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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(11)
 朝、乳母に起こされて目が覚める。
 何も変わらない、いつもと同じ朝だ。
 制服に着替えて部屋を出ると、階下の食堂には、父と母が笑顔で待っていた。
「おはよう、エルフリーデ」
 父の穏やかな声が迎えてくれる。
「おはようございます。お父様。お母様」
 14歳のエルフリーデは、両親に朝のあいさつのキスをすると、テーブルに着く。
 幼い弟と妹は、まだ夢の中だ。
 柔らかい春の陽射しが、部屋に射し込み、焼きたてのパンや、紅茶の香りが一家の団欒を彩る。
 優しい父、美しい母、かわいい弟と妹、親身に仕えてくれる忠実な召使達。
 豊かで温かな家庭。そのぬくもりは、永遠に続くかに思われた・・・・。
 ああ・・やっぱり、あれは、夢だったんだわ。
 お父様もお母様も、死んでなんかいないわ。
 昨夜は悪い夢を見たのよ。
 この私が、16歳で下級貴族の男の妻になるだなんて、そんなことがあるわけないわ。
 私は、エーリッヒ様と結婚するのよ。侯爵夫人になるのよ。
 早く、学校に行かなくちゃ。昨日の課題は、ちゃんとやってあるんだから・・・


 次の覚醒でエルフリーデの視界に映ったのは、ロイエンタール邸の自室寝台の天蓋の装飾だった。
 夢だったのはあちらの方で、こちらが現実。
 今、ここにいるのは、14歳の少女ではなく、16歳の人妻。
 一族の為に、愛のない結婚をし、夫となった年の離れた男に、毎夜嬲り者にされている。
 夫は部屋を去ったが、身体中にはっきりと情交の痕が残っている。
 もう二度と戻れない。温かい光の中にいた、無垢な自分には。
 エルフリーデは、それでも気丈に顔を上げると、寝台から身を起こし、電子呼び鈴で侍女達に起床を告げた。
 ロイエンタールは朝早く出仕して行ったという。
 顔を合わせないで済むのは、幸いだと思った。
 あの男を見ると、何故かいつも気分が悪くなる。
 胸の奥がつくつくと痛み、身体が熱くなって頬が高潮し、次第に動機が激しくなり、呼吸が少し苦しくなる。触れられると更に微熱さえ感じるのだ。
 それが、どのような感情に起因するものなのか、エルフリーデには判らなかった。
 ただ、自分とあの男とは、互いに嫌悪感を抱き、決して相容れることのない存在故の症状なのだとしか考えられなかった。


 8月8日、皇帝ラインハルトから、将来の遷都も視野に入れた大本営のフェザーン移転が布告さた。
『さて、あの女はどうするだろうか?』
 ミッターマイヤーと連れ立って新無憂宮の回廊を歩きながら、ロイエンタールは、成り行きで結婚してしまった気位ばかり高い女のことを思い浮かべていた。
 移動まで一ヶ月強という日程もあって、今回の移転に家族を伴う者は少ない。多くの軍関係者は、正式に遷都令が布告され、現地の生活にある程度慣れてから呼び寄せるつもりでいた。
 先だって8月30日に進発するミッターマイヤーにしても、愛妻をオーディンに残して行く予定である。
 ロイエンタールにとって出征や異動は、女と別れる為の格好の口実で、それは妻と言えども例外ではなかった。彼には任官以来、帰還から新規の出征までの短い期間を女と付き合うというサイクルが出来上がっており、それは、長くて数ヶ月、短いと数日で終わる。
 だが、今回はなぜかエルフリーデがどうしたいか、意思を確認する気になった。そして、彼女がフェザーンまで付いてくると言うなら、まだ暫くこの茶番に付き合ってもいいと思ってもいた。今のところ、彼は、幼な妻の瑞々しい肢体を気に入っている。
 恐らく、もうオーディンに帰ることは当分ないだろう。いや、もしかしたら一生帰らないかもしれない。エルフリーデが同行しないとなれば、自分達の関係も事実上ここで終わる。
