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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(18)
「ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
 墓地で、エルフリーデは、ヒルダが近づくと、一昨日の件を真っ先に詫びた。
「いいえ、ご無事でお帰りになられて何よりでしたわ」
 ヒルダは、慈愛のこもった蒼碧色の瞳を細めた。
『この子は、会う度に美しく、艶やかになる・・・』
 そう思いながら、ヒルダは初めて目にする化粧気のない清楚な服装の伯爵夫人の中に、本人も気づいていないだろう色香を見出していた。
「フロイラインも、どなたかのお墓参りですか?」
「ええ、母と・・・従弟の」
 憧れの先輩の姿を見つけて、嬉しそうに問い掛ける後輩に、ヒルダは後の一言に少し憂いを含めて穏やかに微笑んだ。
「伯爵夫人も、今、お帰りになるところですか?」
「はい。家族と親族の墓に参りました」
 心なし、トーンの落ちるエルフリーデの言葉に、ヒルダは、何か思い立ったように申し出た。
「あの・・・もし、お時間がありましたら、私にもご親族のお墓にお参りさせて頂けませんか?」
「え? ええ・・・どうぞ、こちらへ」
 エルフリーデは、少し戸惑ったが、今来た道をヒルダと一緒に引き返した。無残に処刑された者達の死を悼んでくれる人が、一人でも多くいるのはありがたい。
 処刑されたリヒテンラーデ一族達の墓標の並ぶ前で、ヒルダはゆっくりと膝を折った。
 目線が、墓標の位置に来ると、じっとそこに刻まれた文字に見入る。
 没年を現す右側の数字は、全て488と彫られており、生年を現す左側の数字に目を遣ると、300代末期から450〜60代の数字に混じって、478、475という明らかに幼い命を絶たれたことを示す数字がいくつかあるのが痛ましかった。
 ヒルダは、ふと、アンネローゼを訪ねた山荘で出会った、コンラート・フォン・モーデル少年のことを思った。
 リッテンハイム候に与したモーデル子爵家の生まれでありながら、ほんの偶然が重なってキルヒアイスの庇護下に入り、リップシュタット戦役後も処罰を免れ、アンネローゼに仕える少年。当時12歳だったという彼に罪が課せられることがなかったことは、素直に喜ばしい。だが、あのコンラート少年と、この墓の下に眠るリヒテンラーデ一族の少年達と、いったいどれ程の違いがあるというのか? そう考えると、ヒルダは無力感に苛まれる。
「面白い時代が来るわ。活気に満ちた時代が。停滞しているより余程いいわ」
 あの日、そう言って帝都の空を埋め尽くすローエングラム軍の艦艇を見上げたヒルダは、新たな時代への期待に胸を膨らませていた。すぐ翌日、その裏で、ついこの前まで自分と同じ世界で生きてきた多くの人々が、粛清されることなど思いもせずに。
 それを知った時、知らなかったこととは言え、ヒルダは自分の無邪気な残酷さに、心中深く恥じ入っていた。
 年端もいかぬ少年達が処刑される場面を実際に見ていないラインハルトは、この件をすっかり忘れ、政権を握ると同時に連座制を廃止した。おかげで、キュンメル男爵の身内である自分も父も、罪に問われることなく、変わらず要職に就いている。
 彼の断行した改革の成果に比べれば、リヒテンラーデ一族の少数の人々の死など、小さなことなのかもしれない。しかし、ヒルダには、どうしてもそう割り切ることができなかった。
 ラインハルトがキルヒアイスの死を悼んだ心と等しく、罪無くして処刑された幼い命を悼む心もまた、確実に存在したはずなのだから。
 女性と10歳以下の子供は助命されたとはいえ、10歳の我が子を処刑された母親の心中は如何ばかりであったことか。
