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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(13)
「まだ連絡はないのかっ!?」
 ロイエンタール邸では、警察からの報告を待つ邸の主人が、焦燥の色を濃くしながら、使用人達に問い質した。
 エルフリーデが邸を飛び出してから、既に3時間が経過していた。
 誘拐、拉致、暴行・・・
 捜索の進展のないまま、じりじりと時間だけが過ぎる中、邸内全ての人間の脳裏に最悪の想像が去来する。
「旦那様。たった今、憲兵隊からの報告で、どうやら奥様は、大通りに出られてから、無人タクシーに乗られたことがわかりました。支払いをしたマネーカードの履歴から、下車した場所までは判明しましたので、今、その周辺の街頭監視カメラを重点的に調べているとのことです」
 通信室から出てきた執事の報告に、ロイエンタール以下邸の人間達はひとまずほっとした。
 女主人に忠実なシュヴァイツァー夫人や侍女達は、既に涙目で、ひたすらエルフリーデの無事を祈っている。
「ああ・・・奥様。おかわいそうに・・・」
「どうかご無事で・・・」
 一番若い侍女が耐え切れずに泣き崩れると、つられるように他の侍女達も嗚咽を漏らしはじめた。
 再会を楽しみにしていた親族達に手ひどく拒絶されたエルフリーデに対し、皆が同情していた。
 皆、口にこそ出さないものの、邸の主人に非難の念を送っており、邸中に重苦しい空気が漂っていた。
 しかし、程なくして憲兵隊から齎された朗報が、邸内の暗雲を一気に晴らすこととなった。
 エルフリーデが無人タクシーを降りた地域を管轄していた憲兵隊の一部隊が、彼女を発見し、無事保護したというのである。


 夕焼けが帝都の空を染め始める頃、オープンカフェで、紅茶を飲みながらミルフィーユを食べ終えたエルフリーデは、急に眠気を覚えて、小さく欠伸を噛み殺した。
 そう言えば、普段ならお昼寝をしている時刻である。
 結婚以来、「あの男」が地方視察などで邸に戻らない日を除き、ほぼ毎日寝不足の日が続いていた。
 ポプランとユリアンは、目の前の姫君のそんな手の造形の美しさにさえ、見惚れてしまった。
 貴族社会が、幾世代にも渡って培ってきた独特の美を体現するまだ幼さを残す少女は、単に美しいだけの市井の女には、絶対に出せない高貴なオーラを放っていた。
 白磁のような肌は、一点の曇りもなく、大気圏最上層の青の瞳は、余りにも峻烈過ぎて、簡単には人を寄せ付けない。
 最高級のビスクドールを少し面長にしたような顔立ちは、道行く人々の視線を釘付けにする。
 しかし、左手薬指のプラチナの輝きと、時折見せる憂いを含んだ眼差しが、彼女が既に何者かに所有されていることを如実に物語っていた。
 いったい、どんな男が手折ったのだろうか。
 没落した家の為に、皇帝の姉君のように、権力者に泣く泣く抱かれたのだろうか。
 二人があらぬ想像を脳内で繰り広げる前で、エルフリーデは、そんな二人には無頓着な様子で、眠気を払いながら、初めて見る街の景色に視線を遣っていた。
「そうか。わかったぞ。そういうことか・・・」
 ふいに、ポプランは、何かに思い当ったように、呟いた。
「何が、わかったんです? ポプラン中・・・いえ、ヘル・ポプラン」
 ユリアンの問いに、同盟軍の撃墜王は、人差し指を立てて一説ぶった。
「いや、あのものすごい美人の皇帝首席秘書官が、いつもあんな色気のない格好をしてる理由がさ」
 ポプランの言葉に、他の3人は同時に視線を彼に注いだ。
 帝国に着いてから、毎日のように首都星内の観光(ポプランの場合は、それに加えたガールハンド)に忙しい彼らだったが、それでも、ホテルでソリヴィジョンのニュース映像くらいは、たまに見る機会はある。
「なんだって、あの女秘書官は、わざわざあんな男みたいな格好をするのかね」
 皇帝や軍に関するニュース映像に、欠かさずと言っていいほど映る「帝国で二番目の美人」の首席秘書官について、彼はいつも不満そうにそうぼやいていたのだ。
