア「お聞き下さい、王子様」(Signore, ascolta)で、会場はしーんと静まり返り、曲が終わると割れんばかりの拍手が沸き起こった。
 ここでほぼ、今日のこけら落としは、成功したと見做された。
 カラフ王子役は、帝国中で知らぬものはいないといわれる、この時代を代表するテノール歌手が務めている。
 超人的な高音域が求められ、最も難役の一つとされるこの役に、当代随一の歌い手を起用したところに、オペラ座サイドの意気込みが感じられる。
 最初の見せ場であるカラフのアリア「泣くな、リュー」(Non piangere, Liu)を聴いた観衆の半数以上は、ここで一気に物語世界へと魂が引き込まれた。
 エルフリーデも、無論その一人だった。
 第2幕では、いよいよ主役のトゥーランドット姫の登場となる。
 最初の見せ場でもあるアリア「この宮殿の中で」(In questa Reggia)が始まると、観客の大半は、既にトゥーランドット姫の虜となる。
 この役には、分厚い管弦楽の響きや合唱をも圧するような超人的な高音域を長時間にわたって歌い続けることが要求され、ソプラノ歌手最大の難役の一つと考えられている。
 それ故、芸術でありながら、これは食うか食われるかの戦いだという感覚が、エルフリーデ達にもひしひしと伝わってくる。
 戦争での命のやり取りこそないが、これは、舞台の上での芸術家同士の矜持をかけた、美しくも壮絶な戦いなのだ。
 そして、2幕最大の山場である3つの謎解きの場――トゥーランドットとカラフの二重唱は、文字通り、二人の稀代のソプラノとテノールの一致討ちだった。
 最高級の技術をもつ歌手の、互いに一歩も譲らない最高の歌唱を聴いて、観衆のカタルシスも最高潮に達する。
 トゥーランドット姫の謎かけを次々と解いて行くカラフ王子は、ついに最後の3つめの謎をも解く。
 それでも結婚したくないとい姫に、約束は約束だと父王も翻意を促す。
 カラフは姫に対して
「それでは私もたった一つの謎を出そう。私の名は誰も知らないはず。明日の夜明けまでに私の名を知れば、私は潔く死のう」
 と提案する。
 第3幕では、北京の街にはトゥーランドット姫の命令が下る。
「今夜は誰も寝てはならぬ。求婚者の名を解き明かすことができなかったら住民は皆死刑とする」
 カラフは、
「姫も冷たい部屋で眠れぬ一夜を過ごしているに違いない。夜明けには私は勝利するだろう」
 とその希望を高らかに歌う。
 このカラフのアリア「誰も寝てはならぬ」(Nessun dorma)が、この作品のクライマックスと言うべき曲で、知らない人でも曲を聴けば耳慣れたフレーズに「あれがこの曲だったのか」と納得するほどの有名な曲である。
 旧地球時代には、この曲に様々な編曲がなされ、20世紀末から21世紀初頭にかけて、フィギュアスケートのいくつか名プログラムが誕生したと言われていた。
 残念ながら、この競技についての残っているデータが少なく、指導法の受け継ぎもないまま13日間戦争にと突入したたため、銀河帝国では、この100年手探りの状態で技術を再現し、これらプログラムの復元を試みてきた。
 エルフリーデも、多少なりとも競技に関わった人間として、完全に復元された最高峰のトゥーランドットをいつか見てみたい、いや、できれば自分の手で再現したいという、競技者なら誰もが抱く願望を密かに持っていたのだ。競技者としての才がないなら、せめて演じることのできる選手を育てる側で何かしたい。それがエルフリーデの漠然とした夢でもあった。


誰も寝てはならぬ!
誰も寝てはならぬ!
姫、あなたでさえも、
冷たい部屋で、
愛と希望に打ち震える星々を見るのだ…

しかし私の秘密はただ胸の内にあるのみで、
誰も私の名前を知らない!
いや、そんなことにはならない、
夜明けとともに私はあなたの唇に告げよう!
そして、私の口づけが沈黙の終わりとなり、
私はあなたを得る。