 ヒルダは、いつか機会を見て、この現実をラインハルトに伝えなければならないと考えていた。それが、門閥貴族でありながら、唯一人皇帝の側近である自分の仕事だと認識していた。
「昨日、ベルゲングリューン大将と、ビューロー大将が、訪ねて下さいました」
 エルフリーデは、先ほど自分が置いた花束が置かれたエーリッヒの墓標を見詰めて静かに言った。そして、昨日ベルゲングリューン等から聞いたことを淡々と話し始めたのだ。話すことで、今一度自分の気持ちを整理したかったのかもしれない。
「ごめんなさい・・・」
 話が終盤にさしかかると、ヒルダのブルーグリーンの瞳がみるみる曇り出した。溢れそうになる涙を抑える為、瞑目したが、それでも目尻から伝うものをそっと指で払いながら顔を背けた。
「いいえ」
 エルフリーデは、それだけ言うと、黙って皇帝首席秘書官を見詰めた。
 こうして、現政権の中枢に、粛清された人達の為に、泣いてくれる人がいることで、いくらかでも救われる気がした。同時に、この男勝りと言われている才気溢れる伯爵令嬢の優しさが伝わってきて嬉しかった。


 墓地を出た二人は、それぞれの地上車に戻り、車を連ねて40分ほど走らせると、郊外のとある邸の前に降り立った。
 元は名のある貴族の別邸だったと思われる広い庭を持つ木造三階建ての広大な南欧風建築は、現政府に接収された後、主に心的外傷を抱えた戦傷者の長期療養施設となっていた。
 150年に及ぶ戦争と、旧王朝の非合理な復古主義によって、一部を除いた医学、科学分野は著しく退化し、傷病者の治療は、長年もっぱら外傷の治癒のみに重点が置かれ、心に深い傷を負った者達は見捨てられてきた。
 こうした問題にいち早く着目し、旧暦時代末期には確立していた心理学と医学を融合させた治療を施す施設の新設を、ヒルダは民政省と協議して、皇帝の裁可を得たのである。
 彼女の進言により設立されたこうした施設が、現在首都星内に数十箇所あるらしく、年内にも他星系に拡げたい意向とのことだった。
 ヒルダは入り口で身分証を提示し、施設内を見学させてもらいたい旨を伝えると、すぐに院長が飛んできた。
 エルフリーデは、ヒルダに続いて建物に入ると、出入り口部分以外、元の内装に殆ど手を加えていない邸内を見渡した。
 病室は全部個室で、ここの入院患者は現在50名程であるという。
 責任者に案内されると、ヒルダとエルフリーデは、状態のいい患者数名の部屋を訪ね、ヒルダが二言三言当たり障りのない会話を交わしていく。
 外傷のない彼等は、傷病者には見えず、一見すると加療の必要性を感じない。
「今は、ああして普通に見えますが、皆、時々思い出したように発作が起こるのです。一度暴れ出すと、数人罹りで押さえ込まなければならないので、気を抜けないのだそうです」
 一通り見回り、階下の応接室で向かい合うと、ヒルダが落ち着いた口調で説明した。
 エルフリーデは、黙って頷いたが、正直、今一つ実感が沸かない。
 それよりも、なぜ、深窓の貴族令嬢である彼女のような立場の女性が、このような末端の人間の細かいところにまで関心を払うのか、そちらの方が不思議だった。
「先ほど、二階の部屋で会った、3人目の白髪の青年のことを覚えていますか?」
 ヒルダが、そんなエルフリーデの心を見透かしたように問う。
「ええ・・・元気そうで、話もしっかりしているし、とても病人には・・・」
 エルフリーデは、先ほど二階の個室で面会した、年齢不詳の男性を思い出した。白髪の多い頭髪は、かなりの年配者にも見えるが、まだ張りのある顔は、意外に若いのかもしれないと思わせるアンバランスな容姿の男だった。少し痩せ気味な点を除けば、いたって健康そうにも見えた。見回った患者の中で、ヒルダと一番長く会話し、以前からの知り合いのようだった。
「彼は、まだ27歳なのです」
