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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(21)
 翌日の昼過ぎ、フェザーン移転準備の合間に、受験勉強に勤しむエルフリーデに、また携帯端末にロイエンタールからの呼び出しが入った。
 
 夕食を外で一緒に摂る。1930時に統帥本部ビルへ来るように。

 またもや素っ気無いメールだった。
 いったい人を何だと思っているのかと憤慨したが、結局支度をして行くことになった。
 夕べ、あの男に肩を抱かれて車を降りると、使用人達は皆、安堵と喜びの表情で主人夫妻の帰宅を出迎えた。
 自分がこの男と仲がいいように見えることが、周囲の人間を安心させるようだと思えば、下手に意地を張って行かないとは言えない。
 しかし、結局昨夜もロイエンタールの訪れはなく、エルフリーデは、いよいよこの不自然な関係に終止符が打たれる日が近いことを予感した。
 だが、その翌日、何を思ったのか、先ほどのメールである。別れを突きつけるなら、何も外でやる必要はない。
 エルフリーデには、歳の離れた夫の考えることが、どうにも理解できず、当惑するばかりだった。
「まあ、では、今日が本当の初デートというわけですわね」
 エルフリーデの困惑を他所に、ロイエンタールからの連絡を伝えると、侍女達は皆、目を輝かせた。
 確かに昨日は、ミッターマイヤー元帥宅での会食だったので、本当に二人だけで外で食事をするのは、初めてのことである。
 恋人時代も交際期間もなく結婚してしまった二人を、周囲がいかに心配していたのかが判って、いずれ別れることになると思っているエルフリーデは、彼女達にも申し訳ない気がした。
 昨日に引き続き、あれこれと着て行く服選びを始めた侍女達に、エルフリーデは殆ど黙って身支度を任せた。
 この日選ばれたのは、ロイエンタールの母の衣装に手を加えて仕立てた、落ち着いたペールブルー色のドレスだった。
 落ち合う場所が、統帥本部ということを考慮し、シンプルなデザインに、アクセサリー類も最小限に抑えたが、それでも、殺風景なビルのロビーに入ると、可憐なその姿は際立った。
 皇帝首席秘書官が女性であることも影響しているのか、元来、男ばかりの職場の軍の施設に、ちらほらと事務官らしき女性の姿も見える。
 エルフリーデは、少し前なら気にも留めなかったことに関心を示している自分に気づいていた。
 旧体制の時代なら、数少ない、こうして外に出て働く女性は、中流階級の平民からせいぜい下級貴族出身者で、上流貴族の娘であるエルフリーデには無縁だった。
 しかし、門閥貴族の特権が廃止され、これから大学に行って、経済的に自立したいと考えているエルフリーデにとって、この帝国で女性が就ける仕事というのは、大いに興味が湧くものだった。
 受付に近づくと、彼女が何か言う前から、若い下士官は立ち上がって敬礼し、「どうぞ、おかけになってお待ちください」と言って、どこかに連絡を入れている。
 程なくして、佐官の制服を着た実直そうな青年が現れた。
 青年は、副官のレッケンドルフ少佐と名乗り、エルフリーデを、8階の統帥本部総長室に向う専用エレベーターに案内した。
「元帥閣下は、間もなくいらっしゃいますので、こちらでお待ち下さい」
 レッケンドルフは、そう言うと、総長室に隣接する応接室に通した。
「ご足労をおかけしました」
 エルフリーデは、下級貴族のレッケンドルフが見たこともない優雅な所作でソファに腰掛けると、軽く礼を述べた。
 レッケンドルフは、その何気ない仕草にも、緊張感が走り、思わず背筋を伸ばしてしまう。