 エルフリーデは、ずっとカラフ役の中年のテノール歌手と目が合っているような気がした。
 実際は、そんなことはないはずなのに、なぜかそう感じた。
「私はあなたを得る」という歌詞が、自分に向っている気がして、思わずチラリと隣の夫に視線を移すと、男は頬杖を付きながら無表情で舞台を観ているだけだった。

 コーラスの女性の声が入る。

誰も彼の名前を知らない…
私たちに必ず訪れる、ああ悲しい、死が、死が訪れる。

 再びカラフは歌う。

おお夜よ、去れ!
星よ、沈め!
星よ、沈め!
夜明けとともに私は勝つ!
私は勝つ!
私は勝つ!

 舞台が最高潮に盛り上がると、割れんばかりの拍手が起こり、エルフリーデも立ち上がって拍手を贈る。

 ピン、ポン、パンの3大臣は多くの美女たちと財宝を彼に提供、姫への求婚を取り下げるよう願うが、カラフは拒絶する。
 ティムールとリューが、求婚者の名を知る者として捕縛され連行されてくる。名前を白状しろ、とリューは拷問を受けるが、彼女は口を閉ざし、衛兵の剣を奪い取って自刃する。
 リューのアリア「心に秘めた大きな愛です」(Tanto amore, segreto)は始まると、リューの死を悼んで、群衆、3大臣など全員が去り、トゥーランドット姫と王子だけが残される。
 リューのアリア、「氷のような姫君の心も」(Tu che di gel sei cinta)を聴くと、王子は姫に接吻する。
 姫はリューの献身を目の当たりにして、その冷たい心が次第に溶け、彼を愛するようになる。
 ここで王子は、初めて自らの名がカラフであることを告げる。
「名前がわかった」と姫は人々を呼び戻す。
 トゥーランドットとカラフは皇帝の玉座の前に進み出る。
 姫は「彼の名は…『愛』です」と宣言する。
 群衆が、愛の勝利を高らかに賛美し、皇帝万歳を歌い上げ、われんばかり拍手の中、幕が降りようとした時、一般席の観衆の中で誰かが、「ジーク、カイザー」と叫んだ。
 その叫びは、瞬く間に周囲に電波し、「ジーク・カイザー! ジーク、ノイエ・ライヒ!」の声は、オペラ座の床や壁を震撼させた。
 観衆のオペラ『トゥーランドット』への賞賛は、そのまま公正な入札の上で施工されたオペラ座そのものへの賞賛に変わり、やがて、彼らを特権階級の搾取から開放した現皇帝への賞賛の声となっていた。
 旧体制下では、オペラ座への入場は、貴族の称号を持つ者とその同伴者、特別に許可された高額納税者の平民に限られていた。
 しかし、このリニューアルオープンを祝う初日に、学芸省はあえて抽選で、施工に直接関わった平民の労働者を多数招待していた。
 シュプレヒコールは、その彼等の中から自然発生的に起こったもので、決して主催者側の姑息なシナリオではなかったが、いずれにしろ、この件は、直ぐにニュース配信され、新王朝の効果的な政治宣伝となった。
 それは即ち、旧王朝に於いて特権階級のものであったオペラ座が、一般大衆に開放された瞬間でもあった。
 地鳴りのような「ジーク・カイザー、ジーク・ノイエライヒ」の声と、鳴り止まない拍手の嵐は、やがてロイヤルボックス席から立ち上がって拍手を贈る4人にも向けられた。 エルフリーデは、薄っすらと感動の涙を浮べながら懸命に拍手を贈った。
『卑しい土木作業員の平民になど、オペラの素晴らしさがわかるものですか』
 当初、明らかに貸衣装と判るスーツやドレスを纏った場違いな一般席の客達に対して、エルフリーデは、偏見を以ってそう心の中で呟いた。
 しかし、こうして素晴らしい歌声に共に感動することで、自然とそういった先入観は払拭されていった。
 それよりも、この歌劇を、より多くの人々が見て、感動を共有することの方が、旧暦時代にこの演目を完成させた先人達の意に添うのではないかとさえ思えるようになった。
『私も開明的思想とやらに、感化されているのかしら?』