「え?」
 エルフリーデは、飲みかけていたアイスティーのグラスから思わず口を離して視線を起こした。
「代々医者の家系で、我が家とは遠縁に当ります。今でも、彼のお父様がマリーンドルフ家の主治医をしています。彼自身は、3年前まで、帝立病院に勤務する救急救命医だったのですが、当時、私は親類縁者の間を駆け回り、一人でも多くローエングラム候にお味方するよう説得に当っていました。彼もそれに呼応して、志願して軍医となったのです」
 ヒルダは、鎮痛な面持ちで淡々と説明する。
「・・・・彼の、軍医としての最後に仕事が、リヒテンラーデ一族の処刑に際し、一部の人間を薬殺したことでした」
 エルフリーデの成層圏の青の瞳が、衝撃で見開かれる。
 ヒルダは堪えきれずに、ハンカチで目を抑えた。
 エルフリーデは、一瞬、視界が暗転するような錯覚を覚えた。
 あの人が・・・あの人が、ヨハンやアルベルトを・・・
 つい先ほど会ったあの穏やかな青年が、残忍な処刑の実行者であるという事実が、俄かには信じられなかった。
「あの日以来、毎夜処刑された子供達が夢に現れるのだそうです。今でも彼は、医師としての良心と、軍属として命令を遂行する義務との間で苦しみ続けています。元は、黒い髪の割腹のいい明るい青年でした。この2年間、何度も自殺未遂を起こして、心も身体もボロボロなのです。彼だけではありません。銃殺刑の射手の何人かも、こことは別の施設に入院しています」
 エルフリーデは、唇を半開きにしたまま、言葉が出なかった。
「彼は、志の高い人でした。一人でも多くの命を救いたいとの純粋な思いから医師になったのです。私の説得があったとはいえ、彼自身も、ローエングラム候のお創りになる新しい帝国に希望を見出したからこそ、軍に身を投じたのです。その彼が、ローエングラム候の命令で、少年達を薬殺することは、耐え難かったことでしょう・・・」
 ヒルダは、それでもこの残酷な現実を直視するように言葉を続けた。
「私は、今、フェザーン移転前に、何とか陛下に、この施設を視察して頂くよう、スケジュールを調整しています」
 事務的な口調に戻ったヒルダを、エルフリーデはあらためて見詰める。
 やがて、エルフリーデは、思い立って静かに立ち上がった。
「フロイライン・マリーンドルフ、すみませんが、もう一度、私をあの方に会わせて頂けませんか?」
 ヒルダは黙って了承すると、担当医に断り、再び二人で二階に上がっていった。
 ドアをノックすると、すぐに返事があり、ヒルダに続いてエルフリーデが部屋に入った。
 青年は、窓際のカウチに腰掛け、読書をしていたが、思いがけない二人の再訪に、少し戸惑って立ち上がった。
「レオポルド、あらためてご紹介します。こちらは、コールラウシュ伯爵夫人です」
 ヒルダがそう言って、後方のエルフリーデを彼の視界に入るようそっと身をずらすと、青年の顔は見る見る青ざめた。
 先ほどは、終始ヒルダの後に隠れ、直接言葉を交わさなかったので気づかなかったらしいが、目の前の地味な服装の少女は、紛れもなく世に知られた人物だった。そして、彼女が、リヒテンラーデ一族の人間であることは、誰もが知るところだ。
 青年の瞳に影が射し、瞳孔が大きく開かれた。カウチの端を掴んでいた手がぶるぶると震え出し、顔は正気を失って蒼白となった。
「はじめまして。先生に一言お礼を申し上げたくて、フロイライン・マリーンドルフに連れてきて頂きました」
 そう言って、穏やかに会釈するエルフリーデに、レオポルドと呼ばれた青年は、訳が解らず身構えた。身内を殺された者から、礼を言われる筋合いはない。
「先生のお陰で、親族の多くが苦しまずにヴァルハラへ旅立つことができました。お辛いお仕事をなさったこと、お察しいたします」
 エルフリーデは、心からそう言うと、もう一度深く頭を垂れた。
