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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(19)
 翌日、エルフリーデは、11時近くに起床し、着替えを済ませると、昼食兼用の食事を摂った。
『いけない。こんな生活していたら、どんどん堕落してしまうわ』
 少し反省すると、午後1時に、執事に車を出させ、帝都内の高級会員制スポーツクラブへ向かった。
 フロントで、会員証を提示し、今月いっぱいで退会し、10月からフェザーンの系列店へ再入会する手続きを申請した。それを済ませると、専用のロッカールームで着替え、専属トレーナーについて軽いストレッチを行った後、30分程マシーントレーニングをして久しぶりに、少しハードな古典バレエの個人レッスンを2時間程受けた。
 鏡に映る自分の体型を確認し、アラベスクのポーズをとる。
 体型の変化が著しい時期だから仕方がないが、身体の線が緩やかになり、少し重くなった気がした。
 何時にも増して熱心にレッスンに取り組み、心地よい汗をかいたエルフリーデは、シャワールームで身体を洗い、ジャグジーバスに浸かって筋肉を解した。
 その後、ローブを羽織ると、野菜主体の軽食を摂り、そのまま併設のエステルームへと向った。
 約三ヶ月ぶりに訪れた常連客を、店長はじめスタッフ達は揉み手で迎えた。
 旧貴族社会が崩壊して以来、こうした上流階級専門の場所は、どの業種も客足は激減している。一方で、まだ少ない新興富裕層の争奪戦は激化しており、業績悪化に伴う店の統廃合や、従業員のリストラも相次いでいた。
 エルフリーデは、曾祖母の代からのVIP会員として、14歳の時からだいたい週2回のペースでここに通っていた。
 旧社会に於いて、門閥貴族の娘達は、皆潜在的に皇帝の妃候補だった。故に、年頃になると、いつお声がかかってもよいよう、常に身体の手入れを怠らず、磨きをかけておく。それが、貴族女性の“仕事”だった。
 とはいえ、さすがに実際に、皇帝の寵を得て皇后なり寵姫なりになるのは、数千家もある貴族の中ではごく一部に過ぎず、多くは相応の相手と結婚して人の妻となる。
 そして、結婚後は、夫の愛を末永く得て、たくさんの子を授かり、家を繁栄に導く為に己の顔と身体にまた磨きをかけていくのだ。
 旧王朝末期には、そうした貴婦人達を相手に営業している美容サロンが、オーディン都内だけで数百店に上ったと言われていた。
 ローエングラム王朝に代わり、若い皇帝により後宮制度が全面撤廃された後も、上流夫人達のこうした習慣が急に廃れることはなく、財産の没収を免れた貴婦人達は、回数を減らしながらも依然としてこうした店を利用していた。
 エルフリーデは、施術台の上にうつ伏せると、二人のセラピストが付き、全身を高価な特殊ジェルでピーリングし、一旦洗い流した。剥き卵のようなつるりとした肌を、今度は四本の腕が、アロマオイルで丁寧にマッサージしていくと、心地よさにうとうとと微睡んだ。
 念入りなマッサージが終わると、仕上げに全身に海藻パックが塗られ、ラッピングが施される。その間にフェイシャルを行い、最後にシャワーで洗い流すと、まだ素のままでも充分に美しい若い肌が、更に滑らかに輝きを増していた。
 セラピスト達は、口々に褒め称え、「ご主人様もお悦びでしょう」などとあまり愉快でないお世辞を言うが、エルフリーデは、「そうね」と、反発を押し殺し、鷹揚に応えていた。
『これは、お母様に教わった貴婦人の嗜みよ。あの男の為にしているわけじゃないわ』
 心の中で自分に言い訳すると、着替えを済ませ、髪を整え、殆ど素顔のまま店を後にした。
 時刻は、既に午後7時を廻っていた。
 本当は、この後、親族達の住む別邸を訪問し、彼等と久しぶりに夕食を共にするつもりでいたが、何だか急に疲れが出てきたので、運転手にそのまま邸に帰るよう命じた。


 7時半を少し過ぎた時刻にロイエンタール邸に戻ったエルフリーデは、車を降りるや否や、玄関ホールが妙に騒がしいことに気づいた。