そして、私の口づけが沈黙の終わりとなり、
私はあなたを得る。

 ふと、また今見た楽劇のフレーズが蘇る。
 ロイエンタールが、エルフリーデをそっと引き寄せ、唇で目尻の涙を吸い取っている。
 信じられない夫の行為に、エルフリーデは、固まってしまい、拍手の手を止めてしまった。
 唇は、頬を移動し、ついばむように何度も唇に落とされる。
 エルフリーデは、やがて目を閉じて、それを自然に受け止めていた。
 
そして、私の口づけが沈黙の終わりとなり、
私はあなたを得る。

 観衆からどよめきが起こった。
 隣のメックリンガー提督が、元帥夫妻に呼応するように、洗練された所作で、男爵夫人と軽く口づけを交わす。
 一般席の観衆は、生きた芸術品を眺めるような感覚で、ロイヤルボックスを見上げながら拍手を贈り続けた。
 こうして、この夜のオペラ座の聴衆の拍手と賞賛の声は、舞台とロイヤルボックスに向けて、いつまでも鳴り止まなかったという。


 簡単に化粧を直し、ホールに出たエルフリーデ達は、予定されていたメディアの取材を受けた。
 ロイエンタールが、皇帝の代理人として、今宵の演目を賞賛する言葉と、オペラ座が、門閥貴族のものから帝国民全体に開放されたことを宣言すると、マスコミや他の観衆の興味は、傍らの若く美しい伯爵夫人に移っていった。
 エルフリーデは、まず先ほどの楽劇の感想を求められると、用意していた型通りの感想を述べる予定だったのが、ごく自然に、出演した歌手の名前を出したり、印象的な場面をあげて、しっかり自分の言葉で語っていた。
「伯爵夫人は、オペラは、よくご覧になられるのですか?」
「いいえ、今日でまだ5回目くらいですわ。結婚してからは初めてです」
「では、今宵の演目『トゥーランドット』は初めてご覧になるのですね?」
「ええ、そうです」
「一般大衆に開放されたオペラ座をどう思われますか?」
「正直最初は、戸惑いました。ですが、今は、より多くの人が素晴らしい芸術に触れることは、良いことだと思えます。オペラは、先人達の努力によって、AD地球時代のレベルを回復できました。私は今、心から、私が子供の頃から親しんでいるアイススケートでも、ぜひ再生されたトゥーランドットを見てみたいと思っています」
 記者たちの中から、予定されていない伯爵夫人の返答に、小さなどよめきが起こった。
 しかし、16歳の少女が、率直に飾らない言葉で語ったインタビュー内容は好評で、大衆を大いに満足させた。
 直ぐ隣では、ヴェストパーレ男爵夫人が、音楽学校の経営者として、メックリンガーは、自らも作曲や編曲を手がける専門家として、それぞれの立場でインタビューに答えている。
 ロイエンタール元帥夫妻とメックリンガー提督、男爵夫人のカップルは、その後、それぞれ数分間、メディアの要望に応じて、ポーズを取らされ、速報ニュース記事を飾る立体映像の被写体になってやった。
 大衆の心理とは不思議なもので、自分達を虐げたゴールデンバウム王朝の門閥貴族を激しく憎悪した彼等が、誰よりも貴公子的な容貌の新皇帝の姿に熱狂し、いかにも貴族然とした美しい伯爵夫人が、皇帝の代理人たる帝国軍一の美丈夫の傍らに在ることに満足するのだ。
 その点で、当人は全く意識していなかったが、結果的に国家の元勲であるロイエンタールは、帝国元帥たる自分に相応しい妻を得たと言えよう。
 取材の為に割かれる時間が終了すると、4人は楽屋を訪れ、今日の出演者達一人一人と握手を交わして、それぞれと短い言葉を交わした。
 今まで、エルフリーデの方がソリビジョン番組で見て知っていた有名歌手達が、今夜は向こうの方から、伯爵夫人のお声がかかるのを待っている。
『まるで皇族妃になったような気分だわ』
 と、エルフリーデは、少し複雑な心情だった。