 フェザーンでの住居は、階級に応じて邸宅を借り上げたり、接収したホテルの部屋をあてがうなど、それなりに不自由のないよう図られるはずだが、言葉も生活様式も異なる中、オーディンと同等の生活環境を得ることは難しいと思われる。
 果たして、深層育ちの令嬢が馴染めるか、ロイエンタールは、多少意地の悪い興味が働いた。


「そういうことなんでな。一応、お前の希望を訊いておく。ここに残りたいならそれでも構わん」
 夕食の席で、ロイエンタールは、ヴィンテージものの赤ワインを嗜みながら、まるで隣町への引っ越しのように、フェザーン移転の件を告げた。
 テーブルの向かいで、ラズベリージュースを飲みながら前菜に手をつけていたエルフリーデは、絶句した。
 生まれてから今まで、宇宙の中心と信じてきたオーディンが、銀河帝国の首都星でなくなるのだ。彼女にとっては、天地が逆転するような衝撃だった。
 家族を亡くしたとはいえ、オーディンには、彼女のこれまでの人生の全てがあった。
 数少ない友人も、親族もいる。
 ただ、叔父のゴットルプ子爵と、ゲルラッハ子爵は、職務上当然家族と共にフェザーンに赴くことになるだろうし、宮内尚書のベルンハイム男爵と侍従長のハッセルバック男爵も同様だろう。
 しかし、シャフハウゼン子爵夫妻をはじめ、フェザーンに足場を持たない友人知人の多くは、オーディンに留まると思われ、年配のシュヴァイツァー夫人や、子供のいる他の侍女達にも同行を強要はできない。
 フェザーンについての知識は、一通り習ったし、フェザーン語の成績も良く、会話にも自信があったが、たった一人で見知らぬ星に行くのは、やはり心細かった。無論、自分に対して愛情のない夫など全くあてにできない。
 だが・・・・と、エルフリーデは再度思考を巡らせる。
 もし、自分がこのままオーディンに留まれば、この男との関係もそこで終わる予感がした。それは、不思議と苦い感覚で、胸の奥で男を見ている時とは違った種類の痛みを伴った。
「俺は9月17日に発つ。お前がフェザーンへ来るなら、手配を済ませなければならんから今月中に決めておけ」
 エルフリーデの逡巡を見て取ったロイエンタールは、それだけ言うと席を立った。


 8月24日祝日、エルフリーデは、フェザーン行きの返事を保留したまま、この日を迎えた。
 最後まで流刑地に残っていたリヒテンラーデ一族の人々が、この日オーディンへ帰ってくるのだ。航路上の宇宙嵐の影響で、当初の予定より約一ヶ月遅れでの帰還である。

 エルフリーデの赦免運動がなければ、恐らく三年後の新皇帝即位による恩赦まで、尚その身を流刑地に留められる運命であった人々である。その彼等が、ここで自由の身となったことが、銀河の歴史に甚大な影響を与えることになろうとは、この時は誰も知る由はなかった。

 エルフリーデが、彼等を出迎える為に宇宙港の貴賓室に着いた時、既に予定より一時間程早く定期便が到着していた。
 数名の顔見知りの婦人達と二年ぶりの再会を喜び合う中、エルフリーデは、彼女等の中に在るべき一人の人物を目で探した。
「ツィタ夫人は、ここに着いてすぐ、お一人で出て行かれました」
 近くにいた女性が、エルフリーデの様子を察して遠慮がちに伝えた。
「え? どうして? 一人でいったいどこへ行ったの?」
「さあ・・・・私どもにもわからないのです。皆で、せめてフロイライン、いえ、コールラウシュ伯爵夫人がいらっしゃるまでここで待つように説得していたのですが、どうしても行くところがあるからと・・・」
 別の親族の女性が当惑気味に説明する。
「そう・・・」
 エルフリーデも、困惑しながら頷くしかなかった。
「もしかしたら、ご実家にお帰りになったのでは?」
「まさか、もう身寄りはないとあの方ご自身も言っていたのだし・・・」
 その場にいた人々が、そんな会話を交わし合う中、エルフリーデの脳裏に、けぶるような微笑を湛える黄金の髪と青玉色の瞳を持つ美しい女性の姿が浮かんだ。