 フレデリカのような生粋の軍属なら軍服もいたし方ないが、せっかく私服を認められている立場なのに、あれだけの美女が、わざわざ髪型も服装も男のようにしていることが、彼には至極勿体無く見えた。別に、大仰なドレスを着て、髪を高々と結い上げろと言っているわけではない。普通にワンピースなりスカートスーツなり着て、適度に女性らしい髪形をすれば、どれ程美しいことだろう。そうすれば多分、目の前のまだ半分子供のような少女よりも、遥かにそそられるに違いない。
 しかし、ポプランは、実際に深窓の貴族令嬢という存在を目の前にして、その考えに若干の修正を余儀なくされた。
「あの格好は、虫避けさ」
 彼は自信たっぷりに言い切った。
「考えても見ろよ。あんな美女が、普通に女の格好して同じ職場にいたら、周りの男は仕事にならんって」
「ふっ、確かにそうかも知れませんね」
 あまりにもポプランらしい発想に、ユリアンも苦笑しながら同意した。
「いや、それだけじゃないな。あれは、きっとカイザーのご意向だろう。お気に入りの美貌の秘書官に、男どもがちょっかい出さないようにな」
 そう言って片目を瞑ったポプランに、エルフリーデもあえて反論しなかった。
 自分と皇帝の間に特別な関係はないと言ったヒルダの言葉を信じていたが、毎日一緒にいるのだから、そのうち進展しないとも限らない。
 現に先日の夜会では、ラストダンスを踊っていた。
 4人が、そんな他愛のないおしゃべりに興じていると、ふと周囲で何やらひそひそと人々の囁き合う声が耳に入った。
 そのうち、他のテーブルにいたカフェの客の一人が、自分の携帯カメラを彼等に向け、シャッターを切った。それを合図にするかのように、他の客達も次々と撮り始めた。
 彼等の被写体は、明らかにエルフリーデだった。
 開明政策のおかげで、報道規制が緩和されたことが、こんな形で裏目に出たらしい。
「おい! 随分と無粋な真似をしてくれるじゃないか!」
 余りの無遠慮さに、ポプランが声を荒げて立ち上がった。ユリアンも、カメラを向けている客達に向けて、鋭く非難の視線を送っている。
 この時になってはじめて彼等は、目の前のお姫様が、ただの貴夫人ではないらしいことを認識した。
 だが、当のエルフリーデは、いったい何が起こったのか理解できず、きょとんとした顔でそんな彼等を見上げていた。
 その時だった。
 カフェの前に、数台の軍用車が、一般車両や通行人を蹴散らす勢いで横付けされると、憲兵隊の軍服を着た数十名の兵士達が、ばらばらと一斉に店内になだれ込んできた。
 ユリアン等は、一瞬、自分達の正体がバレたことを懸念したが、たかが3人の不法入国者に、この大掛かりな出動はいくら何でも有り得ないと、即座にそれを頭の中で否定した。
 兵士たちは、写真を撮っていた客達一人一人を取り押さえ、データを回収すると、ユリアン一行等3名それぞれに対し、二人づつ兵士が左右を拘束した。一瞬、身構えたポプランが、この状況を見極め、両手を挙げて抵抗の意思のないことを示すと、ユリアンとマシュンゴの二人もそれに倣った。
「コールラウシュ伯爵夫人でいらっしゃいますね?」
 エルフリーデの前に、部隊の指揮官らしき中年の男が進み出て敬礼した。
 男は、「憲兵隊のハウマン准将であります」と名乗ると、ユリアン等3人を連行するよう部下に指示した。
『やばいな』
 3人は同時に背筋に緊張が走った。万が一本当の身分がバレたら、即座に逮捕され、捕虜収容所送りだろう。
「待って。あの人達は、悪い人達じゃないわ。私を助けてくれた人達です。乱暴は許しません」
 凛とした口調に、仮にも将官である目の前の憲兵は、一瞬たじろいだ。本来なら、いかに伯爵夫人とはいえ、軍属でもない彼女に命令される筋合いはないのだが、それでも夫である元帥に配慮したのか、何事かを指示された部下の一人が、後方でどこかに連絡をとっている。
 ユリアンは、この際、それに便乗して、自分達は偶然通りかかったフェザーン人の旅行者で、怪しい者ではないことを必死に弁明して見せた。エルフリーデが引ったくりに遭ったのを助けた経緯を丁寧な口調で説明し、できれば巻き込みたくはなかったが、背に腹は替えられず、ワーレンの名前も出して、地球での掃討作戦に協力して、一緒にオーディンまで来たことも話した。