 親族が処刑されたと聞いた時の彼女は、誰も彼もが憎かった。
 処断したラインハルトは勿論のこと、その実行を指揮した人間も、実際に処刑に手を下した者も、全員殺してやりたい気持ちだった。
 心ならずもロイエンタールと結婚し、彼が処刑を指揮した当人であると知っても、その気持ちに変わりはなかった。特に、10歳を越えたばかりの幼い少年達のことを思う度に、胸が張り裂けそうだった。何も知らず、突然死刑を言い渡され、さぞ怖かっただろう、痛かっただろう、苦しかっただろうと。彼らの断末魔の叫びを、夢の中で何度も聴いては、背中に冷たい汗を感じて目を覚ましたものだった。
 しかし、昨日、ベルゲングリューン等から、現場の特別なはからいにより、安楽死が選択され、彼等の死が安らかであったことを知ると、処刑の実行者達に対する憎しみは消えていった。逆に、一族を直接拘禁、処刑したディッタースドルフ等ロイエンタール艦隊の提督達にとっても、命令とはいえ、不本意な任務だったことを知って胸が痛んだ。
 目の前の、誠実そうな人柄の滲み出る医師にとって、幼い命を奪うことは、どれ程耐え難かったことだろう。だが、彼がやらなければ、別の誰かが同じ思いをしたであろうことは、想像に難くない。辛い役目を一身に引き受けた青年に対して、今はただ感謝の気持ちしかなかった。
「どうか、もう、ご自分をお責めになりませんよう。一日も早いご回復をお祈りしています」
 エルフリーデは、肩を落とす青年の背にそっと手を置くと、青い瞳に涙を溜めて労わった。
「ああっ・・・」
 青年は、ゆっくりと床に崩れると、その瞳に熱いものを溢れさせた。
 2年間、葛藤と現実逃避を繰り返してきた虚ろな目に生気が宿り、堰を切ったように泣き出した。
『皇帝は万能ではなかったが、望遠鏡が顕微鏡としての能力を兼ね備えていないからといって批判すべきではない』
 とは、メックリンガー提督の言葉だったかと、ヒルダは述懐する。
 確かに、ラインハルトが断行した数々の改革により生まれた幸福は、そこから漏れ落ちたほんの一滴の不幸を遥かに凌駕するものだった。
 現にこうして、旧体制では支配階層の人々にとって何ら利益を生み出さない施設が、時間を置かずして設置されたことが、そのことを如実に物語っていた。
 以前は当たり前だった階級による訴訟や税制の不公正も撤廃され、人々は公正な司法制度の下に暮らせるようになった。
 500年余りの間、特権階級の搾取と支配に苦しんできた帝国の大多数の国民にとって、新皇帝の成し得たことは、少々の罪を補って余りある。
 しかし・・・と、ヒルダは思う。
 如何に少ないとはいえ、そこから漏れた人々を切り捨ててよいものか?
『ならば、私は、陛下の顕微鏡になろう』
 一日、ヒルダは決意した。
 不遜と言われても構わない。思い上がりかもしれないとは承知している。でも、誰かが皇帝の傍で、その役割を担わなければならない。ならばその役目を自分に課してみよう。それが、これまで生きてきた世界を捨て、簒奪者に与した者の責務だと。
 ヒルダとエルフリーデは、真夏の陽射しの中、漸く暗淵から這い上がろうとする青年を、暫くじっと見守っていた。


 療養施設を出た二人は、マリーンドルフ伯爵邸に向った。
「急で何もございませんが、ゆっくりしていらして」
 ヒルダは、エルフリーデをテラスに案内すると、冷たい硬水を運んできたメイドに、少し遅い昼食を運ぶように指示した。
 玄関脇の小サロンでは、家令のハンス・ステルツァーの妻が、供をしてきた侍女と運転手の相手をしながら彼等にも軽食を振舞っている。
 急拵えという割には、マリーンドルフ邸のランチは美味だった。
 ヒルダが好きだというアボガドとスモークサーモンのサラダを前菜代わりに、トマトの冷製スープに白パン、鴨肉のローストというメニューだった。ロイエンタール邸のものと違い、味付けも盛り付けも家庭的だったが、かえってそれがエルフリーデには懐かしく、嬉しかった。