 出演者を一通り労うと、『歓喜の間』と名付けられた隣接するホールで、4人は、閣議で演目を観ることができなかった学芸尚書・ゼーフェルト博士夫妻と、工部尚書夫妻と合流し、晩餐会に臨む。
 食事をすることも仕事のうちとは、宇宙で戦争をしていた方がよっぽど気楽だとロイエンタールはぼやいたが、今更どうにもならないのは、彼にも解っていた。
 晩餐に招待されているのは、先ほどのオペラの主だった出演者達と、オーケストラの指揮者と主要奏者、一般席で鑑賞していた施工業者の代表者達だった。
 ロイエンタールの「プロージット」の掛け声の元、白ワインが振舞われると、最近帝国でも自由に食べられるようになったフェザーンや同盟領の料理が適度に帝国風にアレンジされて振舞われた。
 無論、最高峰の料理人達が腕を振るっただけに、美味であることは言うまでもない。
 エルフリーデは、右隣の学芸尚書とも左隣の建設会社の平民の経営者とも、意外にも年齢的なギャップを感じさせず、会話が弾んでいる。
、学芸尚書の隣には、工部尚書夫人が座り、その隣にロイエンタール、その隣には、今日、トゥーランドットを演じたソプラノ歌手が、喜色満面で座している。
 地球時代からのこうした正式な晩餐の席次には、男女を交互にシャッフルして席を決め、日頃話す機会のない人間と交流し、見聞を広めるという意味合いがある。
 これは、良き習慣として、廃れることなく、旧王朝にも引き継がれ、新王朝もそれに倣っているようだ。
 晩餐が終わると、時刻は午後10時半を回っており、各自はそれぞれの専用車で帰途についた。
「素晴らしかったわよ。伯爵夫人。もう立派に元帥夫人が務まってらっしゃるのね。最初はどうなるかと、心配していたけど、本当にお二人ともお似合いだわ」
 ヴェストパーレ男爵夫人が、帰り際にエルフリーデに讃辞を贈ると、小さく手を振ってすぐに車上の人となった。
 この男と自分が似合いだなどと、エルフリーデは、反論したいのは山々だったが、場所が場所だし、言った当人は既に立ち去った後だったので、誰にも判らない程度の不機嫌な顔で、夫と共に専用車に乗り込んだ。
「今日は上出来だった。新王朝のイメージアップに貢献した伯爵夫人に、皇帝陛下の名前で典礼省から何かしらの寸志が下されるはずだ」
「公務をこなしたのだから、当然だわ」
 エルフリーデは、素っ気無く言ったが、生まれて初めて自分の働きに対して貰える報酬というものに、期待に胸を膨らませていた。
 邸に帰ると、またもや使用人達は総出で主夫妻を出迎えた。
「お疲れでございましょう。お部屋に湯の用意をさせてあります。それとも、何か軽く召し上がりますか?」
 気を利かせた執事が訊くと、ロイエンタールは、食事はいいので、とにかく早く部屋で休むと言った。
 普通、この時間に帰ると、主は大概何か酒とつまみを要求するのだが、珍しいこともあるものだと使用人達は思った。
 執事と侍女達は、主人と女主人それぞれの部屋へ同行しようとしたが、ふいにロイエンタールが妻の方に向き合った。
「明日は早いんだろう? 遅くまでつき合わせてしまって悪かったな。今夜は早く休め」
 それだけ言うと、くるりと身を翻して、さっさと自室に入ってしまった。
 つまり、今夜も夫は妻の部屋を訪れないという意味である。
 ただ、この日ばかりは、エルフリーデにとって有り難かった。
 明日、9月2日は、フェザーンの大学受験を目指す者を対象とした共通模試が開かれる日で、まだ進路も適正も絞れていないエルフリーデは、出来る限りの教科を受験して、志望校選定の参考にするつもりでいた。
 さすがに慣れないハイヒールを長時間履いていたせいか、足が痛くなり、全身が疲れている。
 エルフリーデは、この時ばかりは夫の言葉を素直に有り難く思い、バスルームで汗を流すと、日付の変わる前に深い眠りについた。