「お引取り下さい!」
「いくら待たれても、旦那様は、あなたにはお会いになりません」
 急いで車を降りて来た運転手が、重厚な取っ手に手を掛けると、扉が開ききらないうちに、常には温厚なシュヴァイツァー夫人と執事の怒気と困惑の入り混じった声が耳に飛び込んできた。
「奥様っ!」
 玄関扉が開かれ、エルフリーデの姿が現れると、使用人達の驚愕した視線が一斉に注がれた。
 家令から侍女達、下働きに至るまで、その場に居合わせた全員が、見られてはならないものを見られてしまったという顔でおたおたしている。
 邸を出る時、コールラウシュの別邸に寄ってくるので、帰りが遅くなることと夕食はいらない旨を伝えてあったので、彼女がこの時間に帰ってくることが意外であるのは当然だが、それにしても、この驚き様は、些か大げさな気がした。
 しかし、玄関ホールの中央で、執事に向って何か必死に訴えている若い女性と、エルフリーデとを交互に見ながら、おろおろと視線を泳がせる侍女達の姿を目にして、彼女は状況を理解した。
「お客様ですか?」
 エルフリーデは、ハンカチを握り締めながら今にも泣き出しそうな若い女性を一瞥してから、誰にともなく問うた。
「・・・い・・いえ、何でもございません、奥様。この方は、今、お帰りになられるところです」
 シュヴァイツァー夫人が、やっとの思いで苦しい言い訳をしようとしたが、エルフリーデがそれに応える前に、招かれざる客の方が早く口を開いた。
「お願いでございます。奥様には、失礼は重々承知しております。一度だけ、一度だけでいいのです。オスカーに・・・ロイエンタール閣下に、お目にかかりたいのです」
 二十代半ばと思しき栗色の髪の美しい女性は、切羽詰った口調で、自分よりも大分年若いかつての恋人の妻に懇願する。見れば、身なりも物腰も洗練されており、卑しからざる身分であることは一目瞭然だった。そんな女性が、プライドを捨ててやって来るのは、相当な覚悟を以ってのことだろう。
「申し訳ございません。門の外で旦那様がお帰りになるのをずっと待っていたようで、このままでは世間の目もありますので、つい、中に入れてしまいました。すぐに追い払います」
 執事が言い訳がましく耳打ちした。彼にしてみれば、エルフリーデが帰宅する前に、上手く言い含めて追い出し、使用人達へは緘口令を布くつもりでいたのだろう。
 ロイエンタールのかつての愛人と思われる目の前の女性は、流石に統帥本部の方は、警備が厳しくて入れなかったと見えて、恥を忍んで妻のいる自邸を訪れたようだ。
 大本営のフェザーン移転が決まり、あの男がオーディンにいるのもあと僅かと知り、決死の覚悟で最後の望みを託したのだと思われた。
「この方を応接室へお通しして。私が話を聞きます。それから、あの男に、すぐに帰るよう連絡をとりなさい」
 エルフリーデの有無を言わせぬ冷静な口調に、「しかし・・・」と言って一瞬反論しかけた執事も、黙って礼をして従った。
 エルフリーデにとっては、決して愉快な場面ではなかったが、それでも彼女は、このような場合の名家の正妻としての対応を充分に心得ていた。
 身分ある男には、常にたくさんの女性が集まるものである。正妻たる者は、沈着冷静を常とし、決して取り乱すべからず。これが、彼女が13歳の誕生日を迎えた日、生涯で50人以上もの愛人を囲った祖父に悩まされ続けた祖母から贈られた言葉だった。その祖母が、リップシュタット戦役後の政変を待たずに、息子夫婦の死を知ることなく急逝したのは、今から思えば幸いだった。
 エルフリーデは、そんな思いに耽りながら、応接室で女性と向き合った。
 女性は、フォンの付く氏名を名乗り、真っ先にエルフリーデに非礼を詫びた。つつましやかな物腰の、常識を備えた好感の持てる相手だと思った。こんな女性が、既に結婚した昔の恋人の家にやってくるのは、余程のことなのだろう。
 女性は、自分の家も帝国騎士であり、父親はエルフリーデも名前を知っている中堅の家電機器メーカーのオーナーだというから、金銭に困っているわけでもなさそうだ。