 食後に、近くの有名菓子店から取り寄せたというザッハトルテと、コーヒーが出ると、ヒルダの方からフェザーン移転の件を話題にした。
「伯爵夫人もいらっしゃるなんて、心強いわ」
 お世辞ではなく、ヒルダはそう言った。
 今の軍や政府の中枢にいる人間の中に、少なくとも表面上は、女だからという理由だけで、彼女を蔑視する者はいない。しかし、如何に有能であろうと、軍事政権の男社会の中で、紅一点で働くストレスは並大抵のものではない。それでも、今までは家に帰れば父と生まれた時からずっと世話をしてくれている家令夫妻が居てくれたが、正式な遷都令が出るまで、フェザーンではそれも叶わない。彼女も将官待遇の一人として、軍が接収したホテルの一室に寝起きすることになるだろう。不自由はないだろうが、以前にも増して精神的疲労は大きいと予想された。そんな中で、プライベートで付き合える帝国人女性が近くに居てくれることは、一時の癒しになるだろう。
「私の方こそ、フロイライン・マリーンドルフがご一緒だと知って、どれ程心強いか・・・・私、ヴァルハラ星系から出たことがないので、あちらには、友人もおりませんし・・・」
 エルフリーデは、心底心細そうに呟いた。
「あら、伯爵夫人には、誰より頼りになるご主人がいらっしゃるじゃありませんか。それに、お邸の方々も何人かは同行されるのでしょう?」
 励ますようにな先輩の言葉に、エルフリーデは小さく首を振った。
 ロイエンタールとの結婚生活など、いつまで続くものか判らない。親身に仕えてくれる使用人達も、自分が彼の妻であればこそだ。エルフリーデはそう考えていた。
 ゴシップ誌や、ゴシップネタを扱ったソリヴィジョン番組などを見るのは、貴族令嬢としてはしたないと言われて育った彼女だが、世の中の風潮が変わって報道規制が緩くなり、結婚して自由時間が増えると、嫌でも夫の女性遍歴が耳に入ってくるようになった。
 ロイエンタールが漁色家であることは、結婚前から聞いていたが、次々と知らされる事実は、エルフリーデの想像の範囲を遥かに超えていた。夫が過去に関係をもったとされる女の中には、彼女も知っている女優やモデルも何人かいて、その殆どが一方的に捨てられたにも関わらず、まだ彼を愛しているとインタビューで答えているらしい。
『愚かだわ。あんな男に』
 エルフリーデは、そう思いつつ、現実問題として、今、彼に捨てられて一番困るのは他ならぬ自分だという事実に歯噛みする。
 ロイエンタールの女との付き合いは、長くて数ヶ月、短いと数日で終わるという。
 自分は結婚して法的に保護されているとはいえ、国家の元勲である彼が皇帝に特例を願い出れば大概の無理は通ってしまうだろう。現に彼等の結婚自体が、新法での年齢制限の特例という一般庶民が同じことをしようとすれば、数ヶ月は申請に要するであろうことを、皇帝の鶴の一声で即座に実現させてしまったのだ。
 どういう気まぐれで、あの男が自分と結婚する気になったのが、今でも判らないが、冷めた時は自分も一方的に別れを告げられ、それで終わりになる。
 あの男が、自分にいつ飽きるのか、まだ判らないが、過去の事例からして、そう遠くない未来であることは、確かな気がする。そうなった時、自分には名ばかりの爵位以外、何も残っていない。
 年齢に似合わないリアリストのエルフリーデは、冷静に(彼女にとっての)現実を見据えていた。
「私には、フロイラインと違って、何一つ自信の持てるものがありません。悔しいですが、今はあの男に頼るしかありません」
 珍しく弱音を吐いたエルフリーデを、ヒルダは不思議そうに見詰める。
「そんな・・・・先日の夜会では、あんなに仲がよろしかったではありませんか」