『やっぱり苦手だ。筋金入りの貴婦人って・・・』
 平民とそう変わらない家庭で育った若いレッケンドルフは、しみじみそう思った。
 目の前の伯爵夫人も、とびきり美しい皇帝首席秘書官も、絶世の美女の大公妃も、どうも最上級の貴婦人というのは、目の保養にはなるが、彼にとって生身の女としての実感が伴わない。
 そんな女性を妻にできる上官は、やっぱり一生追いつけない偉大な存在である。
 従卒の少年が、紅茶を運んで来て退ると、手持ち無沙汰になったエルフリーデは、携帯端末を取り出して、メールのチェックを始めた。
 入っていた友人からのメールに一通り返信すると、思い立って、エヴァンゼリンに昨夜のお礼のメールを入れた。
 そう言えば、ミッターマイヤー元帥の進発は、明日だったはずだ。
 今日は、二人で心ゆくまで暫しの別れを惜しんでいることだろう。
「来たか」
 不意に、続き部屋のドアが開き、ロイエンタールが現れた。
 エルフリーデは、慌てて端末を仕舞うと、反射的に立ち上がった。
 典雅な足取りで、男が近づく。
 もう見慣れたはずなのに、またもやその姿に目が吸い寄せられてしまう自分を、エルフリーデは口惜む。
 ロイエンタールは、幼妻の前に立つと、軽く抱き寄せて、唇に殆ど触れるだけの接吻を贈った。
 思いも寄らない彼らしからぬ行為に、エルフリーデの方が赤面してしまう。
 不思議なことに、いつもの舌を愛撫される長く濃厚な口付けよりも遥かに心臓が飛び跳ねた。
「行くぞ」
 ロイエンタールは、そんな妻の様子を気に留める素振りも見せず、軽く左腕を差し出した。
 エルフリーデは、また心拍数が上がるのを感じながら、黙ってその腕に自分の右手を組む。
 ロイエンタールは、一瞬、満足そうに頷くと、ドアを開き、エレベーターに向って、常よりもゆっくりとした歩調で歩みを進めた。
 そう言えば、こうして腕を組むのは、結婚式の時以来だと互いに思いながら、二人は無言のまま専用エレベーターの中で過した。
 時間にして数十秒のはずが、やけに長く感じられると、1階のロビーに降り立った二人は、立ち止まって敬礼を返す軍人達と、女性文官の好奇の視線に見送られながら、入り口正面に横付けされた専用車に乗り込んだ。
「どこへ行くの?」
 静かに地上車が動き出すと、エルフリーデは隣に座る夫を見上げて訊いた。
 何も知らされずいきなり呼び出され、行き先も告げられずに連れ回されるのは、あまり愉快ではない。
 下士官の運転手は、既に行き先を指示されていたと見えて、無言で車を操作する。
「着けばわかる」
 それだけ言って正面を向いたまま黙ってしまった夫に、エルフリーデは、むすっとしながら顔を背けてしまった。
 しかし、気まずい沈黙が長く流れることもなく、専用車は10分と走らないうちに、新無憂宮に程近いとある貴族の屋敷の門を潜った。
「ここは・・・」
 車から降りたエルフリーデは、見覚えのある屋敷を、意外な驚きで見上げた。
 そこは、彼女がよく遊びに行った、仲のいい同級生の伯爵令嬢の自邸だった。
 よく見ると、入り口が微妙に改装されており、何か看板が架かっている。
「エルフィー、ようこそ!」
 扉が開くと、出てきたのは、紛れもないこの屋敷の娘だった。先日の夜会にも招待した仲の良かった元クラスメイトのカタリナ・フォン・リューデリッツである。
「カタリナ! どうしたの?」
 エルフリーデは、状況が把握できず、抱きつかんばかりの級友に訊ねた。
「ふふっ、我が家は、去年からレストラン経営を始めたの。思い切ってロイエンタール元帥に営業をかけてよかったわ」
 カタリナはそう言うと、後方のロイエンタールに丁寧なお辞儀をして歓待した。