 周囲から、『ツィタ夫人』の名で呼ばれていた四十前後の女性は、ファルツ侯爵家の側室であり、エーリッヒの生母であることは、公然の秘密であった。
 元は下級貴族の娘らしいという以外、侯爵家の奥に納まる以前の経歴も本名さえも不明の人物であるが、当時のゴールデンバウム王朝下の貴族社会では、こういった女性の存在は、さして珍しくもなかった。
 早世したエーリッヒの父は、名門ファルツ侯爵家の世継ぎに相応しく、若くして皇族から正妻を迎えた。時の皇帝フリードリヒ四世の兄リヒャルト大公の遺児である公女だった。しかし、高貴な血筋の妻は、生来の虚弱体質で、結婚した翌年、長女アウグスチーネを出産すると体調を崩し、床に就くようになった。
 アウグスチーネには、その血筋から、フリードリヒ四世の皇子の妃として冊立され、未来の皇后となる期待がかけられた。その為、ファルツ侯爵家としては、家督を継ぐ男児の誕生を熱望していた。そこで、正妻の了解の下、側室が立てられることになったのである。
 当時の帝国貴族が、妻以外の女性に子供を産ませる場合、大別して二つのケースがあった。一つは、使用人に手をつけたり、外に愛人を作るといった個人的嗜好によるものと、もう一つは、家名存続の為に世継ぎを儲ける目的で、正妻も公認の側室を迎えるというものだった。後者の場合、産まれた子供は、正妻の産んだ嫡出子として典礼省に届けられる。
 側室には、若く健康で美しい下級貴族や没落貴族の娘が選ばれることが多く、そういう娘の斡旋を専門とする業者も存在していた。
 ツィタ夫人も、そんな斡旋業者が世話した帝国騎士の娘だったという。
 ファルツ家に来た時は、まだ十代の少女で、事業が傾いた家の為に側室に売られたらしいという話だった。
 美しく気立ての良い娘は、程なくして若様のお手がつき、翌年エーリッヒを産んだ。正妻が病弱だった為、出産後も家族未満使用人以上という立場でファルツ家に留まり、子供達の守役を務めた。
 立場を弁えた賢い女性で、アウグスチーネとエーリッヒを分け隔てなく養育して、正妻の信頼を得ていた。正妻亡き後、一門の子爵家から嫁いできた継室にも頼りにされ、継室の産んだ次女ヨーゼファも彼女によく懐いていた。
 エーリッヒとは表向き親子の名乗りを上げることは許されなかったが、ファルツ侯爵家のみならず、リヒテンラーデ一族の人間は皆この事実を承知しており、彼女の存在を認めていた。
 エーリッヒと老齢の侯爵が処刑された後も、進んで流刑地へ同行し、一族の女性や子供達の支えとなっていた。
 決して母とは名乗れない我が子の成長だけが、唯一の生き甲斐だったに違いないツィタ夫人は、息子を失った今、いったい何を思って、何処に消えたのだろうか?エルフリーデは彼女の行方が気がかりだった。
「息子を殺した男の妻に成り下がったあなたになど、ツィタ夫人は会いたくないでしょう」
 突然、背後で聞き覚えのある声が、冷たく響いた。
「アウグスチーネ様」
 エルフリーデが振り返った先には、二年間待ち望んだ人物達の姿があった。
 エーリッヒの姉アウグスチーネと、その継母、異母妹のヨーゼファ、リヒテンラーデ公爵家直系のマリア・アンナとその母の五人だった。
「よくも私達の前に出られたものだわ。汚らわしい」
 仲の良かったマリア・アンナの声が、駆け寄ろうとしたエルフリーデを強固な壁で拒絶した。
 二年ぶりに会う友の顔に、かつての親しさはなかった。彼女は二年前、当時十歳になったばかりの弟をロイエンタールによって処刑されている。
 母親達は、積極的に罵りはしないが、目を背け無言で娘達に従っている。
 幼いヨーゼファは、母親にしがみ付き、その手をしっかり握りながら上目遣いにエルフリーデを凝視した。その視線が、やはり無言の非難を現している。
 エルフリーデは、一瞬、事態が飲み込めず、呆然と立ち尽くしていた。
 怒りよりも衝撃の方が大きかった。
 自分の将来を犠牲にしてまで、彼女達の赦免に奔走したのは、いったい何だったのだろうか?