「それは・・・だって、お客様の前で、いつもの調子で喧嘩するわけにもいかないでしょう?」
「喧嘩って・・・!?」
 呆気に取られる先輩に、エルフリーデは、失言を自覚したが、既に遅かった。
「顔を合わせると、3回に1回くらいの割合で口論になります。あの男は、意地悪で捻くれてて、私のこと嫌ってるんです」
 少し自棄気味に捲し立てるエルフリーデに、ヒルダは絶句してしまった。
 あの、端然と隙のない元帥が、年齢が半分の幼妻相手に、喧嘩するというのが、全く想像できない。ただ、自分を含め、殆どの他者には、緊張感を強いるタイプの男が、この歳若い女性には、気を許しているのだとかわって、微笑ましかった。
「で・・でも、それだけお互いに、本音をぶつけ合える間柄ということではありませんか?ほら、喧嘩するほど仲がいいって、昔から言うでしょう?」
 一個艦隊に勝る智謀を誇る皇帝首席秘書官のあまりにも平凡な台詞に、今度はエルフリーデの方が、くすりと笑いを漏らした。
「アイゼナッハ夫人にも同じことを言われましたわ」
「そうでしょう? 時には喧嘩することがあっても、その分、優しくして下さることもおありでしょう?」
「それは・・・ない・・・ですわ・・」
 と言いながら、エルフリーデは語尾を濁した。一昨日の夜から昨日の朝にかけての記憶が蘇る。
 あの夜、あの男の行為がいつもより優しく感じられたのは、気のせいだろうか? 朝、初めて二人で目覚め、ベッドの上で一緒に朝食を摂った時に感じた温かさは、錯覚だろうか?
 急に黙り込んでしまった後輩に、ヒルダは親しみを込めた瞳を向けた。そして、何故かわからないが、急に後輩が羨ましく思えたのだ。
 だが、建国の功臣としての彼女は、この事態に別の思いを抱いていた。
 ヒルダにとって、ラインハルトの幕僚達の中で、ロイエンタールは、オーベルシュタインと並んで、常に警戒心を解けない存在だった。
 特に、しばしば不穏な言動を発するロイエンタールに対しては、オーベルシュタインと違い、ラインハルトが友誼を感じているだけに、危険な相手と認識していた。
 バーミリオン会戦の最中、ミッターマイヤーを動かしてハイネセンを急襲する作戦を提案した時の不安が、今でも忘れられない。
 ヒルダにしてみれば、どこか厭世的なロイエンタールが、私生活で安息を得たことにより、彼の才幹と器量を前向きな方向に活かしてくれることを願った。
 その為には、この伯爵夫人の役割は、存外に大きい。
 もっとも、本人にその自覚は、全くないようだが・・・
「伯爵夫人が、何一つ自信の持てるものがないなんて、そんなことをお考えになる必要はありません。あなたは、あなたが思っていらっしゃる以上に、ロイエンタール元帥に対する影響力の大きな方です。それは、この帝国にとっても重要なことですわ」
「私が・・・?」
「ええ、名将の中の名将でいらっしゃるロイエンタール元帥が、私生活で充足感を得られ、お心健やかに陛下にお仕えすることは、帝国に平和と安寧を齎します」
「私が、あの男が暴発しないよう歯止めになると?」
 そう言って、怜悧な瞳を輝かせたエルフリーデに、ヒルダは一瞬、最後の政敵となった老人の鋭い眼光を見た気がした。
『ああ・・・やっぱりこの人は、リヒテンラーデ一族なのね』
 エルフリーデは、そんな先輩の感慨には気づかず、思い出したように尋ねた。
「それより、フロイラインと皇帝陛下とは、本当にご結婚の意志はないのですか?」
「え?」
 意表を突かれたヒルダは、思わず無防備な表情を晒してしまった。
「私の友人達も皆言ってます。フロイライン・マリーンドルフこそが、皇妃に相応しいと」
 エルフリーデは、予てからの思いを再度口にした。
 エーリッヒや親族の少年達までを処刑した皇帝ラインハルトに対しては、一生彼を許す気持ちになれないが、一緒に彼等の死を悼んでくれた女性が、その配偶者になるなら、新王朝の存在を許せる気がしていた。