 ロイエンタールとエルフリーデは、カタリナの案内で1階部分をレストランに改装された屋敷に入ると、南側の個室に案内された。
 ブラウンシュバイク公の縁戚だったこの家は、リップシュタット戦役では、公がオーディンを脱出した際、当主である父親のみが、色々と柵もあって渋々ガイエスブルク要塞に同行した。しかし、積極的に戦闘に加わることはせず終戦を迎え、公の自決後は大人しく降伏している。その間、カタリナ達家族は、他の親族達と一緒に、跡取りの兄の先導で、ずっと辺境の領地惑星に身を潜めていたという。
 父の伯爵は、自分の命と全財産を差し出すことで、親族の助命を請おうとしたが、意外にも三ヶ月ほど収容所で過したのみで放免された。
 ただし、この上屋敷を除くオーディン都内の全不動産及び、領地惑星と荘園を全て召し上げられたという。一家に残されたのは、爵位とこの上屋敷と、生活していくのに必要な僅かな現金のみとなった。
 しかし、カタリナによると、家族の誰も新王朝を恨んではいないという。それどころか、こうして家族全員揃って生きていられることに感謝さえしているのだそうだ。
 旧体制時代の政争であるなら、間違いなく父と兄は処刑されていただろうし、自分も母もよくて流刑か追放だっただろうとしみじみ言った。
 エルフリーデも何度か訪ねた下屋敷は、今は身寄りのない戦災孤児の収容施設となっており、郊外の別邸は、戦傷者の長期療養施設になったという。領地惑星も、中央政府から派遣された有能な行政官により、領民達は平和に暮らしているとのことだった。
 使用人達も、殆どが新たな施設で再雇用され、伯爵であった父も広大な領地を治める重圧から開放されて、かえって肩の荷が降りた気持ちらしい。大学を出て登用試験に合格した兄は、現在工部省で一官吏として働いている。
 伯爵一家は、昨年、これからの生活の為に、再雇用されなかった使用人達を集め、屋敷を改装してこのレストランを開業した。
 家族が皆無事で、多少形は変わったものの、こうして元居た邸に住み続けることができることを幸運に思い、家族と残った使用人達の為に、是が非でもこの店を成功させるつもりだと、カタリナは意気込みを語った。
 時刻は、丁度午後8時になっていて、店内は、裕福そうな男女や、フェザーン人のビジネスマン達、他星系からの団体旅行客等で賑わっていた。
「ゆっくり召し上がってらしてね。味には自信があるの。今日は特にいい食材が手に入ったから、楽しみにしてて」
 カタリナは、そう言って軽やかな足取りで、一旦部屋を出ていった。
 エルフリーデは、そんな友人の後姿を、少し羨ましい思いで見送った。
「どうだ? 伯爵夫人のお気に召したかな?」
 向かい側に座るロイエンタールが、独特の抑揚をつけた声で問う。
「ええ、まさか、ここに来るとは思わなかったわ。リューデリッツ伯爵は、食通として有名な方だから、お料理にも期待できると思うわ」
 エルフリーデは、珍しく素直に応える。
 カタリナの父は、公職には就かず、領主としても凡庸と評されていたが、洒脱な教養人として有名だった。そんな彼にとって、レストラン経営は、天職だったのかもしれない。
 料理が運ばれてくると、エルフリーデにもやっと、この店が普通のレストランではないことが解った。
 お任せのコース料理と聞いていたのに、何故か目の前に置かれているのは、食前酒のグラスと、数枚の白い皿に、フォークとスプーン一対だけである。
 そう言えば、邸に入った瞬間から、何か異国風のよい香りが漂っている。
 料理が運ばれてくる度に、カタリナが、時々小さなメモを見ながら丁寧に説明してくれる。
 料理は、フェザーンでは人気の、旧地球時代のアジア地域のものがベースになっているという。