 喋り方にも教養が滲み出ており、高い知性を窺わせた。こんなことを考えるのは変だと思いながらも、エルフリーデは、自分よりも余程この女性の方がロイエンタールの妻に相応しいと思えた。年齢的にもずっと釣り合うし自然だ。
「それで、ご用件は?」
 エルフリーデは、抑揚のない口調で問うた。
 彼女よりも10歳近く年上と思われる女性は、数瞬、戸惑ったように美しい蒼い瞳を見開いた。
「お会いして・・・閣下にお伺いしたいのです。・・・それだけです。決して、奥様にご迷惑をおかけするつもりはございません」
 消え入りそうな声でそう言った女性は、それでも促されるままに、ここに来るまでの経緯を語った。
 彼女とロイエンタールとの出会いは、4年ほど前、当時少将だった彼が、戦術顧問を勤めた門閥貴族出身の提督が開いたパーティーで、彼女の方が一目惚れして付き合い始めたのだという。
 当時の彼女はまだ音大の学生で、そのパーティの余興でピアノを演奏したのだが、男性と付き合った経験もなく、まるで磁石に吸い寄せられるように惹かれた金銀妖瞳の青年士官に、有りっ丈の勇気を振り絞って近づいた。
 ロイエンタールは、意外なほどあっさりと彼女の好意を受け入れ、その日のうちに交際がスタートしたという。
 エルフリーデに配慮して直接的な表現は避けたが、要するに出会ったその日に身体の関係をもったということなのだろう。
 女性は、本来奥手の自分が、あの時は自分でも信じられない行動に出たと遠くを見るような目で語った。
 エルフリーデも、その言葉に納得した。元々帝国の男社会では、求愛は専ら男性側から女性側にするものという不文律がまかり通っており、まして仮にも貴族である未婚女性が、自分から男性にアプローチするなど、有り得ないこととされていた。そんなことをする娘がいるとすれば、余程奔放で型破りな女だろう。16のエルフリーデから見ても、目の前の女性は、明らかに奔放でも型破でもないタイプだった。むしろ、どちらかと言えば、親の決めた相手に何の疑問も抱かず素直に嫁ぐ典型的な良妻賢母型の貴族令嬢に見える。
 そんな彼女が、運悪く帝国軍一の漁色家の毒牙にかかってしまったようだ。
 結局、交際は僅か1ヶ月で、出征を前にしたロイエンタールから一方的に別れを告げられて終止符が打られた。
 女性は、「ロイエンタール閣下をお恨みしてはおりません」と言い、あの1ヵ月間は、自分の人生で最も幸せな時間だったと少し頬を上気させて呟いた。
「私は、全てをかけてあの方を愛しておりました。あの方も、私を愛していると仰って下さいました」
 その瞬間、エルフリーデは、胸に何か小さな棘のようなものが刺さったような気がした。
 彼女の言葉に嘘は無かったが、実際のニュアンスは少々異なる。
「あなたを愛しています」
 と、女達がロイエンタールに言う。
「ああ、俺も愛している」
 女を抱きながら、ロイエンタールは熱のない声で鸚鵡返しに、機械的な返答をする。彼にとっては、言葉遊びのようなもので、これも前戯や後戯の一つに過ぎない。だが、それを聴いた女は、皆誰もが彼の心を独占できたと思い込む。
 実際、ロイエンタールには、女たちの望む愛というものが理解できない。何を以って愛というのか、その存在自体が信じられなかった。つい先日までは。
 エルフリーデは、胸の奥に小さな痛みを感じながら、その正体が解らず、一方で、あの男にも人並みに女性を愛する気持ちがあるのかと、妙な感慨を持った。
 自分とは最初から愛のない政略結婚だったが、この女性に対しては、たとえ一時的にせよ、普通の男女間の恋愛感情を持ったのかと思うと、何か得体の知れないもやもやとした気持ちが喉を伝って湧き上がってくる。
「私は、今更閣下にどうして欲しいというのではありません。ただ、なぜ、あのように急に別れを告げられたのか、私の何がいけなかったのか、それが知りたいのです」
 女性は、彼女の本来の聡明さを示すように、次第にしっかりとした口調で話すようになっていた。