 恨みを残すなと遺言したエーリッヒの気高い心にも添うことになる。
 また、エルフリーデもヒルダも感知していなかったが、当時の有名無実化した帝国の貴族社会の中で、マリーンドルフ伯爵令嬢の立后を望む声が日増しに高まりつつあった。
 新皇帝は、軍部でも内閣でも徹底した実力主義の人材登用を断行しており、内閣と軍首脳陣を合わせても、爵位のある貴族出身なのは、マリーンドルフ親子と宮内尚書だけである。
 世継ぎ問題を懸念している宮内省は、何度か然るべき令嬢を皇帝の寝所に差し向けたらしいが、事が成就したという話は遂に聴こえてこなかった。
 その為、旧貴族達の中に、このままだと皇帝は、幕僚や閣僚だけでなく、下手をすると皇妃まで平民の女性を選ぶのではないかという不安が広がっていた。
 たとえ名ばかりの爵位になったとは言え、それを拠り所にしている者達にとっては、これは看過できない問題であった。
 彼らにしてみれば、皇帝自身は、下級貴族出身とは言え、旧王朝時代に爵位を授与された身であり、軍事的、政治的に絶対的な実績が存在し、何より国民の絶大な支持の下に君臨している。しかし、皇帝を補佐した実績も高貴な血筋もない平民女性を、突然皇后として崇めるのは、貴族ならずとも抵抗があった。
 皇帝は、華麗な容姿に似合わず、異性関係に於いては極めて淡白で、信頼し傍に近づける女性と言えば、首席秘書官のマリーンドルフ伯爵令嬢くらいである。
 ならばいっそ、彼女が皇妃であるなら、旧門閥貴族達の面子も立つというものだ。
 しかも、ヒルダには首席秘書官として、建国の功臣の一人であり、申し分のない実績がある。
 こうして、当人の与り知らぬところで、ヒルダの皇后待望論は、一人歩きを始めたのである。
「この前も申し上げた通り、私と皇帝陛下との仲は、君主と臣下としてのもの以外ございません。陛下が、ローエングラム公の時代からお仕えして、もう2年になります。私とあの方とは、伯爵夫人とロイエンタール元帥の何倍もの時間を一緒に過してきたのです。それ以上の仲になるなら、とっくになっていることでしょう」
 ヒルダは、自分自身に言い聞かせるように、穏やかに、淡々と言った。
 その顔が、少し寂しそうに感じられて、エルフリーデは黙って頷いた。
「それより、伯爵夫人は、これから勉学の方はどうなさるおつもり?」
 ヒルダは、笑顔を作って話題を変えた。
「そのことなんですが、ずっと考えてました。子供の頃から、女学院の上級科まで進むものとばかり思っていましたが、入学を拒否されてしまいましたし、フェザーンに行くなら、どの道行かれないので、いいんですが・・・」
 エルフリーデは、以前からの悩みを打ち明けた。
 上流貴族女性の学歴として、高等科卒業くらいの肩書きは欲しかったし、秀才、才媛揃いのリヒテンラーデ一族の人間として、義務教育課程修了程度では矜持が保てない。
「ならば、フェザーンで大学に進学されてみては?」
「え?」
 ヒルダの思いもかけない提案に、エルフリーデは、目を剥いた。
「そんなに驚くことではないわ。元々伯爵夫人は優秀でいらっしゃるのだし。これからは、帝国女性の大学進学率も上がるはずです。フェザーンの大学は、帝国よりリベラルで、幅広い知識を学べるそうです。その分、レベルも高く、大変でしょうが、伯爵夫人ならきっと大丈夫ですわ」
 ヒルダの言葉に、エルフリーデの青い瞳は、みるみる輝きを増していく。
『大学・・・大学・・・そうだわ、何で今まで考えつかなかったのかしら。そうよ、大学に行って、知識を身につければ、私だってフロイライン・マリーンドルフのようになれるかもしれないわ。名ばかりの伯爵夫人ではなく、私自身に価値のある人間になれるんだわ。あの男に頼らず、一人でだって生きていけるのよ』