 傍らで聞いていたエルフリーデも、その通りだと言って、ユリアンを擁護した。
「失礼致しました。伯爵夫人には、このままお邸までお送り致します。お客人方もご一緒にとのことであります」
 少々の間の後、部下から耳打ちされたハウマン准将が向き直って言った。
 エルフリーデは、このまま大人しく帰るのは不本意だったが、かといってこれ以上どうすることもできず、仕方なく、憲兵が案内したランドカーに乗り込んだ。
 拘束を解かれ、「怪しい外国人」から「お客人」に格上げされたユリアン等3名も、そのすぐ後ろの車に乗るよう促され、素直に従った。
「あの・・・、僕達はこれからどこへ連行されるんですか?」
 街の中心部方面に向って走るランドカーの中で、ユリアンは目の前で威儀を正して座る憲兵に、出来るだけ下手に出て訊いた。
「連行ではありません。伯爵夫人をお助け頂いたお礼に、お邸にご招待するよう元帥閣下より仰せつかっております」
 大尉の階級らしい軍服を着た憲兵は、無表情に答える。
 他人を自宅に招待するというのに、相手の意向も都合も確認せずに、有無を言わさず「お連れする」のは、彼等にとっては、強制連行以外の何者でもない。
 やはりこれが支配階層の帝国人との意識格差というものだろうか? それとも本当に正体がバレて、着いたらやはり収容所だったなどということになるのだろうか?
「元帥閣下?」
 ポプランとユリアンがハモる形で同時に問い返した。
「伯爵夫人のご夫君、統帥本部総長オスカー・フォン・ロイエンタール元帥閣下です」
 その答えに、3人は今度こそ絶句し、ユリアンとポプランは同時にごくりと唾を呑み込んだ。
 元々オーディンに来た目的は、観光を口実に、敵情視察の気持ちも強かった。少なくともユリアンは。それが、その相手側の最高幹部、いや、軍事独裁政権の現帝国に於いては、実質上のナンバー2と言っていい人間と、いきなりご対面となるわけである。これを、思わぬ僥倖と考えるべきか、それとも、あっさり正体がバレる恰好の場面となり、最悪の不運となり得るのだろうか?
 いずれにしろ、こうなっては、もう3人に逃げ場はない。
 ここは度胸を決めて、同盟にも皇帝と並んで女性ファンの多い帝国軍一の色男とご対面する覚悟を決めた。


 前後を軍用車に警護されながら、二台のランドカーは、小宮殿と見紛うばかりの大邸宅の門を静かに潜った。
 既に陽は落ち、間もなく夜の闇が迫る時刻である。
 正面玄関の車寄せに横付けされた車のドアが開くと、前の車からエルフリーデが優雅な所作で降りるのが見えた。
 ユリアン等3名も、同じ車に乗ってきた憲兵と一緒に、そのすぐ後に続いた。
 間髪を入れずに、両開きの重厚な扉が開くと、邸の使用人とおぼしき人々が一斉に出迎えた。
「奥様。よくご無事で・・・」
 侍女達が、喜色満面でエルフリーデに駆け寄り、抱きしめんばかりに取り囲む。
「よく戻ったな」
 ホールの奥から、どこか皮肉な響きのする低い男の声がすると、周囲の憲兵達は、整列し、一斉に背筋を伸ばして敬礼した。
 ユリアン等は、反射的に自分達も敬礼しかけて、慌てて手を下ろし、声の主に対して、硬直したまま上体を45度程傾けてお辞儀をした。
 顔を上げると、視線の先には、軍のデータベースとニュース映像でよく目にする金銀妖瞳の美丈夫の姿があった。
『この人が・・・』
 ユリアンは、あらためて噂に高い敵将の姿を眺めた。
 知勇の均衡に優れた用兵家でありながら、あのシェーンコップを相手に互角の白兵戦を演じたという歴戦の勇者がそこに居た。
 色の異なる両目からは、その感情を読み取るのは困難で、形の良い唇の端を少し上げた笑みは、やや冷たい印象を与える。
 皇帝ラインハルトが太陽神なら、この男は魔王か、冥界神か。
 実物を間近に見ると、とにかくその存在感に圧倒さた。同時に、この男こそが、あの浮世離れした美しさの伯爵夫人の夫だという事実が、パズルのピースが合わさったように、納得できた。
 ユリアンは、「姫君と従者のようだ」と評された、同じ歳で同じ稀代の用兵家で、同じ元帥の階級でもある自分の保護者とつい比べてしまう。