 翌朝、エルフリーデは、ある準備をする為に、午前5時に起床した。
 真っ先にバスルームへ入ると、先日通販で取り寄せた特殊染髪料を髪につけ、シャワーブースから出てきた時には、見事な赤毛の少女になっていた。専用のシャンプーで洗えばきれいに落とせ、濯ぎをきちんとすれば、色素も残らないらしい。何より身体に優しい天然素材でできていて、万が一口や目に入っても無害だそうだ。
 最近、健康志向になっているフェザーンのメーカーのものだそうだが、今日の彼女には、その商品は非常に有り難いものだった。
 エルフリーデは、シンクの前で髪を乾かすと、これも通販で購入したグリーンのカラーコンタクトを着けた。
 バスルームから出ると、予め事情を伝えられていた侍女達も、流石に驚きの表情を隠せなかった。
 エルフリーデは、滅多に着ない地味な白い半そでのブラウスと、膝丈のベージュのキュロットを着用した。
 髪は一つに編みこんで後に垂らし、メイクは最低限に済ませて、最後に度の入っていない臙脂色の縁取りの眼鏡を掛けた。
 靴はスニーカーにし、ビニール製の大判のトートバックに、筆記用具と参考書を入れて肩から下げた。
 どこから見ても、普通のティーンエイジャーの娘にしか見えない。
 エルフリーデは、鏡に映る自分の変身ぶりに満足していた。
 6時に階下に下りていくと、珍しく出仕前のロイエンタールと一緒に朝食を摂ることになった。
「こいつは随分と化けたもんだな」
 れいによって、唇の端に皮肉な笑みを浮べる夫に、幼妻は負けずに切り返した。
「こんな面倒、いい迷惑だわ。お前のせいよ」
 きつい言葉を浴びせる妻を、夫は別の感慨を持ってしげしげと眺めた。
 髪や目の色が変わっても、その顔立ちの美しさは、伊達眼鏡一つで隠しようもない。
 どんなに地味な服装をしても、類稀に美しい造形の伸びやかな四肢は、返って際立つだろう。
 果たして、同年代の若造共が、放っておいてくれるか?
 そんなことを思って見詰める夫の視線を、妻の方は相変わらず自分を小ばかにしているのだと思って無視していた。
 この変装を強く勧め、提案したのは、エルフリーデにフェザーンでの大学進学をアドバイスしたヒルダである。
 エルフリーデは、自分が今や時の人であり、帝国中から注目されていることが、先日の出奔騒動で自覚するに至った。その彼女が、同世代の少年少女達が大勢集まる場所に一人で現れたら、パニックになるのは必至である。かと言って、彼女一人を別室に移したり、大げさな警備を布くのは、せっかく浸透しつつある新王朝の開明性に皹を入れかねないし、人々の好奇の目に晒されることは、エルフリーデ自身も希望していなかった。
 幸い今回のものは、個人が自分の現時点での実力を把握する判定模試で、匿名での受験も可能だった。
 エルフリーデは、同じ街区に住む友人の名前を借りて受験し、行きも帰りも無人タクシーを使うつもりだった。
 ロイエンタールが迎えの専用車で先に出仕してしまうと、エルフリーデは変身した自分の姿を撮影し、ヒルダの端末へ転送して見せた。
 そのヒルダから5分と経たないうちにヴィジフォンが入ったのは、流石に驚いた。彼女とて、出仕間際の忙しい時間帯だろうに。
「伯爵夫人。変装は完璧ですわ。これなら誰もあなただと気付かないでしょう」
「ありがとうございます。フロイライン・マリーンドルフ」
 にこやかに礼を述べる後輩に対して、モニターの向こうの皇帝首席秘書官は、意外なほど緊張した口調で更に助言を加えた。
「よろしいいですか? 伯爵夫人。多分、男子学生が何人も色々と口実をつけて話しかけてくると思われますが、決して気軽に応じて話し込んだりなさらないようにして下さい。一人にそうすると、後が大変です。たとえ“ふり”だけでも、参考書に没頭しているような態度で居ることをお奨めしますわ。それと、昼食はカフェテリアで召し上がることになると思いますが、利用されるのは初めてですか?」
「ええ、どんなところかは、よくソリビジョンドラマなどで見て知っているんですが・・・」
「きっと、奢りますという男子学生が、近づいてくると思いますが、それも応じない方がよろしいわ」
「わかってますわ。そんなことしたら、名前やら住所やら訊かれて、偽名で受けてるのがバレてしまいますもの。別に悪いことをしているわけじゃないけど、私だとわかれば、この前みたいに、大騒ぎになるのでしょう?」
「ええ。それと、帰りに後をつけられて、自宅を調べられたりすることもありますわ。ご面倒でも、一度どこかに寄ってまいてからご帰宅なさって下さい」