 この4年間、辛い経験が尾を引き、音大を卒業した後も鬱々として家に引篭もりがちだという。数々の縁談にも全く興味が沸かず、時間だけが経って行き、気が付けば、出世の階段を駆け上がったロイエンタールは、軍の頂点に立ち手の届かない人になってしまった。
 しかし、どうしてもあの、唐突な別れの理由を知りたいのだと彼女は言う。でなければ、何時までも自分はこのまま前へ進めないのだと。知って、更に傷つくことになっても、このまま彼がフェザーンへ移動し、一生会えないかもしれないことを思えば、それでもかまわないと。
「わかりました。先ほど、あの男に、すぐに戻るよう伝えましたから、帰りましたら納得のいくまで話して下さい。私は席を外します」
 エルフリーデは、妻の威厳を以って落ち着いて言い放った。彼女には、この女性の気持ちが判る気がする。自分も、エーリッヒの心を知りたいと今でも思っているのだから。
 だが、目の前の女性は、そんなエルフリーデの言葉に、少なからぬ衝撃を受けていた。
 彼女がロイエンタールの恋人であった短い期間、常に彼に気を遣い、彼の都合を優先し、彼の機嫌を損ねぬよう細心の注意を払って接してきた。彼女はそれを当然と思っていた。それは、ロイエンタールが過去やその後に付き合った、自分以外の他の女性達もきっと同じだったに違いない。特に彼が軍人として階級が上がるに連れ、その度合いは一層強いものとなったことだろう。
 そのロイエンタール元帥に対して、いかに妻とはいえ、まだ年端も行かぬ少女が、ヴィジフォン一つで、即職場を辞して家に帰れと当然のように促すのである。
 先ほど、執事は、旦那様は今は大本営移転の準備で忙しく、深夜にならなければ戻らないと言っていた。自分を追い払う為の口実にも聴こえたが、時期が時期でもあり、半分は本当だろうとも思える。果たして、本当にあのロイエンタールが、女に電話一本で呼び出され、仕事を放り出して帰宅するのだろうか? 
 彼女が半信半疑で応接室でエルフリーデと向き合っていると、時間を置かずして玄関にランドカーが横付けされる気配がし、主人が帰宅したことを知らせに侍女の一人がやって来た。
 エルフリーデが帰宅して、執事にロイエンタールへ連絡するよう命じてから、30分強しか経っていなかった。
 その事実だけでも、元愛人を打ちのめすに充分だった。
「またやっかいな事になってるそうだな。お陰で幕僚会議が明日に日延べだ」
 ぼやきともとれる声が聴こえると同時に、金銀妖瞳の元帥は、典雅な足取りで応接室のドアを開いた。
 彼の視線を真っ先に捉えたのは、かつての愛人ではなく、二日ぶりに見る幼妻の少し短くなった髪型だった。
 4年ぶりに男を目にし、思わずソファから立ち上がった女性の表情は複雑だった。驚きと、喜びと、怖れと、不安と、期待と・・・幾つもの感情が入り混じっている。
 だが、次の瞬間、漸くこちらを見た待ち望んだ男の口から出た言葉は、彼女を完膚無きまでに打ちのめした。
「お前は誰だ?」
 ロイエンタールは、悪意でなく、本当に咄嗟に目の前の女性の名前を思い出せずにそう言ったのだ。4年の歳月と、その間に付き合った40人近い女達の存在が、彼女の印象を風化させていたのだろう。
 その時、エルフリーデが、パシッとロイエンタールの左頬を平手打ちする音がした。
「恥を知りなさいっ!」
 大気圏最上層の青の瞳に、怒りの炎を滾らせながら、エルフリーデは、夫を睨み付けた。
 浴びせられた怒声に顔を上げたロイエンタールの瞳に、いつもの皮肉な冷たさはなかった。
「この人が、どんな思いでここに来たか、お前には解らないの? たとえ短い間でも、お前はこの人を愛していたんでしょう? ならば、お前はこの人にきちんと別れの理由を説明する義務があるはずだわ。それが、一度は愛した人への礼儀でしょう?」
 私のように、最初から愛していない相手と違って――――という言葉を最後に呑み込んでエルフリーデは、帝国元帥である夫を臆することなく睨め付けた。
 女と別れるのに、理由などない。愛が冷めたのではなく、最初からそんなものはなかったのだ。