「卿等には、世話になったと聞いている。フェザーン人の口に合うかわからんが、夕食の用意をさせている。礼代わりに食べていってもらいたいが、どうかな?」
 貴公子然とした豪邸の主人の誘いに、ラフな普段着姿の3人は、一瞬躊躇したが、エルフリーデがそれを後押しした。
「そうして頂戴。ここのコックの腕は確かよ」
「あ、ああ。じゃ、お言葉に甘えさせてもらいますかね」
 ポプランが、辛うじて年長者の意地を見せ、3人を代表する形で応じた。
 ユリアンとマシュンゴも同意した。
 考えて見れば、今、彼等は同盟人として、未曾有の体験をしようとしているのだ。このチャンスを逃す手はない。
 しかし、「今夜は、3人でロイエンタール元帥の家で夕食をご馳走になってきたんだ」と言ったら、コーネフとマリネスクは、素直に信じるだろうか。ユリアンは、ふとそんなことを考え、ほくそ笑んだ。
「卿等もご苦労だった。憲兵総監には、後で私からも礼を言っておこう」
 ロイエンタールが、同行してきた憲兵隊員達を労うと、彼等は再敬礼し、即座に踵を返して邸を去っていった。
 いかめしい制服組がいなくなったことで、ユリアン等は、幾分気が楽になった。
 後は最後まで、目の前の高名な男の前で、フェザーン商人を演じきるだけだ。
「お疲れでございましょう。さ、お部屋でお支度を」
 エルフリーデは、シュヴァイツァー夫人に促されると、ツンと夫を無視して脇を通り過ぎ、二階の自室へ一旦去った。
 ユリアン達は、執事に案内され、女主人の支度が整うまで、サロンで邸の主人と軽く酒を酌み交わすことになった。
「卿は未成年のようだが、このくらいなら構わんだろう」
 そう言って、高級そうな白ワインを振舞われると、つまみのチーズの盛り合わせを運んで来た執事が、客人達に、何か苦手な食材はないか尋ねてきた。
 ポプランが大げさに、「雑食なのがフェザーン人だ」と言うと、執事も微笑し、今夜のメニューは、奥様の好物を揃えましたと言った。
 そんなやり取りの中、ユリアンは、急速に冷静さを取り戻すと、向かいの椅子に座るロイエンタール元帥から必死に何かを得ようと試みた。
 帝国同盟を通じて、最も攻守のバランスに優れた名将と、直に対話できる機会など、生涯を通じて二度とないかもしれない。
 しかし、ほんの少しの会話の中で、即座にその考えが甘かったことに気づかされた。
『この人には、全て見抜かれている』
 ユリアンは、短い時間の中で、何故か確信を持ってそう思えた。
 ロイエンタールは、3人を一目見た瞬間から、同業者の勘というのか、その身のこなしが、訓練を受けた軍人特有のものであることを感じ取っていた。
 彼等の話す帝国公用語は流暢だが、ネイティブには程遠いし、第一帝国の軍人が、ざわざわフェザーン人を名乗る必要はないから、必然的に彼等は同盟人ということになる。
 しかし、エルフリーデを引ったくりから救ったという彼等に、作為的なものは感じ取れなかったし、何よりも地球から彼等を同行したワーレンの顔を潰さない為にも、ここは知らぬふりをしてやることにした。
『やっぱり敵わないか・・・まあ、当然と言えば当然か』
 見逃してもらっていることを敏感に感じ取ったユリアンは、心中で密かに白旗を揚げた。


「旦那様は、それはそれは、奥様のことをご心配なさっておいでだったんですよ」
 自室のバスルームで軽くシャワーを浴び、髪を洗って出てきたエルフリーデに向って、侍女の一人は、少し誇張気味に言った。
 何とかして、主夫妻の仲を取り持ちたかった。
「あの男が心配なのは、私じゃなくて、自分の立場でしょ」
「そんなことはございません。旦那様は、本当に奥様を心配していらっしゃいました」
 突き放した言い方をしたエルフリーデに、もう一人侍女がドレッサーの前で女主人の髪にドライヤーを当てながら否定する。
「別にいいわ。あの男とは、元々好きで結婚したわけじゃないんだし」
 取り付く島もないエルフリーデの言葉に、侍女達もそれ以上何も言えなかった。
 実際、若い侍女達にとっては、この夫婦の実態は、理解しかねる部分があった。
