egotop
Egoist
Mail
HomeAboutMainLinkLog&PresentBlog
食うために軍人になった女達 −ハーレクインもどきスピンオフ小説(1)−
 新帝国歴1年6月、旧王朝末期から事実上帝国の覇権を握ったローエングラム政権は、新しい時代の人材確保と男女共同参画化社会を目指す一環として、これまで少数の縁故採用のみであった女性職員を、各省庁のみならず、軍部にまでも拡大して新規採用するという画期的な方針を打ち出した。
 同盟やフェザーンでは当たり前のことも、全てに於いて男社会の帝国では、まさに晴天の霹靂ともいうべき衝撃だった。
 これまでも、軍にも各省内にも女性職員というものは全くいないわけではなかった。
 ただ、採用されるのは、ギムナジウムを出て、2年間の専門課程を修了した18歳の新卒者のみで、高官や貴族に何らかのコネを持つ容姿端麗な少女に限られていた。
 彼女達は、だいたい同じ職場で同僚や上司と結婚し、殆どの者が25歳までに、遅くても30歳までに円満退職していく。
 軍にも後方勤務の女性兵士はいたが、こちらも平均在職期間は5、6年と短く、上等兵として任官し、退役時の階級は、せいぜい伍長か軍曹あたりだった。文官の省庁では、階級はないが、役職や肩書きがつくことはまずない。
 仕事は、主に通信オペレーターや雑用レベルの事務仕事で、男性職員のサポートと、将来有望な若い中堅官僚や軍人達に、女ッ気の少ない職場で、出会いの機会を与えるという暗黙の理由が存在した。
 ローエングラム体制は、それらを完全に打ち破り、彼女等のような下級採用はそのままに、まず、各省に大学卒業の女性キャリア職員の採用枠を設けさせた。
 次いで、軍内にも、大本営、軍務省、統帥本部、宇宙艦隊司令部それぞれに、准尉階級で任官する大卒の女性幹部候補を採用させることとなった。
 これは、士官学校を出て任官した者が少尉で任官するのに次ぐ待遇だった。
 その士官学校でも、今年から積極的に女性候補生を入学させる予定であるらしい。
 今回の大卒キャリア組にとって、4年後に彼女達が少尉で任官するまでに、最低でも少尉に昇進しているか、できればその上の中尉までになっていたいところだった。でなければ、自分より5つも6つも年下のお嬢ちゃんの部下にならなければならない可能性だってあるのだ。
 彼女達は、当然、数年で結婚退職することはなく、男の官吏や軍人と同じように定年、または退役適齢年齢まで勤め上げることを前提に任官する。
 将来的には、女性閣僚や女性将官の誕生も視野に入れた施行だった。
 ただし、採用枠といってもあくまで数値目標であり、試験の点数の合格ラインは、男性受験者と同じ基準である。
 帝国では、高等教育を受ける女性は、首都星オーディンに限っても同世代の5%以下であり、その殆どが家業を継いだり、高給のフェザーン系企業に就職していた。
 それでも、安定性のある公務員は人気があったのか、各省庁に予定を上回る応募者が殺到し、不合格だった者が、一番最後の受験日で、最も女性求職者には人気のない軍務省に再チャレンジすることもあった。
 この年、軍務省のキャリア採用に合格した女子大生は、たった20名。
 元々母体が少ない女の大学生の中で、初年度の成果としては、まずまずと言えた。
 20名は、1ヵ月間共通の研修を受けると、辞令を受取り、試験的な最初の配属先へと赴任して行く予定である。


 端末に転送されてきた結果で、採用を知ったヘレーネ・シェリングは、感無量で涙を流し、次いで「ひゃっほー!」と嬌声を上げて喜びを爆発させた。
 これでやっと給料が貰える。
 今までバイトを掛け持ちしたり、家にあるものを売ったりしてなんとか生活と、妹の治療費を捻出してきたが、やっとこれで安定収入だわ。
 軍隊だってなによ。男の職場がなによ。こっちは生活の為に働いてるのよ。嫌な仕事もセクハラ上司もどんと来いだ!