 父の伯爵は、若い頃の一時期、フェザーンの高等弁務官事務所に勤務していたことがあり、そこで、フェザーンや同盟の多種多様な食文化に魅せられたのだという。
 邸を改装し、レストランを開くとなった時、当初家族は、この邸の雰囲気に似合った、オーソドックスな帝国宮廷料理の店を想定していた。しかし、当主である父親が、突然フェザーン時代を思い出し、思い切ってこのような形にしたのだそうだ。わざわざフェザーンからコックを招聘して教えを請い、本場のフェザーン人も唸らせる本格的な味を再現したという。
 この戦略は見事に当り、店は帝国人の富裕層だけでなく、ローエングラム体制に入ってから、往来が頻繁になったフェザーン商人達の間でも評判になり、連日繁盛しているという。
 料理の食材は、魚介類を使ったものが多く、味付けは、甘辛いものや、酸味の効いたものもあり、エルフリーデが今まで経験したことのない不思議な味がした。
 しかし、帝国料理にはない自由な発想と、微妙で繊細な味付けは、舌の肥えた伯爵夫人と元帥を充分に満足させてくれた。
「来月の4日から5日間、公務を兼ねて旅行に行くぞ。行き先は、お前の友人の家が経営するリゾート地だ。近くにある傷病兵の再教育施設を視察するついでに、フェザーン資本との提携のモデルケースとして、皇帝陛下の代理で視察する。そのつもりで準備しておけ」
 白身魚を揚げて甘酸っぱく味付けされた料理を取り分けながら、ロイエンタールが一方的に告げた。
 先日の夜会で、友人の子爵令嬢から、新たに経営を始めたリゾート施設への招待を受けていて、行くことを了承していたが、こちらの都合を訊ねもせず、一方的に決められるのは不愉快だった。
「私は、お前と新婚旅行なんて、承知した覚えはないわ」
「そう、ふくれるな。ここの娘の店には来て、向こうの招待を蹴ったりすれば、お前が友人への義理を欠くことになるぞ。フェザーンへ出発するのが9月17日なんでな。時間がない。どちらにしても選択肢はそう多くないだろうから、こちらで決めさせてもらった。友達には、5日から8日までの3泊で利用すると伝えておけ。4日の晩は、その地域を管轄する行政区庁の迎賓館だ」
 ロイエンタールは、そう通達すると、反論材料を無くしたエルフリーデは、益々不機嫌な表情になった。
「機嫌を直せ。このオーディンとも、あと僅かだ。お前も友人に会って別れを惜しみたいだろう?」
 この男にしては、珍しく思いやりのある言葉を聴くと、エルフリーデの心も徐々に解れていった。
 考えてみれば、同級生達とは今度いつ会えるかわからない。コテージに招待してくれたクラリスとも、もう一度会いたいと思っていた。それならば、確かにこれが最後のチャンスかもしれない。
 エルフリーデは、気を取り直して、次々と運ばれてくる珍味に没頭し直した。
「失礼致します。本日の料理を担当しました当店の総料理長が、ご挨拶させて頂きたいと申しております」
 フルーツを使ったプディングのデザートを食べ終える頃、カタリナが再びやって来た。彼女の後から現れたのは、なんと父親であるリューデリッツ伯爵本人だった。
 目を丸くするエルフリーデの向かいで、ロイエンタールが伯爵と握手を交わし、料理を賞賛して労っている。
 母親である伯爵夫人までやってきて、休暇でオーディンへお戻りの際は、また是非にと、営業にも余念がない。
 カタリナ自身もそうだが、この一家には没落した貴族の悲哀のようなものが全くなかった。
 それどころか、まるで水を得た魚のように生き生きと前向きだ。
「いや、何、むしろやっと、自分に相応しい生き方をしてる感じですよ。命をとられなかっただけでも儲けものなのに、こんな楽しい生活をさせてもらえて、新政府の寛大さに感謝しております」