 ロイエンタールはそう言おうとして、思い留まった。その言葉が、この気性の激しい幼妻の怒りを更に煽ることは、彼にも予測できたからだ。
 二人で話す時間を与える為、部屋を出て行こうとするエルフリーデに、しかし、夫のかつての愛人は、静かな口調でそれを制した。
「もう、結構ですわ」
 彼女はそう言って、夫妻に向って深々と礼をした。
「本日は、お騒がせして、申し訳ございませんでした。もう二度とお二人の前に現れることは致しません」
 彼女は完全に自分の敗北を悟ったのだ。
 いったい、宇宙のどこに、オスカー・フォン・ロイエンタールに平手打ちし、叱責できる女がいるだろうか。最早、彼が自分と別れた理由など何の意味も成さない。ただ一つ解ったことは、彼と共に生きるべき女が、自分ではないという厳然たる事実だけだった。
「フロイライン!」
 エルフリーデは、風のような素早さで部屋を出ていく女性を玄関まで追いかけて引き止めた。
「よろしいのですか?」
「ええ、奥様には、嫌な思いをさせてしまって、本当に申し訳ございませんでした。どうか、お幸せに・・・。私も、これで踏ん切りがつきました」
 美しい蒼い瞳に溢れる涙をハンカチで押さえながら、女性は本心からそう言うと、少し無理して微笑しようとした。
 エルフリーデも、その様に相手の固い決意を感じ取り、彼女の袖を掴んだ手を離すと、執事に無人タクシーを呼ぶよう命じた。


「すまなかったな」
 女が去った後、自室に引き上げたエルフリーデを訪ね、ロイエンタールは珍しく殊勝に詫びた。
「いいえ。夫の結婚前のことに腹を立てるほど、私は狭量ではありません」
 エルフリーデは、ドレッサーに向ったまま、マニュアルの台詞の棒読みするように応えた。
「そうか、伯爵夫人の寛大さに感謝する」
 その声が、いつもの冷笑を帯びて聴こえて、少しムッとした。
「いいえ、ただ、お前が羨ましいわ。私もお前のように、簡単に気持ちを変えることができたら、どんなにか、楽でしょうよ」
 そう・・・エーリッヒ様のことを忘れることが出来たら、どんなにか・・・
 しかし、エルフリーデが、そう言葉を呑み込んで発した小さな皮肉がロイエンタールの心に与えたダメージは、彼女の予測を超えて大きなものであった。
「それは少し買いかぶり過ぎだな」
 彼には、そう言うのが精一杯だった。
 本当は、もっと違う言葉を言わなければならない。彼女に伝えなければならないことがあるのだ。しかし、彼には、それ以上の言葉がどうしても見つからない。
 エルフリーデは、ドレッサーの鏡に写ったロイエンタールの表情が、今まで見たことのないものであった気がして、思わず彼の立つ入り口を振り返った。
 しかし、その時はもう扉が閉まる音と共に、彼の姿はなかった。
『なによ。そんなこと言っても、結局また来るくせに!』
 エルフリーデは、扉に向って毒づきながら、侍女を呼び、就寝の身支度を始めた。
 エステでフルコースの施術を受けたばかりなので、簡単にシャワーを浴びるだけで済ませた。
 夜着に着替え、侍女を下がらせると、寝台に潜り込み、あの男が再び扉を開けてやって来るのに備えた。
 身を潜めるようにじっとうつ伏せていると、毎夜繰り広げられる行為を身体が反芻し始める。
 熱い口付け、身体中を愛撫する大きな手、肌を吸う唇の感触。生々しい感覚に、目が冴えてしまうと、ふと、先ほどの美しい女性の姿が脳裏を霞めた。
 あの男は、あの女性にも、いや、他のたくさんの女性に対しても、自分にするのと同じことをしてきたのだ。頭では理解していたつもりだったことが、今になって形容し難い不快感となって襲ってくる。
 そんなことを思うのは、貴婦人としてあるまじきことと判っていても、どうしても止めることができない。せめて、早くあの男が来れば、またいつものように、頭が真っ白になって、何も考えなくていいのに・・・
 そんな風に考えてしまう自分自身を、エルフリーデはまた嫌悪する。
 しかし、彼女の煩悶を他所に、結局、その夜もロイエンタールは部屋を訪れず、エルフリーデは、半日掛りで磨き上げた身体を行使する機会に恵まれなかった。