 どんなに肩叩きされようが定年まで勤め上げて、がっぽり恩給もらえるようになって退役してやるんだから。
 ヘレーネは、そう意気込んだ。
 こうして、1ヵ月間の新人研修を終えると、新帝国歴1年7月1日付で、晴れて新銀河帝国軍務省経理装備局付准尉として任官したのである。
 職場で、女性士官は彼女一人だったが、思ったより・・というか、全くセクハラ紛いの扱いはなく、拍子抜けするほど働き易い環境だった。
 これも、軍務尚書殿の薫陶なのか、はたまた皇帝首席秘書官を務めるフロイライン・マリーンドルフあたりの気配りの賜物なのか、任官したての下っ端に判ろうはずもなかったが、とにかく有り難い限りだった。
 ギムナジウム時代からの親友でもあり、共に同じ軍の女性キャリア一期生であるベアトリス・フォン・アデナウアーは、同じ軍務省の人事教育局に配属されたが、同じ官舎の別の階に住んでいることもあって、以前以上に会う機会は多い。
 研修時代に仲良くなったアレクサンドラ・シェスターとアンナ・ケンペルの二人も、配属先はそれぞれ異なったが、同じ敷地内の別棟の尉官用官舎に住んでいる。
 4人の同期は、だいたい週に一度ペースで仕事帰りに落ち合うと、官舎に近いビアホールで職場の愚痴や男談義に花を咲かせた。
 4人のうち、ベアトリスを除いて皆平民である。
 採用試験に落ちた中には、没落した門閥貴族の令嬢も結構いたらしいというから、選抜は本当に厳正且つ公平に行われたのだろう。
「ところで、ヘレーネ。どうなのよ? その後、リンザー中佐とは」
 既にかなり出来上がっているアンナが、半分座った目で絡んでくる。
「まだ2回デートしたっきりよ。第一、彼、今地球だもの」
 ヘレーネは、苦笑しながらつまみのビュルストをかじった。
 彼女は、先日、研修生時に臨時教官の一人だったコンラート・リンザー中佐に見初められ、付き合うことになった。しかし、ワーレン艦隊に所属する彼は、現在、皇帝から勅命を受けた地球教討伐軍に従軍していて不在である。
 ワーレン艦隊の本体は既に一昨日帰還しているが、現地でかなり激しい戦闘があったらしく、回収可能な戦死者の遺体回収や、押収した資料などの残務処理の為、一部隊を残した。
 リンザー中佐は、作戦遂行能力がワーレン提督に認められ、その部隊の指揮を任されているとのことだった。
 オーディンへの帰還は、今月下旬になると見られていたが、帰還後は、多分大佐への昇進は間違いないだろう。
 建国の功臣の一人でもあるワーレン上級大将の覚えが目出度ければ、彼の出世は約束されている。
 彼が出世の階段を登ることは喜ばしいが、ヘレーネには、それを素直に喜べない事情もある。
「人のことよりも、あなたこそどうなのよ? キスリング隊長とはお話できたの?」
 ヘレーネは逆襲を試みた。
「訊かないでよ」
 アンナは、ぶすっとしてグラスに4分の1ほど残っていたビールを一気に呷った。
 コスプレマニアの制服フェチが理由で、同じ公務員でも文官ではなく軍服が目当てで軍人を選んだ彼女は、本当は、近衛兵の制服に一番憧れていたが、配属が叶わなかった。
 それが、大本営の末端に配属となって、制服姿のキスリング親衛隊長に一目惚れしてしまったというわけだ。以来、何とか彼とお近づきになることを画策している。
 しかし、准将の階級にある『皇帝の壁』ともいうべき親衛隊長と、任官したての准尉とでは、話などできようはずもない。
「まあ、実際につきあったら、年中制服着てるわけじゃないしね。案外、私服のキスリング隊長見てがっかりってこともあるかもよ」
 意地悪く突っ込みを入れたのは、統帥本部幕僚長室付准尉のアレクサンドラ・シェスターである。
 彼女の場合、生来の髭フェチで、幕僚長であるベルゲングリューンに、見た瞬間運命を感じたが、やはりキスリング以上の階級の壁があって、まだ一言も口をきいたことがない。
「何言ってんのよ、サーシャ。あんたこそ、髭剃ったベルゲングリューン大将見たら、途端に萎えるんじゃない?」
 すかさずアレクサンドラのニックネームを呼び、反撃するアンナだった。