 そう言って豪快に笑った恰幅のいい伯爵は、言われてみればまだ四十代半ばの若さである。
「とても珍しい美味しいお料理だったわ。フェザーンに行けばまたこのようなお料理が食べられるのかしら?」
 お世辞抜きでエルフリーデがそう言うと、伯爵は尚も人の良い笑みを浮かべ、一頻り蘊蓄を披露した。
「いやいや伯爵夫人、こればかりではありませんぞ。フェザーンの食文化の豊かさは、こんなものではありません。帝国では廃れてしまった旧地球時代のあらゆる地域の料理を出す店がたくさんあります。いや、料理だけでなく、科学技術も芸術も、全ての分野で我々人類がこの1700年の間に失い、退化してしまったものの原型を復元しようという試みがなされています。及ばずながら、私も、それに一役買っているというわけですよ」
 伯爵は以前から、旧王朝のゲルマン風一辺倒に偏った復古主義には懐疑的で、若い頃から逼塞感を感じていたらしい。旧体制下では、うっかり口にすれば思想犯扱いされかねないので、口が割けても言えなかったが、やっと本音で生きていかれるようになったと満足そうだ。
 そして、自分の器には、こうしてこの邸内だけで家族と、残った使用人を養うくらいが丁度よかったのだとも言った。
「昼間はランチもしているの。11時から午後2時までだから、よかったらフェザーンへ行くまでに、また食べに来て下さい」
 最後に抜け目無く宣伝を怠らないカタリナ達に、ロイエンタールが、請求金額の二倍近い金額をマネーカードで決済すると、二人は『長楽宮』と名付けられたアジアンレストランを後にした。
 専用車を帰してしまったので、無人タクシーを呼ぼうとするカタリナに、ロイエンタールは、歩いて大通りまで出るからと断り、エルフリーデの手を取った。
 邸宅街の街路樹は、蒼い光のイルミネーションで飾られ、夏の夜空に美しく映えていた。
 この通り自体が、最近、若者達のデートスポットになっているらしく、カップルばかりの姿が目立つ。
 エルフリーデは、ロイエンタールに手を引かれながら、無人タクシーが流れる大通りを目指して歩を進めた。
 道行く男女が、元帥の軍服の男を見て驚きの目を向け、少女のような女性と手を繋いでいるのを見て更に驚いて顔を見合わせる。
 エルフリーデは、触れ合う掌から伝わる不思議な温かさに胸が高鳴っていた。
 こうしていると、自分達は、本当に仲のいい夫婦のように見えてしまうではないか。
 そんなことを考えながら大通りに出ると、意外なことになかなか無人タクシーが捉らない。
 仕方なく二人は、通りに添って、ロイエンタール邸のある方向へと歩き出した。
 手を引かれながら黙々と歩くエルフリーデの脳裏に、先ほどの友人一家と、無残に殺された一族達の姿とが交互に過ぎった。
『なぜ、皇帝は、リヒテンラーデ一族にのみ、温情をかけて下さらなかったのか?』
 ブラウンシュバイク公やリッテンハイム候の一族は赦されて、なぜ自分の一族だけが、子供まで虐殺されたのか? エルフリーデには、それがどうしても納得できなかった。
 カタリナや他のリップシュタット連合軍側の貴族達に、寛大な措置が執られたことは素直に喜ばしいが、それは別として、もし、ローエングラム候が、いっそのこと敵対勢力の貴族を全て分け隔てなく、一族郎党に至るまで根絶やしにしたということなら、逆に公平に思えたかもしれないし、諦めもつく。
 キルヒアイスの死直後のラインハルトの心情など知る由もないエルフリーデには、どう考えてもそのことだけが、割り切れなかった。
「皇帝とて完全ではないということだ。忘れろとは言わんが、乗り越えろ。それがお前の為だ」