「ええ、わかりましたわ。ふふ・・なんかスパイ映画みたいで面白そう・・」
 ヒルダの心配を他所に、当のエルフリーデは危機感がない。
「ご不自由かとは思いますが、試験、頑張って下さい」
「はい。ありがとうございます。それに、私、フロイライン・マリーンドルフほどきれいじゃないし、性格もキツイから、そんなにもてないですわ」
 最後に、明日のマリーンドルフ家の園遊会でお会いしましょうと、笑顔でヴィジホンを切ったエルフリーデに、ヒルダは尚も心配で落ち着かなかった。
 彼女へのアドバイスは、全て自分の経験から発せられている。
 早くから女学院卒業後は上級科へは進級せず、大学を目指すと決めていたヒルダは、中等科の第4学年になると、こうした実力模試を何度か受けるようになった。
 初めて模試を受けた時、当時、伯爵令嬢とはいえ、取り立てて有名人でもない彼女は、本名で受験し、普通に長い髪をまとめ、清楚なワンピース姿で会場に入った。
 彼女が入室した瞬間、男子学生達からどよめきが起こったのは言うまでもない。
 当時は現在よりももっと、女子学生の割合が少なかったので、ただでさえ美貌の令嬢の姿は男達の目を引いた。
 男子学生が、砂糖菓子に群がる蟻のように集まってきて、ヒルダを取り囲んだ。
 世間知らずなヒルダは、当初彼等の意図が解らず、あれこれと世話を焼いてくれるのを素直に親切と受け取り、適当に話を合わせていた。問われるままに、名前や身分をを名乗ると、崇拝者の3分の2が、がっくりと肩を落として引き上げていった。
 彼等の殆どは貴族か、裕福な平民の子息だったが、当時はまだ旧王朝の身分制度が厳格に存在しており、伯爵令嬢のヒルダと爵位のない家の息子が付き合うのは不可能とされていた。
 それでも残り3分の1の有資格者達は、美貌の伯爵令嬢をめぐって火花を散らすこととなる。
 ヒルダは、模試を受ける度に服装を地味にし、何とか彼等の好意を受け入れる意思のないことを伝えようとしたが、全く効果はなく、崇拝者は増えるばかりだった。
 堪りかねて一度、声を荒げて、
「いいかげんにして下さい。私は、今は大学進学のことしか考えておりません。どなたともお付き合いする意思はございません」
 と言ったが、誰も聞く耳を持ってくれなかった。
 その後も、家まで後をつけられたり、いきなり大量のプレゼントが贈られてきたりとストーカーまがいの求愛が後を絶たず、ヒルダだけでなく、父のマリーンドルフ伯や家令夫妻をも辟易させた。
 こうなると、生まれた時から全てが自分の思い通りに動いてきた門閥貴族の息子達故に性質が悪い。
 遂には、ヒルダの知らぬところで、求愛者同士が決闘騒ぎを起こすに至り、事態が深刻化した。
 幸い、双方とも軽い怪我で済んだが、この件が女学院にも知れることとなり、ヒルダは、父親と一緒に、当時の校長に呼び出され、
「無闇に男子学生の気を引くような振る舞いは、慎むように」
との厳重注意を受けてしまった。
 これ以上事を荒立てたくない伯爵は、その場は平身低頭でやり過ごしたが、ヒルダは内心、この理不尽な仕打ちに、怒りを禁じ得なかった。
 その翌日、ヒルダは、髪をバッサリ切って登校した。
 女学院の校則で、髪型に関する事項には、染髪の禁止の記載しかなく、長さについての既定はなかった。ただ、社交界デビューすることを前提としている貴族令嬢ばかりの中では、暗黙の了解として、結い上げる為に、肩下から腰までの長さにするのが普通であり、ヒルダもその慣例に倣っていた。
 しかし、決闘事件のせいで、反骨精神に火がついてしまったヒルダは、無意味な慣習に従う気持ちが完全に失せていた。
 自分は上級科へ進級する意思はなく、入試の実力のみを頼りに自力で大学へ進学するつもりである。貴族女学院の機嫌を取る必要などない。
 まだ若かった当時のヒルダには、周囲との軋轢を出来るだけ回避しようという大人の考えは持てなかった。
 短髪は、主に後輩達から好評で、面倒な手間もなく、思った以上に快適だった。
 ヒルダは、それ以降の模試には、服装もパンツスーツに改めた。
 短髪にパンツスーツという完全な男装は、流石に全身で男を拒絶していると受取られ、これ以後、ヒルダに求愛してくる男子学生は、潮を引くように周囲から消えていった。
『まったく・・・この帝国の同世代の男の子達って、あんなのばかりなのかしら?』
 ヒルダは深く失望していた。
 彼女が、「帝国の同世代男子」に対する評価を大幅に修正するのは、それから3年以上の歳月を要することとなる。