「私は、この二年の間、とにかく皆様を一日も早く流刑地から開放させたい一心でした。たとえ誰と結婚しようとも、帝国貴族の誇りは失っておりません。ヒテンラーデ一族の血筋であることを忘れたことはありませんわ」
 それでもエルフリーデは、精一杯の反論を試みた。自分のやってきたことを簡単に否定されたくはなかった。
「血筋ですって? エルフリーデ、あなた、まだそんなものを信じていたの?」
 くすっと嘲りを含んだマリア・アンナの冷ややかな声が突き刺さった。
「おめでたいこと。よくって?エルフィー、血統で人間の価値が決まるなんて、ゴールデンバウム王朝が帝国を支配する為に都合のいいように、誤った価値観を植え付けてきたに過ぎないのよ。私はとうの昔から、それを知っていたわ。でも、旧体制の世界では決して口にはできなかった。今なら大声で言えるわ。その点だけは、新しい王朝を認めているの。人間の価値はね、血筋なんかじゃない。その人個人が生まれ持った能力や資質で決まるのよ。第一、血筋が全てなら、どうして公爵令嬢の私は男爵夫人で、伯爵令嬢のあなたは侯爵夫人になるはずだったの?お父様達が話しているのを聞いたのよ。私は、不器量で、いい縁は望めないだろうから、血筋だけを有り難がってくれる新興の男爵家にでも与えるしかないって。少なくとも、貴族社会では、美しいあなたは、醜い私よりも価値が上だって証拠じゃない。お祖父様だって、実の孫の私よりも、あなたをかわいがっていたわ。あなたの方が政略の手駒としての価値が上だと考えたからでしょう」
 マリア・アンナの言葉に、エルフリーデは、眩暈を覚えた。これまで一度として、本家の令嬢であるマリア・アンナよりも、自分が優位にあると思ったことはなかったし、彼女を醜いと思ったこともなかった。むしろ、女学院では常に首席を維持し、血筋も格上の存在であるマリア・アンナに、素直に畏敬の念を抱いてきたのだった。
 エルフリーデは、自分が美しいことは子供の頃から知っていたが、マリア・アンナの容姿について、深く考えたことはなかった。今まで父親似でやや肥満ぎみだった体型は、二年の流刑生活のせいですっかり無駄な肉が落ち、祖父に似た鷲鼻と切れ長の目が怜悧な光を放っていた。確かに美貌とは言い難いが、本人が言うほど醜いとは思えないし、理知的で大人びた容貌に、エルフリーデは自分にない魅力さえ感じていた。
 何よりもショックだったのは、仲がよかったと思っていたマリア・アンナが、今まで自分をそのように見ていたのだということと、旧体制の中枢に居たリヒテンラーデ家の人間の口から、これまで頑なに信じてきた貴族の優位性を一刀両断に否定されたことである。 エルフリーデは、何か反論の言葉を吐こうとしたが、予期していなかった展開に、言語中枢が一時的に麻痺してしまっていた。
「・・・・私は、自分があなたより上だなんて、考えたこともないわ・・・・」
 それだけ言うのがやっとだった。
「まあ、いつまでもそう信じたいなら、それでもいいわ。でも、あなたがどう思おうと、事実は否定できないわ。マリーンドルフ伯爵家だって、美しい令嬢のおかげで家門が安堵されたでしょう?現にあなただって、その美しい顔と身体が、ロイエンタール元帥のお気に召したんじゃなくって?・・・・エーリッヒ様だって・・・」
 えっ?と消え入りそうなマリア・アンナの最後の一言に、エルフリーデは、思わず問い返す言葉を呑み込んだ。
 もしかして、マリア・アンナもエーリッヒ様のことを慕っていたの?だとしたら、彼女の前で、無邪気に彼への思いを語っていた自分の、何と残酷だったことか。
「これ以上の議論は不毛でしょう。恩赦に尽力下さったことには感謝します。でも、私たちは、あなたのお世話にはなりません。亡くなった人達が浮かばれませんから。幸い、援助を申し出て下さる方がいるので、そちらで生活していくつもりです」