「ああーーーっ、へレーネが羨ましい。私も隊長がせめて『閣下』と呼ばれる前に出会いたかったわ」
「私もよ。ベルゲングリューン大将だって、つい3年前までは佐官だったて聞いたわ」
 ぼやくアンナとサーシャの二人に、ただ笑うしかないヘレーネとベアトリスだった。
 実は、ベアトリスも、軍務尚書の副官を務めるフェルナー准将に熱い視線を送っていたのだが、まだそれを誰にも打ち明けていなかった。
「ところで、来週末から二日間、久しぶりの公休日でしょ? 世間じゃロイエンタール元帥のお宅の夜会の話でもちきりだけど、私等には関係ないし、4人でどっか行かない?」
 サーシャの提案に、アンナとベアトリスはすかさず賛成の挙手をしたが、ヘレーネだけが申し訳なさそうに、首を振る。
「ごめんなさい。私、妹の所へ行かなきゃ。暫く会ってやってないから・・・」
「そっか、そういえば、研修から配属まで殆ど休みなしだったもんね。いいわ、気にしないで行ってらっしゃいよ。あ、それとも、この際、皆で行く? ドレスデンの近くなんでしょ? 妹さんの療養してる病院」
「あ、それはいいの。あの子、人見知りする性質だし。本当にごめんなさい」
 アンナの善意のこもった人のいい微笑に、ヘレーネは僅かに罪悪感を感じながら、丁重に断った。
 彼女の妹は、ドレスデンにいるのは事実だが、本当は、病院などに入っていないし、他人に合わせることなどできない。
 アンナは、「こっちこそ、余計なこと言ってごめんなさい。気にしないで」と言って、それ以上何も言わなかったが、唯一事情を知っているベアトリスだけは、複雑な目を向けた。


 翌週、ヘレーネは、漸く廻ってきた公休日に、久しぶりに郊外の家で静養する異母妹を訪ねた。
「おはよう、サビーネ。今日は気分がいいようね」
 妹の顔を見るなり、お決まりの挨拶をする。
 本当は、気分がいいはずもなく、それどころか、病状は悪化の一途を辿っている。一刻も早くフェザーンの先進医療を受けさせたい。
 だが、それには、莫大な費用がかかるばかりか、彼女の正体を明らかにせねばならず、そうなれば必然的に自分は全てを失う。
 恐らく、このまま軍に奉職することは叶わないだろうし、付き合いはじめたばかりのリンザー中佐ともお別れだろう。いや、たとえ彼の気持ちが変わらなかったとしても、自分という存在は、彼の将来の為にならない。
 まだ二十代で中佐の地位にある彼は、行く行くは将官への出世も充分可能であり、それに相応しい妻を娶るのが彼の人生にとって最良なのだ。
 ヘレーネが、そんなことを考えていると、寝台に上体を起こしていたサビーネが、何か声を発した。
「あっ・・・う・・・」
 という言葉にならない声を、傍にいた忠実な乳母であるカルツ夫人が根気良く聞き取ろうとする。
 彼女の言語障害は、発病してから日増しにひどくなっており、病原菌は脳までも犯し続けている。
 早くしなければ・・・!
 焦る気持ちを抑えながら、ヘレーネは、妹の寝台に腰掛けると、そっと頭を抱きしめた。
 長かった髪は、手入れがし易いよう、耳の下辺りで切られている。
 青く快活だった瞳は、病のせいか、灰色に曇り、焦点が定まらない。
 それでも、ヘレーネが来ると嬉しいのか、時折笑顔を見せるようになる。
『この子は、果たして、私を姉だとわかっているのかしら?』
 と、ヘレーネは時々思うことがあるが、ここまできてこの異母妹を見捨てる気など更々なかった。
「ヘレーネ様、私は食事の支度をして参りますので、暫くサビーネ様をよろしくお願いします」
 カルツ夫人がそう言って部屋を出ると、ヘレーネは、何気なくソリビジョンのスイッチを入れてみた。
 偶々つけた番組は、現在オーディン市民の関心を集めているロイエンタール元帥邸での夜会の模様だった。
 まだ始まるまでに時間があり、正式な取材が入るのは皇帝の行幸がある夜7時過ぎとのことだったが、番組はしきりに元帥夫妻の最近の様子や、結婚式の映像を繰り返し流している。
『たしか、この伯爵夫人って、この子と同じ年くらいよね』