 エルフリーデの方は、流刑になっていた一族の赦免という目的があっての結婚だから、元々愛情がないと言われても仕方がないとも思えるのだが、この結婚に何のメリットもないはずのロイエンタールが、漁色家を返上してまで結婚に踏み切った理由は、やはり美しい令嬢を気に入ったからとしか考えられない。そのくせ、彼女達の知る限り、ここの主人が妻へ何か優しい言葉をかけるのを聞いたことがないし、妻の方も夫を好いている言動が皆無だった。しかし、その割には、夫は邸に戻る日は、必ず妻の寝室を訪れている。果たして、あの魔力とも言うべき美しい男に毎夜抱かれて、心が動かない女がいるだろうか?その辺が、夫婦生活の短かった歳若い未亡人達には、どうにも理解できないでいた。
 だが、エルフリーデの4倍以上の年月を生きてきたシュヴァイツァー夫人にだけは、二人の複雑な気持ちが、解っていた。
「大丈夫ですよ。旦那様のお心は、奥様お一人のものです」
 シュヴァイツァー夫人は、クリーム色の髪を結い上げる侍女の傍らで、エルフリーデの首筋に薄っすらと残る赤い痕をそっと指で摩りながら、静かに言った。
 エルフリーデは、反論しようとして、振りかえろうとしたが、丁度髪を上げている最中で、身動きがとれない。
 やがて、髪が結い上がると、簡単な化粧を施し、侍女が候補に用意した数着のドレスの中から、ラベンダー色のイブニングドレスを今夜の衣装に選んだ。結婚するに当って贈られた、先代夫人のものの中の一着だったが、エルフリーデは、まるで最初から彼女の為に誂えたかのように着こなした。
 アクセサリーには、シンプルなパールのネックレスを選ぶと、今宵のヒロインが完成した。
「奥様。よろしいでしょうか?」
 部屋を出ようとした時、珍しく家令の声がした。
 侍女が扉を開けると、70を越える最高齢の使用人は、恭しく礼をして、音も無く扉を閉め、室内へ一歩進んで再び慇懃に頭を垂れた。
「この度の旦那様のお言葉、奥様のご心痛は、いかばかりかと、お察しいたします。オスカー様をご幼少時からお育てした者として、私からも深くお詫び申し上げます」
 老人は、そう言うと再び平伏した。
「お前が謝ることではないわ。あれが、あの男の本心なのでしょう」
 エルフリーデは、諦めたように応えた。最早怒る気にもなれなかった。ただ、自分とあの男との間に、好意的な感情が生まれないことを再認識しただけだった。
「それは違います!」
 老家令が、いつになく強い口調で否定すると、エルフリーデ達は一瞬沈黙してしまった。
「旦那様は、時々、その・・・何というか、言葉選びを間違えておしまいになることがおありなのです。その為に、ご本心とは違う意味に誤解されてしまうのです。今回の件も、決して奥様を傷つけるおつもりで言ったお言葉ではございません。あの方は、あれで不器用なところがおありで・・・」
 必死に主人の弁明をする老人に、エルフリーデも何と言っていいか判らなかった。
「奥様。どうか、どうか旦那様をお見捨てなきよう。この通りでございます」
 老人は更に、懇願するように訴え、再度深く腰を折った。
「おかしなことを言うのね。逆ではなくて? 私があの男を見捨ててもあの男は少しも困らないはずだわ。でも、私があの男に離縁されれば、私も私の一族も強力な後ろ盾を失うことになるのよ。それくらい私にだって解っているわ」
 エルフリーデは、悔しいが認めざるを得ない事実を初めて口にした。これまでずっと、表面では、自分は伯爵夫人で、あの男は下級貴族だという態度をとってきたが、それが虚勢に過ぎないことは自覚していた。
「いいえ。もし、奥様に見限られたら・・・その時は・・・その時は、旦那様は破滅です」
 老人は、先代夫人の衣装を身に着けた歳若い女主人に、低いが、はっきりとした口調で言い切った。
 母に目を抉られかけ、父に疎まれて育った男が、今また漸く見つけた“母”にまで去られたら、今度こそ完全にその心は死ぬだろう。老人にはそう思えた。
 エルフリーデは、その言葉の意味を完全に咀嚼できずに、ただ暫し呆然と老人を眺めていた。
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