 沈黙を破ったのは、アウグスチーネの無機質な言葉だった。
「さようなら、エルフィー。もう、二度と会うことはないでしょう。あなたも、私達のことなど早く忘れて、これからは新帝国の元帥夫人として、漁色家の夫に飽きられないよう、せいぜい尽くすことね」
 マリア・アンナは、そう言うと、一同を外へ促した。
「ごきげんよう。“ロイエンタール夫人”」
 マリア・アンナは、最後にもう一太刀を浴びせると、他の四人を促して、貴賓室を出て行った。
 残されたエルフリーデは、暫く言葉を発することができなかったが、供をしてきた侍女に声をかけられて、漸く我に返った。
 泣きたい気持ちを抑えながら、残りの人々を仮住まいとして用意したコールラウシュ家の別邸に送り届けた。
 黙って成り行きを見守るしかなかった彼等は、邸に向う道中も、エルフリーデを何かと気遣ってくれたが、零れ落ちそうになる涙を抑えるのに精一杯だった。
 それでも、一通りの手配を済ませ、午後には帰宅すると、珍しくロイエンタールが休日で邸に居た。
「話は聞いた」
 同行した侍女が、先ほどの顛末を、体調を崩して邸に残っていたシュヴァイツァー夫人に電話で知らせ、夫人からロイエンタールに報告されたらしい。
 シュヴァイツァー夫人としては、自分の善意が踏み躙られて傷心のエルフリーデに、夫から何か慰めの言葉をかけて欲しいと期待してのことだった。
 しかし、次の瞬間に、金銀妖瞳の名将が発した一言は、期待とは程遠いものだった。
「ふん、お前の一族は、無能なだけでなく、恩知らずでもあるのだな」
 エルフリーデの中で、何かがぷっつりと切れた。その場に居合わせた全員が、一斉にロイエンタールに非難の目を向ける。
「お前なんか大っ嫌いよ!」
 カッと青い瞳が燃え、身体中に怒りの炎を纏うと、呆気に取られていた使用人達が後を追う間もなく、エルフリーデは、反射的に邸を飛び出していった。
 もう、一分一秒もこの男と同じ空気を吸っていたくなかった。
 小さなバック一つで広大な邸の門を出たエルフリーデは、二百メートル程の距離を走って大通りに出ると、そのまま勢いで、近くを流れていた無人タクシーに乗り込んだ。
 自動音声が、行き先の指定を促すのを聞いて我に返ると、咄嗟に思いついた以前家族でよく出かけた高級レストランのある通りの名前を告げた。
 車中で徐々に平静を取り戻したエルフリーデは、怒りがぶり返した。ロイエンタールには勿論だが、先刻のマリア・アンナ達にも腹が立ってきたのだ。
『なによ・・なによ・・。私の気も知らないで。嫌い・・・・もう、嫌いよ。あの男も、マリア・アンナも、アウグスチーネも・・・・皆大嫌いよ・・・・!』
 無人タクシーが、目的地近くに到着したことを告げると、エルフリーデは、生まれて初めて、バックに入っていたカードマネーを使って自分で支払いを済ませた。
 ドアが開き、外へ出るとうろ覚えの記憶を頼りに歩きはじめる。特に目的があってこの場所を指定したわけではない。とにかくあの場を離れて、タクシーを走らせることしか考えていなかった。
 はじめて一人で歩くオーディンの街は、地上車の窓から見る景色とは違い、どこか別の惑星のようだ。
 歩みを進めていく内に、エルフリーデは、次第に細い路地に入り込み、方向感覚が掴めなくなっていく。それを自覚し始めた時、突然右腕が強い力で引っ張られた。
 悲鳴を上げる暇もなく、次の瞬間にエルフリーデの視界に入ったのは、自分のバックをもぎ取り、一目散に路地を走り去る男の姿だった。
 それが、世間で言うところの「引ったくり」というものであることに気付くのに、エルフリーデは、数十秒の時間を要した。
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