 大学というものを、些か過大評価している面はあるものの、エルフリーデは、一気に自分の可能性が拡がる気がしていた。
「ええ、フロイライン・マリーンドルフ。私、フェザーンで大学に行きたいです」
 きっぱり言い放つ後輩に、ヒルダは、それならばと、現在のフェザーンの大学事情や入試情報をエルフリーデの携帯端末に転送してくれた。
「一口に大学と言っても、フェザーンには首都中心地だけでも、100校以上の大学があります。それぞれレベルも特色も違うので、まずは自分に一番あった学校を探して、それに向けて入試の準備をするとよろしいわ」
「はい。ありがとうございます」
 エルフリーデは、自分の端末に送られてきた情報に目を輝かせて応えた。
 その後ヒルダは、「ちょっと待ってて下さい」と言って、10分ほど席を外すと、何かのソフトらしい小さなチップを数個持って戻ってきた。
「私が入試の時に使った参考書と、大学時代に学んだフェザーン語の教科書なの。よろしかったら、使ってみて。その端末にも、学校で使う電子ノートにも接続できるはずだわ」
「ありがとうございます。大切に使わせて頂きますわ」
 エルフリーデは、感激しながら電子参考書と教科書を大事そうに手に取ると、憧れの先輩に向って溌剌とした笑みを返した。


 マリーンドルフ邸で、思いがけず長い時間を過したエルフリーデは、午後6時過ぎにロイエンタール邸に戻った。
 ロイエンタールは、遅くなるらしく、夕食はいらない旨の連絡があったという。
 エルフリーデは、一人で夕食を摂ると、自室で早速ヒルダからもらったフェザーンの大学についての資料に目を通した。
 フェザーンの大学は、思った以上に多岐に渡っており、入試制度も複雑なことが解った。何よりもまず、フェザーン語自体を完璧にしておかないことには、入試にも合格できないし、入学後の授業にもついていけない。
「やっぱり、最初の1年は、語学スクールと予備校に通った方がいいかしら・・・」
 資料と睨み合いながら、考えを巡らしているうちに、何時の間にか時計は午後10時を廻っていたので、エルフリーデは、急いでバスルームに入り、夜着に着替えた。
 どうせ、あの男はまた、夜中に帰ってきて、この部屋を訪れるに違いない。
 そして、長い時間をかけて欲望を満たすと、自分の部屋へ帰って行くのだ。だから、早めに就寝し、少しでも睡眠をとっておこうとエルフリーデは考えたのだ。
 しかし、妙なことにそう思うとなかなか寝付けなかった。
 日付が変わる時刻を過ぎても寝付けず、何度も寝返りを打っていると、午前1時を過ぎてロイエンタールが帰宅した気配がした。
 エルフリーデは、寝台の中でじっと息を殺していた。
 心拍数を増していく胸の高鳴りを覚えながら、きつく目を閉じて体を丸めた。
 間もなく、あの男がやってくるはずである。重い樫の扉を軽々と開け、寝室に入ると、無遠慮に寝台に向ってくる。そして、ケットを剥ぎ取ると、容赦なく彼女を支配する行為を始めるのだ。
 だが、それから1時間経ってもロイエンタールは現れず、午前3時を過ぎても樫の扉が開く気配がなかった。
『なによっ・・・! これじゃ、まるで私、あの男を待っていたみたいじゃない』
 エルフリーデは、ガバッと寝台から上体を起こすと、部屋の入り口を睨み付けた。
 自分が何時の間にか、何かを期待していたことをどうしても認めたくなかった。
 邸内はしんと静まり返り、深夜の静寂が虚しく漂っている。
 エルフリーデは、夏用の薄いケットを被ると、再び寝台に伏せた。
『ふん、来ない方がいいわ。かえって清々するわ』
 そう強がってみせたエルフリーデだったが、結局その夜は空が白み始める時刻まで寝付けなかった。
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