 斜め前方を歩く男が、まるでエルフリーデの心の中を見透かしたように、歩調を緩めることなく言った。
 エルフリーデは、思わず手を離して、男の端正な横顔を見上げた。
 男は静かに立ち止まると、ゆっくりと彼女の方へ向きを変え、もう一度手を差し出した。
 エルフリーデは、逡巡しながらも、その手を取った。
 ロイエンタールは、再び繋がれた幼妻の美しい手を、少し強く握り返すと、また無言で歩み始めた。
 結局、二人はそのまま無人タクシーに乗ることなく1時間ほど歩いて邸に帰り着いた。
 時刻は午後11時近かった。
 仲良く手を繋いで帰宅した夫妻を見て、帰りの遅い二人を心配して待っていた家令も執事も侍女達も、皆一様に安堵した。
 しかし、結局その夜も、ロイエンタールが妻の寝室を訪れることはなく、エルフリーデの困惑の度合いは更に増していくのだった。


 翌8月30日、進発するミッターマイヤーを見送る為、ロイエンタールは宇宙港の動く廊下を、親友と並んで移動していた。
「ところで、卿の奥方は、卿についてフェザーンへ行くそうだな」
 ミッターマイヤーが、親しみのこもったグレーの瞳を向ける。
 一昨日の会食の時もそうだったが、親友は、表面上は新妻に対して素っ気無く、冷たい態度をとっているように見えるが、彼が年齢が半分の幼妻に対して抱く思いを、結婚生活7年になるこの男は、敏感に感じ取っていた。
 長きに渡る戦争が、やっと終結したのに、また長期間離れることを是としない軍属も少なくないが、大本営移転が急なことでもあり、今回同航する軍人の家族はさすがに少数派だった。
 ミッターマイヤーは、それを新婚故の離れ難さだと好意的に解釈した。
 だが、それを言うと、親友はいつものように口元に冷笑を浮べた。
「それさ、あの女が俺の傍にいるのは、今のところ俺の力が必要だからに過ぎない。親族なんぞ、たかが少し血が繋がってるだけの人間の為に、どうしてそこまでできるのか、律儀なことだ」
「卿は、身内を簡単に見捨てるような女が好みなのか?」
 ミッターマイヤーが珍しく片眉を上げて顔を顰めた。
「おい、気を悪くしたのではあるまいな?」
「そう思える理由が、卿にはあるのか?」
 二人の名将は、そこで互いの顔を見て微笑し合う。
「コールラウシュ伯爵夫人は・・・・、卿の奥方は、情の深い御仁だ。こんな時代だからこそ、血縁者を大切にすることは尊いと、俺は思う。・・・・エヴァも、そう言っていた」
 ミッターマイヤーの力を込めた言葉に、ロイエンタールは、静かに頷いた。
「卿等夫婦がそう思うのなら、きっとそうなのだろうな」
 家族というものに縁の薄かったロイエンタールには、正直なところ親族達の為に自分の人生すら犠牲にするエルフリーデの気持ちが解らない。しかし、今の彼は、エルフリーデが望むことなら、それを叶えてやりたいと思っている。その気持ちが、何であるかに思い至ったのは、ごく最近のことだったが、それは、彼が今まで経験したことのない甘く、苦いものだった。
 動く廊下が終点になり、ベイオウルフの乗鑑場に到着すると、二人はフェザーンでの再会を誓い合い、かたい握手を交わした。
「心配するな、ミッターマイヤー。俺も武門の男だ。自分の成すべきことは、弁えているつもりだ」


 月が変わった9月1日の昼、統一模試を翌日に控えたエルフリーデは、またもや夫に呼び出されて出かけることになっていた。
 今度は、帝国歌劇場(オペラ座)のロイヤルボックスでのオペラ鑑賞である。
 流石にこの件は、一昨日に帰宅したロイエンタールから直接知らされ、エルフリーデは、一日半掛りで侍女達と準備に明け暮れた。
「俺もこんなものは好きではないが、これも仕事のうちと諦めるしかあるまい。だからお前も、俺と結婚した以上、諦めてつきあえ」