 翌8月28日の朝、眠い頭を起こしながら、8時に起床したエルフリーデは、着替えと朝食を済ませると、ヒルダから貰った大学のデータに真剣に目を通し始めた。
 まず、フェザーンの大学入試事情を調べ、現在の自分の実力と、適正を正確に把握する必要があった。
 フェザーンは、以前から名目上は帝国領ということもあり、帝国公用語とフェザーン語とのどちらかを選択しての受験が可能だった。ただし、帝国語での受験を選択した場合、どの大学も、フェザーン語を外国語科目として受けるのが必須条件である。
 受験資格は、帝国よりもずっと緩やかで、年齢制限もなければ、下部教育機関を卒業していることも条件とされない。極端に言えば、天才的な頭脳があれば5歳児でも合格可能なのである。
 実際には、16歳〜20歳までに入学する者が全体の8割りを占め、最短で1年、最長8年で卒業していく。8年で卒業に必要な単位が取得できなければ、強制退学となり、学位は取得できない。こちらも実際には、3〜4年で卒業に至るケースが9割近い。
 エルフリーデは、まず、自分の適性と現時点での学力レベルを把握する為に、いくつかのオンライン模試を受ける手続きを行った。
 その後、場所をテラスに移して、いくつか目をつけた大学の過去問を解くのに没頭し始めた。
 昼食の時間になっても一向に動く気配のない女主人を気遣い、執事が気を利かせて、厨房にサンドイッチを作るよう命じた。
 エルフリーデは、侍女が運んできたオレンジジュースとサンドイッチに、暫く気づかない様子で、数学の問題と格闘していたが、やがて、左手でサンドイッチを摘みながら、相変わらず電子ノートを操作しては、正解するまで顔を上げる気配がなかった。
 午後3時を回った時、不意にテーブル脇に置いていた携帯端末が一瞬鳴って止まった。 メールが届いたことを知らせる合図に端末を開くと、驚いたことに差出人はロイエンタールだった。
 アドレスを教えた覚えはないのにと、少々不快になりながらメールを確認する。

 今夜、ミッターマイヤー夫妻が、奥方の手料理で夕食に招待して下さるそうだ。
 7時頃までにミッターマイヤー宅へ行っているように。
 俺もなるべく早くそちらへ向う。

 それだけだった。
 そっけない内容に、幾分憤慨しながらも、エルフリーデは、少し浮き立つような気持ちで端末を閉じた。
 夜会以来会っていないエヴァンゼリンにも会いたい。
 エルフリーデは、大学の資料を片付けると、東側の棟に増築されたトレーニングルームに向かい、軽いストレッチとマシーントレーニングで、昨日久しぶりの運動で痛めた筋肉を解した。
 その後、自室でシャワーを浴びた後、侍女達に、ミッターマイヤー家に招待されたことを伝えると、皆少し大げさなリアクションで喜んだ。
「まあ、それではご夫妻で初デートですわね」
「そうですわ。考えてみれば、初めてですものね。お二人でお出かけになるのは」
 どうやら、昨夜の件を気に掛けていたらしい。
 嬉々として着て行く服選びで、あれこれ意見を出し合う侍女達に、エルフリーデも柔らかく微笑して、次々に並べられるワンピースやドレスを眺めていた。
 最終的に、質素なミッターマイヤー元帥の個人宅へということで、あまり華美にならないよう、最近誂えたサーモンピンクのワンピースに決めた。
 少し早目の午後6時過ぎに支度を済ませて玄関ホールに降りると、執事までもが機嫌よく「こちらをお持ち下さい」と言って、年代ものの白ワインを手土産に持たせた。
 午後6時半、エルフリーデを乗せたランドカーは、ミッターマイヤー家の前に横付けされた。
 帰りはロイエンタールの車で帰ることになるので、運転手は女主人を降ろすと、そのまま車を邸に引き返させた。
「ようこそ、伯爵夫人・・・いえ、エルフィー」
 エルフリーデが取っ手に手を掛けるより早く、内側から玄関扉が開くと、エヴァンゼリンの優しげな笑顔が迎えた。
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