 華やかな婚礼衣裳に身を包み、帝国中の女性達の羨望の的である花嫁と、今の自分の異母妹とを比べると、勝ち組、負け組という図式を思わずにはいられない。
 本来ならこの妹は、新無憂宮で玉座に座っていたかもしれないのに。
 そう言えば、今をときめく皇帝首席秘書官マリーンドルフ伯爵令嬢も、元は非主流派の家柄の出である。 
 そんなことを思うたびに、ヘレーネは、世の無常を感じるのだった。
 決心しなければならない時が近づいているのかもしれない。
 ヘレーネは、この休日で覚悟を決めるつもりでいた。
 それにしても、何という皮肉な運命だろうかと、脇に眠るサビーネに視線を落としながら、ヘレーネは自分の半生に思いを馳せた。


帝国暦469年5月12日、ヘレーネ・シェリングは、オーディン郊外の下町で、貧しい工員の家の娘を母として生まれた。父親はいなかった。物心ついて何度か周囲の大人に訊ねても、皆硬く口を閉ざして教えてくれなかったので、いつしか、訊いてはいけないことなのだろうと思うようになった。
 しかし、生まれた当時はまだ健在だった祖母や、母の兄一家の助けもあり、特に不自由のない平凡な平民の娘として育った。
 唯一非凡な点があるとすれば、少々周りの同年代の子供より賢い程度で、女ながら、将来大学にでもやってみるかと、祖母と伯父が冗談交じりに話していたのを何度か聞いた。
 しかし、祖母が亡くなり、徴兵された従兄に当る伯父夫婦の息子達が次々と戦死すると、一家に暗雲が立ち込めた。
 ある日、ランドカーで出かけた伯父夫婦が、運転を誤り車を大破させて同時に亡くなったのだ。自殺なのか、息子を無くした自失状態での運転ミスだったのか、最後まで不明のままだった。
 伯父が営んでいた小さな雑貨屋を、母親が引継ぎ、ヘレーネも中等学校に通いながら店を手伝ったが、生活は苦しく、過労で倒れた母は、そのまま息を引き取った。
 15歳で天涯孤独の身となったヘレーネの元に、突然、リッテンハイム侯爵家の使いの者だと名乗る男が現れた。
 ヘレーネは、この時初めて、自分の父親が、ウィルヘルム・フォン・リッテンハイムV世侯爵であることを知った。
 こうして、ヘレーネは生まれて初めて実父に会うことになったのである。
 場所は、首都の中心部からは外れた、一門の男爵家の邸が選ばれた。
 リッテンハイム家の上屋敷には、皇帝の皇女であるクリスティーナ妃がいることを憚ったのだろう。
 しかし、多くは期待していなかったとはいえ、ヘレーネと侯爵とは、やはり感動の親子対面にはならなかった。
 侯爵は、初めて会う娘を値踏みするように見ただけで、ヘレーネ自身には一言も声をかけず、側近に何事かを指示しただけで立ち去ったのだ。
 後に聞いた話によると、ヘレーネの母は、彼女が生まれる2年前、徴兵された父親が戦死し、家が経済的に苦しくなると、口減らしのような形でリッテンハイム候の下屋敷へメイドとして奉公に上がったという。
 そこで、当時まだ家督を継いでいない若様だったウィルヘルムに手篭めにされるような形で関係し、間もなく母はヘレーネを身篭った。
 当時はまだ先代が健在で、皇帝の第二皇女との縁談がある息子は、この不祥事に父親から大目玉を食らったらしい。
 既にお腹は大きく膨らみ、堕胎できない状況である。
 身の危険を感じたヘレーネの母は、自ら暇を取り、実家に戻って出産したのだった。
 元々期待していなかったとはいえ、この実父の態度には、さすがにヘレーネも落胆した。
 しかし、リッテンハイム候の指示は、思わぬもので、ヘレーネは、そのまま訪れた邸の男爵夫妻の養女となり、新たにフォンのつく名を名乗ることとなった。
 子供のない老男爵夫妻は、養父母というより、祖父母のような年齢だったが、皇帝の娘婿であり、今をときめく権門の侯爵の落とし胤を大切に扱ってくれた。
 学校も、それまで通っていた下町の公立の中等学校を退学し、首都の中心部に近い下級貴族の子弟が多く通うギムナジウムに転校した。
 親友となるベアトリス・フォン・アデナウアーともここで出会った。
 貴族令嬢として新たな人生を歩み始めた矢先、高齢の養父母が、辺境地発のウィルスが原因の感染症にかかり、相次いで亡くなると、ヘレーネは若干18歳で男爵家の女当主となった。