 そう言って、薄く笑う男に、エルフリーデも従うしかなかったが、オペラ鑑賞自体は嫌いではない。むしろ、普通の若い娘として、大いに興味があった。
 新無憂宮に隣接する帝国の歴史的建造物の一つでもあるオペラ座は、ゴールデンバウム王朝開闢後に、新無憂宮とほぼ同時期に竣工された。これまで、3度の大改修を経て、その間にも10回以上に渡る改築が行われていたが、この年、そのオペラ座が、40年ぶりの大改装を終えて、新たにオープンする運びとなった。
 新政府は、このオペラ座の改装を、新無憂宮を歴史博物館に改装する工事と共に、完全入札制度を導入して施工業者を選定した。
 それまで、門閥貴族系企業の利権の温床であった国家事業を、根底から覆す画期的な方式は、旧王朝の支配に慣らされた帝国民の新王朝への支持を更に強めることとなった。
 その記念すべきオペラ座のリニューアル記念上演は、当然、皇帝を迎えて行われるはずであったが、ラインハルトはこれをロイエンタールとメックリンガーに押し付けた。
 実際、皇妃もなく、唯一の皇族である姉、グリューネワルト大公妃も隠棲している今、本来なら皇族が分担してこなす公務を、皇帝一人で行うには、身体が足りな過ぎた。故に、政務と無関係なこうした公務は、必然的に妻帯している各高官へ割り振られることが多くなる。特に、その貴公子的美貌が謳われ、貴族の妻を持つロイエンタールは、本人の意に反して、こうした場にはうってつけの人物だった。
 エルフリーデは、前日から、携帯端末に届いた資料に目を通し、当日のタイムテーブルを確認した。更に、終了後に予定されている会見で、予め用意されているメディアからの質問に答える練習をし、上演される演目とキャスト達の情報を頭に叩き込んだ。
 エルフリーデは、この日の衣装に、結婚するに当って誂えたマゼンダ色のロングドレスを選んだ。着る人によっては、少しどぎつく感じられる色のドレスも、まだ少女の体型の彼女が纏うと、華やかな可愛らしさになる。念入りに化粧を施し、結婚時に贈られたダイヤの首飾りと、対の耳飾をつけ、髪を上げると、鏡の中に、亡き母親によく似た貴婦人の姿を見つけて驚いた。
 シュヴァイツァー夫人をはじめとする侍女達全員が、ため息を漏らした。
 白磁のような肌に、数百個の上質なダイヤモンドが輝き、きれいに結い上げられた豊かなクリーム色の髪は、高貴な貴婦人に相応しかったが、瑞々しい鎖骨のラインと、鮮やかなマゼンダ色のドレスから伸びる細く長い腕が、少女らしさを感じさせる。
 政変前、まだ14歳だったエルフリーデは、改装前のオペラ座には、両親と数回行ったことがあるだけだったが、オペラが大好きになると同時に、一つ忘れられない経験をした。
 最初にオペラを観たのは、12歳の誕生日で、演目は『トリスタンとイゾルデ』という古典オペラの悲劇だった。
 4時間近い長編にも関わらず、エルフリーデの聴覚と視覚は、ずっと舞台上で繰り広げられる悲恋物語に惹き付けられ、幕間の時間さえ動くことができない程だった。
 婚約者の仇でもある男トリスタンに惹かれてしまう王女イゾルデ。
 愛の媚薬で愛し合う二人。
 重傷を負って自分の城に帰ったトリスタンは、愛するイゾルデの腕の中で息絶える。
 イゾルデもまたトリスタンの後を追って果てる。
 エルフリーデは、イゾルデを演じる体格のいい中年女性歌手に、完全に自分を一体化させてしまっていた。
 そして、第3幕の終曲『イゾルデの愛の死』を聴いた途端、大粒の涙が止め処なく流れ出した。
 普段気丈で、滅多に泣いたりなどしない娘の泣く姿に、隣の母親が驚いて振り向いた。
 エルフリーデは、悲しかった。悲しくて悲しくて堪らなかった。