 エルフリーデが、無人タクシーを降り、模試会場となっている隣接街区の私立工科大学に着いた時、時刻は7時半を少し過ぎていた。
 今日ここで、主にフェザーンの大学への進学を希望する学生を対象とした年に一度の大規模な模試が行われる。
 まだ、専攻を決めていない彼女は、これから自分の適性を見極める為に、この日一日かけて全教科の模試に臨む。
 8時開始の第一科目目である国語(帝国語)の試験を受けるべく、受験票に書いてある番号の教室を探し、席に着いていると、早速、隣の男子学生が話しかけてきた。
 あまり無視するのも礼儀に反すると思い、名前(もちろん偽名)だけは答えてやったが、他の質問は適当に受け流した。名前と住所を借りた友人に迷惑がかかるといけないし、どうせ二度と会う機会のない彼等に、まともに応じてやる義理はないと思ったのだ。
 しかし、僅か十数分間の内に、エルフリーデの周囲には次々と男子学生が集まって来て、彼女とアドレスの交換を申し出る。
 エルフリーデは、携帯端末を持っていないと嘘をつき、何とか事無きを得た。
 男子学生達が、更にしつこく志望校について質問してくると、エルフリーデは、この件は正直にまだ決めていないと答えた。
 だが、それが彼等を喜ばせてしまったらしく、今度は、フェザーンの大学ならぜひ○○大学だとか、△△大学の方が設備も教授陣も充実しているとか、就職を考えるなら××大がお奨めなど、次々と自分の志望校らしい大学を薦めてきた。
「ところで、君、恋人はいるの?」
 不意に、斜め前の席の少し遊びなれた風な学生が、訊いた。
「え・・・? いえ・・・いませんわ」
 嘘は言っていない。確かに彼女は、夫はいるが、恋人などいない。
 しかし、その答えに、周囲の男達は一斉に目の色を変えた。
 エルフリーデは、自分が野獣達の中に放り込まれた獲物状態であることに、まだ気付いていなかった。

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