 家督を継いだ挨拶にリッテンハイム邸を訪れた際、ヘレーネはそこではじめてクリスティーナ妃とサビーネに引き合わされた。
 姉妹としての対面ではなく、未来の女帝陛下に対し、臣下としての礼をとらされたのである。
 これについても、元々平民として育ったヘレーネは、特に屈辱的には感じなかったが、サビーネを妹だと思うことは生涯ないだろうと思ったし、リッテンハイム候に対しても父親だという感覚はなかった。
 それでも、生活に困らなくなったのは素直に有り難く、ヘレーネは、ギムナジウムに通い通けたが、その矢先に、門閥貴族派と枢軸派の覇権争いが顕著化し、とうとう父のリッテンハイム候が、ブラウンシュバイク公らと共に、一門を引き連れてオーディンを脱出するという事態に至った。
 ザビーネも夫人も無論同行し、主だった一門も従ったようだが、ヘレーネのところには、遂にリッテンハイム候の意を受けた使者は現れなかった。
 ここに至ってヘレーネは、実の父親に完全に見捨てられたことを知った。
 最初から期待していなかったとはいえ、母も他の親族も全て亡くなった今、唯一の肉親であっただけに、やはりそれなりにショックは大きかった。
 だが、この時の彼女には、泣いている暇さえなかった。
 オーディンに置いてけぼりを食らった門閥貴族派の貴族達は、次々とローエングラム軍によって邸に踏み込まれ、捕縛されている。
 この時、邸にも代々伝わる工芸品にも興味のなかったヘレーネの行動は素早かった。
 彼女は、現金と持ち歩き易い僅かな宝石類だけを持ち出して、ローエングラム軍に踏み込まれる前に邸を出たのである。
 とりあえず身を寄せたのは、親友のベアトリス・フォン・アデナウアーの邸だった。
 アデナウアー家は、門閥とは程遠い、貧乏男爵家故に、どちらの陣営からも注目されることなく無事だった。
「たとえ踏み込んできても大丈夫よ。うちの父は、昔、ローエングラム候と戦友だったの。候がまだミューゼル姓だった頃、父が艦長を務める巡洋艦で航海長をしていたそうよ。いざとなれば、ローエングラム候に、アデナウアーの娘だと名乗って、候に敵対する意思などないことを証明してみせるわ」
 ベアトリスは、そう言ってくれたが、結局アデナウアー家にローエングラム軍が現れることはなかった。
 但し、その後政権を握った候の施政により、貴族特権が廃止され、階級を問わず公平に課税されるようになったので、邸を維持するのが苦しくなったそうだ。
 アデナウアー家は、毎年固定資産税の支払いの度に僅かな資産を切り崩し、それもあと数年で底をつく計算になる。ベアトリスが必死で勉強し、キャリア採用試験に合格しようとした理由もここにあった。
 リッテンハイム候が、ガルミッシュ要塞で爆死したというニュースを、ヘレーネは冷静に聞いた。
 しかし、その後に、要塞に逃げ込む退路を確保する為に、味方の補給部隊を砲撃したと知り、ヘレーネは、あらためて自分の父親の本性を思い知ったのだ。
 清廉な善人だとは最初から思っていなかったが、あまりの卑劣さに、自分があの男の血を引いているのかと思うだけで虫唾が走る。
 ヘレーネは、リッテンハイムと、今度こそ完全に縁を切るつもりで、元々名乗っていた母方の姓に戻し、ベアトリスと共に大学へと進んだ。
 彼女以外、ヘレーネの出生の秘密を知る者はいない。
 大学入学時も、採用試験の際も、全て今の名前で通したが、それが生まれた時から15年間名乗っていた名前故、嘘を吐いているという感覚はなかった。
 自分はまた、このまま平民として生きて、平民として幸せになればいい。これからは、それが出来る時代になるのだ。ヘレーネは、そう自身を奮い立たせた。
 
 帝国歴490年、ゴールデンバウム王朝最後の年となるこの年、大学の寮で生活するヘレーネの元に、やっとの思いで彼女を探し当てたサビーネの乳母と名乗るカルツ夫人が現れた。
TOPNEXT
footer
Copyright(C)2010 Jeri All rights Reserved.