 そして、何故か解らないが、確信的に思った。
 イゾルデは私だ、と。
 仇の男を愛してしまい、その男と共に果てる女。
 自分の身の上からは遠い存在の女性が、まるで平行世界のもう一人の自分のように思えて仕方がなかった。
「お母様、お母様、私、イゾルデなの・・・・」
 エルフリーデは、泣きじゃくりながら、母親の腕にしがみ付いた。
「まあまあ、この子ったら」
 母は、娘が、素晴らしい楽劇に感動して、感情移入し過ぎてしまったのだろうくらいにしか思わなかったらしく、娘の頭を優しく撫でて抱きしめてくれた。
 まだ男と女のことを何も知らないはずの12歳の自分が、トリスタンを愛するイゾルデの心と、なぜあれ程強くシンクロしてしまったのか、女になった今になってあらためて不思議に思う。
 その後、別の演目で何度かオペラを観たが、素晴らしい歌唱に感動しても、決してあの時のような感覚に襲われることはなかった。
 ロイエンタールからオペラ鑑賞の話を聞いて、エルフリーデは真っ先にこのことを思い出した。
 そして、当時のことが頭の中で鮮明に蘇ると、あろうことか、彼女の愛するトリスタンと目の前の金銀妖瞳の男とが重なった。
『ありえないわ』
 エルフリーデは、即座に自分の発想を否定した。
 そんなことが一瞬でも浮かんでしまった自分に嫌悪する。
『そうだわ。あの男の旗艦の名前が偶然トリスタンだったからよ。そうに決まっているわ』
 エルフリーデは、そう自分を納得させると、あらためて正装した自身の姿を大鏡に映した。
 鏡に映る今日の自分の姿は、子供の頃から長年、彼女が憧れてきた姿だった。
 きれいなドレスを着て、豪華な宝石を身に着け、貴婦人らしく髪を結い上げて、人々の賞賛と羨望の眼差しを受けながら、高貴な男性にエスコートされてオペラ座の階段を登る。
 ただ一つ違っているのは、彼女の隣を歩む男が、下級貴族出の成り上がりで、簒奪者の一味だということだった。
 午後5時からの上演に合わせ、3時半を廻った時刻に、ロイエンタールが一旦帰宅し、礼装の軍服に着替えると、二人は午後4時に専用車で邸を出た。
 地上車がオペラ座の正面に到着し、ドアが開くと、エルフリーデは、赤絨毯の上にゆっくりと降り立った。
 夫に手を取られ、優雅に階段を登っていると、カメラのフラッシュが一斉に焚かれる。帝国元帥の礼服姿の隣の男は、彼女が知るどの貴族よりも典雅で美しかった。
 不本意なはずなのに、心までは屈しないはずだったのに、男の姿は、エルフリーデの心をかき乱し、惑わせる。
 貴賓席の扉を開くと、メックリンガーがヴェストパーレ男爵夫人を伴って既に着席していた。
 二人は立ち上がり、ロイエンタールとメックリンガーは、敬礼と握手を交わし、女性二人は膝を少し折って、優雅な貴婦人の挨拶をした。
 ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナは、この日、鮮やかなエメラルドグリーンのイブニングドレス姿だった。
 4人は挨拶を済ませると着席し、幕が上がるのを待った。
 今宵の演目は、地球時代からの古典オペラ『トゥーランドット』。
 最後が、群集が皇帝万歳を歌い上げて幕となるこの戯曲は、新王朝の開闢と、新しいオペラ座のオープンを祝う演目として最も相応しいものだった。
 キャストは、どの役にも、この時点の帝国内で考えられる限りの最高の歌手達が起用されている。
 貴賓席の4人が、小テーブルに置かれたペーパー版のパンフレットに目を通していると、いよいよ幕が上がった。

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